3.この世界
赤ん坊なので、まだ自由に動くことはできない。ようやく寝返りができる状態になった。ベッドの上で、あっちへいったり、こっちへいったりしてみるだけ。
時々座らせてもらうけれど、バランスを崩すと元に戻ることはできない。
退屈するかといえば、まだ、この体は出来上がっていないのか、ただひたすら眠い。退屈を意識する前に寝ている感じだ。
最近ようやくオマルを跨いで、用を足せる状況になった。精神的に大人の私にとって、あの屈辱的な羞恥心との戦いは終わったと言えよう。介護される老人達の気持が何となく分った。
起きているときには、母親がやってきてくれて、流動食もとい、おっぱいを飲ませてもらう。母乳が逆流して気管支を塞いでお亡くなりになる赤ん坊は多いらしいので、自分から積極的にゲップをする。
しかし、ここの女性は、羨しいほどに、胸が大きい。
小、中、高校、大学と剣道をしていた私は、胸があまり大きくないのはメリットと思っていた。
違うということに気付いたのは、米国に行っていたとき。あの頃は、大人の女性として見られていなかったなぁ。遠い記憶が蘇えってくる。
お母さんはグラマー美人で、お父さんはムキムキでハンサムだ。これは、私の将来の安心材料だ。
二人とも古代ギリシャの彫像が動いている様だ。そう思うのも、着ているものが、古代ギリシャの彫像そのものだからというのがある。
観察していると、本当に古代ギリシャなんだよね。この世界は。
多少は、言葉を覚えてきたので、色々聞いてみたい。ただ、この世界の言葉の単語が分らない。
最初に私が聞いたセリフは、「ここ、どこ?」なんだけど。
まあ、漠然としているよね。質問が。
家の中とか、街の名前とか、国の名前とか回答のバリエーションが沢山ある。間違ってなければ、その時の回答は「子供部屋」だったみたいだ。
ここは、何という国で、何という街で、この建物はどこに建っていてとかを聞こうと思っても、日本語の『国』や『街』などの場所を表わす単語を知らないと聞くこともできない。いろいろな物やコトをこの世界の言葉でどう言うのか分らない。だから聞くこと自体ができない。
本当に聞きたいのは、なぜ私は赤ん坊なのか、ここは何という国なのか、恭平はどうなったのか、両親や妹はどこにいるのか、日本はどこなのか。
といったことなのだが、ここの人達に分るのかどうかすら判らない。
少しずつ日常会話が出来る程度には単語を覚えた。
ただ、知らない単語がでてきて、「○○て何?」と聞こうものなら、さらに知らない単語が出てくる。
始めて英英辞典を使ったときのことが思いだされたよ。
そんな状態を忍耐で乗り越えて、かなりボキャブラリーは増えてきた。
この世界を観察しつつ、会話をしていくことで、この世界のことが段々分ってきた。
私の生まれた家は、グラナラ家。
私のお父さんは、領地の騎士団長をしていて、領内では2番目に偉い。母方のお爺さまは、ガラリア王国の王都ガリアにいて、近衛騎士団長という騎士の中で最高位の職に就いている偉い人だ。
アトラス領の領主は、子爵という永代貴族で、グラナラ家は、お父さんが騎士団長を勤めているため、騎士爵という1代貴族だ。お父さんが騎士団長を辞めたらどうなるのかを聞いてみたら、大丈夫と言われた。
300年ほど前に東部大戦という大きな戦争があった。その戦争は、ガラリア王国と、隣国のテーベ王国との戦争だった。
その時に、ガラリア王国の窮地を救った英雄の名前がガリム・サンドル、その時に、ガリム・サンドルを助け、供に戦ったのがグラナラ家なのだとか。
その子孫のアトラス家が、ここアトラス領に封じられた。アトラス領ができてからこれまで、アトラス領の騎士団長を勤める一族としてグラナラ家はアトラス家に仕えている。
そういった訳で、私は、騎士団長が勤まる男性と結婚するか、弟が生まれたら、弟を騎士団長にすることが決定事項なのだって。そんな話赤ん坊にするのか?
ガラリア王国は、この世界で5つある大国の一つで大陸の一番東にある。
アトラス領は、ガラリア王国の東の端にある。つまり、ユーノ大陸の一番東にある領地だ。ユーノ大陸は、西に行くほど古い領地になる。西から東に向けて開拓してきた歴史がある。つまりアトラス領は最も新しい領地だ。言い方を変えれば、未開の土地が多い所になる。
未開の土地には魔物がいて、アトラス家の先代と、グラナラ家の先代、私にとっての父方のお爺様は、魔物との戦いで負った怪我で亡くなっている。
ざっと、この世界はこんなところらしい。
あるとき、お父さんに強請って剣を見せてもらった。
それは青銅製だった。
『鉄』じゃないことが驚きだった。ただし、この世界での『鉄』を意味する単語が分らなかったので『鉄』の有無の判断はできていない。
確実に言えることは、この世界に『鉄』があるのに、騎士団長の剣が青銅製ってのは無いだろう。
ということで、今のこの世界は青銅器文明まっただ中のようだ。そうだとすると、古代ギリシャよりさらに前の時代だよ。
青銅器文明にありながら、聞いたことのない大きな王国が5つ大陸にあって、大陸の名前がユーノ大陸。
この大陸の西の端から、東の端まで、国がある。
うーん私の世界史の記憶では、合致する状況が思い浮ばない。
やはりこの状況からすると、異世界に転生してしまったと思うしかない。でも、そんなことって本当に有り得るのだろうか。ま、私が記憶を持ったまま赤ん坊になっている段階で、異世界転生は頭を過ったけれどもねぇ。
あとは、一旦文明が滅んで、また歴史を作っている最中だとか。まぁ、地球の状況を考えると何時滅んでもおかしくなかったのだけれど。
そもそも、ここは地球なのか?
考えても判りそうもないことは考えてもしようがない。
いずれにしても、はっきりしたことは、お父さんやお母さんや妹に再び会えることは無いということ。恭平とも再び会えることは無いんだろうなぁ。少し悲しくなってしまった。
それでも、転生したのなら、地球の頃の知識を使って、化学者無双をしてやろうじゃないか。
『化学』という言葉は何というのだろう。きっと無いのだろうな。
『錬金術』か?これも単語が分らないな。
そうそう、『魔法』は無いのか?これまで会話したなかにそれらしい単語はなかったな。異世界、古代文明とくれば、『魔法』でしょう。うーんどうしたら、『魔法』のことが聞けるのだろう。
『魔法』のことを聞こうと思って、「なにか呟いて、水が沢山出ること。」とか、「なにか呟いて、火が出ること。」などと言ってみた。
だけれど、「何を呟くのですか?」と反対に聞かれてしまった。そんなこと分る訳ないでしょ。
そんなフラストレーションを拗らせながら、毎日楽しくお母様と侍女さん達とお話しをして過していた。
そうそう、私の世話をしてくれていた女の人達は、侍女さんというらしい。
貴族の家出身の人も居る。跡継ぎではない貴族の娘は、他の領地の貴族などの大きな家で働いて、花嫁修行する。そのままその領地で良い人を見付けて奥さんになったり、実家に戻って、他家に嫁いだりする。そのため若い女の人が多い。
一方、跡継ぎでない貴族の男の子は、騎士になったり、大きな商店の跡継ぎ娘の婿さんになる。
侍女さん達と話をすると、どこの誰が誰とくっ付いたとか、誰が誰に告白したけど振られた、といった話がとても多い。
ま、若い女性はどの世界でも、恋バナや噂話が大好きなのは変わらないