5N.肥料
「その薬剤を全領地に散布することは出来ないのか?」
その、アウドおじさんの質問に応えるために、ヨーランダさんに、都市から、農地に向かう矢印を書いてもらった。
想定通りだね。
「方法は、無い訳じゃないんですよ。農村から都市に移動したエレメントを農地に戻します。」
この質問が出たら、ヨーランダさんに、矢印を書いてもらって、こう応えることは、助手さんに説明してある。
そう言った瞬間に、アウドおじさん、グルムおじさんは顔を顰めた。
お父さんは平然としている。理解していて平然としているのか、理解していないのかは判らない。多分……理解してないな。
文官の半数ほどはやはり顔を顰めている。
ふふふ。変に誤解しているよね。
「それは……。糞尿を農地に撒くということなのか?」とアウドおじさん。
そして、アウドおじさんの応答も想定していた。
江戸時代。江戸は世界有数の大都市になっていた。多分、その頃では世界最大の都市だ。
その都市の食生活を支えていたのは、周辺の農地で育てた米と野菜、江戸湾の魚介類だった。
周辺の農地に向けて、江戸の街中から肥を運んでいたと言う。
ただ、ここではそれはしない。
「いいえ。違います。下水道を整備して、下水処理場を作って、そこで肥料を作ります。」
「その下水道と、下水処理場とは、何なのだ?」
「まず、下水道とは、各家庭から出る汚水を流す、地下に作った溝のことです。
そして、下流でその汚水を集めて、浄化すると共に有効活用する施設が下水処理場です。
現在は、農地から都市に移った、植物にとって有効なエレメントは、御想像の通り、排泄物として各家庭に溜り、それらは川や海に廃棄されています。
先程の報告であったように、窒素は豆類を育てることで、増やすことができますが、リンとカリウム、硫黄は、土地からどんどん失なわれてしまいます。
それらを回収して、さらに、木炭灰、海産物の廃棄物も一緒にして、植物に必要なエレメントを回収、再利用できるようにするのです。」
「なるほど、各家庭から出る汚水を集めて処理して、農地に必要なエレメントを戻すということだな。」
それから、会場は、集団会議の状態になった。
仕切っているのはアウドおじさんだ。流石領主様だね。
今、領都マリムの人口は、d20,000(=41,472)人弱も居る。1年前に聞いたときには、2万人ぐらいだったから倍増している。
そりゃぁ大変だ。
それでも、農業、漁業を生業にしていた領地だから、食料の生産量はその人口を支えるのに必要な量の6倍ほどある。
それでも、このままの増加率だと2年ちょっとで、不足する。
それにしても、文官の人たちは優秀だね。
アウドおじさんが質問すると的確な答が返ってくる。
こちらにも度々質問が飛んでくる。それに応えていたら、いつの間にか、具体的な計画になっていく。
結局、領都マリムの最大人口をd600,000(150万)人とした計画を立てることになった。
本気かよ……。今の40倍近いよ。
でも、この増加率が続いたら5年でそうなるのか……。
話しているのを聞いていると、この領都の面積だと、大きな建物を建てても、この人数が最大限の収容数らしい。
人口の増加の状況は、凄まじいものがあって、このぐらいの計画を立てておかないと、破綻する可能性がある。
人口が増えてから、大規模な街の改造は無理。
もし、それ以上人口が増える場合には、他の場所に都市を作る。
地球で、こんな計画を立てる話を聞いたことは、無かったな。
大体、何かが不足してから慌てて対処だったよ。
文官さんたちの勢いに押されて、次に用意していた事を伝えられていない。
「えーと。もう一つ、考えなきゃならない事があるんですけど……。」
「ん。何だ?ニケ。他にも何かあるのか?」
アウドおじさんに問われて、もう一つの重要な話をする。
「下水を流そうと思ったら、水が必要です。
そうしないと、流れなくなって、詰ってしまいますから。
今は、地下水を汲み上げていますけれど、地下水でそんな人口に対応できるとは思えません。
川から水を引いて浄化して、供給する、上水道が必要なんです。」
そう言ったところで、助手さんたちにお願いして、最後の報告の紙を黒板に掲示した。手元資料も配布する。
本来は、ここまで説明して、計画を練るつもりだった。
将来の食料供給について、切羽詰っていたんだろう。
不安の核のような部分に触れたことで、途中から議論になってしまった。
これは、川から水を引き込んで上水にして都市に供給する。
そして、各家庭からの排水を下水として処理場に移送して浄化した水を川に返す循環システムだ。
その結果として、リンやカリウムなどを農地に返す。
例として上げたのは、コンビナートの給水、排水システムだ。
コンビナートでは川から水を引き入れて、水は、浄化して使用している。紙を作るために利用した水には、大量の植物のカスが含まれていて、それを分解、浄化して川に戻していた。
実は、これを作ったときに、都市での上下水道の建設を視野に入れていた。
やっぱり水洗トイレを使いたいじゃない。
ボットンは臭くて嫌だ。
コンビナートの浄水場と排水処理場と比べると、都市への水の供給や、下水処理は、もっと大掛りになるので、そのための基礎データ取りと、試作という意味があった。
一番気になっていたのは、活性汚泥処理だ。
この世界の好気性細菌がどの程度有機物を処理できるのか気になっていた。
結果は、問題が無かった。この世界でも細菌は良い仕事をしてくれている。
領地の上層部も文官の人達も、コンビナートを見ているので話が早かった。
「コンビナートで利用している施設を大きくして、領都に使用するということだな?」
「ええ。そうですね。ただ、飲料水として使用するのであれば、飲んでも問題が無い水にする必要があります。
川の上流で、動物の死骸などが腐敗したりすると、それが飲料水に混って、病気の元になってしまうかもしれません。
トイレを流す水に使うのであればそのままで良いですが……。
飲食に使う場合には、新たな薬剤で処理することが必要です。
当面は、私が魔法でその薬剤を供給しますが、それは、領地で新たに作ることもできます。
アイルが、コンビナートで使用する道具を作ってくれていますので、それが出来上がれば、その薬剤もコンビナートで大量に作れるようになります。
そして、その薬剤は、漂白にも使用することができます。」
皆の視線が一斉にアイルの方を向く。突然、話を振られたアイルが焦っている。
ねっ。アイル。皆が期待してるわよ。
最後まで報告が終ったので、様々な質問を受けた。休耕地になっている農地を復活するのにどのぐらいの薬剤や農薬が必要になるのか。上下水道を整備するための土地はどのぐらいの広さが必要なのか。などなど。
半時ほどして、アウドおじさんが、終了の宣言をした。
「ニケと助手の皆、ありがとう。とても有意義だった。
文官は、今回の結果を元に、農地と上下水道の計画を早急に作るように。
ニケの助手たちには、報奨金を出す。」
それからは、怒涛の如く、話が進んで行った。
何故か、街を改造することが前提になっているのだけど……大丈夫なんだろうか。
街の区画整理計画、上水道施設の設置場所の選定、下水道設置場所の選定。
各家庭に水を配送するための水道タンクの設置場所の決定。
下水溝の経路の設定……。
休耕地のリストアップと、それに使用する薬剤や肥料の量の算定……。
2週間も待たずに、計画は出来上がっていた。
まずは、浄水場の建設を実施した。まずは、d100,000(=248,832)人に対応する浄水場を造る。
建設用地は、同じものを8基設置できる余裕を持たせてある。
人口密度が大きかった日本では考えられない大きさだ。
端に立つと、霞んで、向こう端が良く見えない……。
川の上流に入水口を設けて、巨大なプールを作る。巨大な濾過装置を設置して、川沿いに水道橋を設置する。
続いて下水処理場を建設した。
こちらも、d100,000人に対応させた。
下水処理場は、川の河口付近の低地に作られた。
砂や石、金属などを除くための沈砂槽を通って、活性汚泥槽へ。
活性汚泥槽から沈殿槽を経由して、上澄みの水が砂による濾過を経て、排水プールに繋がっている。
排水プールでオーバーフローした水が川に戻される。
下水処理場も、今後の人口増加に対応するべく、広い敷地の1/8の面積を利用している。
活性汚泥槽は、4系統作り、時々1系統を停止することで、汚泥を回収して、肥料の原料にする。
全ての面積を利用したときには、32系統の活性汚泥槽を運用することになるだろう。
でも、それは、まだ先の話だ。
活性汚泥槽は、好気性細菌による有機物の分解を行なうので、常時攪拌と空気のバブリングが必要になる。
それらは、コンビナート同様、川の水を利用した水車の回転で駆動させた。
活性汚泥槽へ空気をバブリングするため、今回も圧力容器と軸流コンプレッサーを設置した。
この軸流コンプレッサーは、水車の回転で空気の圧縮をした。
下水処理場の臭気対策のため、最初の沈砂槽は暗渠にしてあり、処理場の周辺は高い壁で覆った。
私もアイルも手伝いに駆り出された。
浄水場や下水処理場は、私達の知識と魔法が無いと作れないからね。
移動は、当然、馬車だ。
この大型建造物の製造は、通いで4日で作ってしまった。
魔法、凄い。
下水のために、地下に下水溝を造るのは、アウドおじさんが大変だと思っていたけれど、私が思っていたのとは全く異なった進み方になった。
私は、領都民と交渉して、立ち退きや移住などをさせながら、街を作り替えて行くのだと思っていたのだ。
ところが、全然そんなことは無かった。
土地の所有権が国王にしか無いという事は知っていたけれど、国王から土地の管理を任されている領主の権力は絶大だった。
領民は、勝手に建造物を建てることはできない。
農村ではその制約は希薄なのだが、都市では、完全に領主の権限だ。
つまり、領都に居る人は、全て借家住まいだったのだ。
領主が作った建物を借りて住んでいたり仕事をしている。
領主が、建物を建て替えると言えば、無条件で、建物を明け渡さなければならない。
領都マリムの再建設についての布告が行なわれた。
その後、あっという間に、街は作り変えられていく。
そして、それを、領民も当然だと思っている。
これまでの領都は、建物は2階建てだった。
1年前までは、人口が変わらなかったから、それ以上増やす必要もなかった。
人口が増え始めてからは、横に広げることで対応していた。
これから増加する人口に対応するため、今回、作った建物は、全て6階建てになった。
そして、その6階建ての建物の屋上に給水塔を作っていった。
その給水塔へは、階数を増やしたことで、空いたスペースにその地区に水を供給する給水塔から水が供給される。
地区に水を供給する給水塔には、さらに大きな給水タンクから水が供給される。
ポンプが無いので、全て重力で水が供給される。
つまり、タンクの水位が給水塔の水位になる。
連通管と呼ばれる状態だ。
各建物の給水塔の底から水を各部屋に供給するので、どこかのパイプが破裂すると、全てのエリアで水不足になってしまう。
要所要所にバルブを設けた。
私達が造るのは、給水塔までだ。
各部屋への供給は、大量の曲げ継手、分岐継手、大量の長さの異なるパイプ、大量のバルブを作った。
材質は、後々面倒なので、ステンレスを使用した。
ステンレスは、付着物が有ると錆るので、地中埋設には向かない。
給水塔から各部屋までの配管なので問題は無いだろう。
既に、クロムの鉱山は、稼動を始めている。
そのため、クロムの入手に困ることは無くなっていた。
ただ、クロムを分離するのは相変わらず私なんだよね……。
何十万個もの、テーパネジ付きのパイプと継手、バルブを作ったのだけど、半日程度で作業は終了した。
同じ物を繰り返し作るのは、ほとんど手間が掛らない。
ただ、同じ作業をするので飽きてくるだけだ。
私もアイルも魔法の腕が上ったね。
文官と騎士さんたちが、給水塔に接続して、各家庭への水の供給配管を構築している。
建物の建設と同時に、埋設下水溝を道路の地下に設置した。
こちらは石造りだ。
各家庭からの排水は、建物の地下の下水槽に流され、下水槽から道路の地下に埋設されている埋設下水溝に流れていく。
下水溝で集めた汚水は、下水処理施設に集められた。
そもそも、これまでの街では、汚物は、道に廃棄することが多かった。
というより、殆どの排泄物は、道に流していた。
街は遠目に見たり、馬で移動していただけなので、知らなかったけど、そうとうバッチイ状態だったんだな。
これまでは、街全体が異臭に覆われていた。
それが、異臭の無い綺麗な街になった。
上下水道が完備した領都マリムは大きく変貌した。
大きな建物と広い通り。
白い高層の建物。
清潔な環境。
ウィリッテさん曰く、王都よりも格段に清潔で便利な街だって。
他の王国のことは判らないが、ガラリア王国と大差ないはずだ。
つまり、領都マリムは、この大陸で、最も先進的な都市として生まれ変わったことになる。
街の整備が一段落したら、今度は、領内の休耕地の対応になった。
当面は、私が魔法で作った、リン酸カリウムや硝酸カルシウム、硫酸アンモニウムなどの混合物を配布していった。
しばらくして、下水処理施設が稼動し始めた。
微生物により分解された汚泥は、多少の臭いがあるものの、問題なく肥料に使用できた。
ここからは、文官さんたちの仕事だ。
ようやく私の手が掛らないようになった。




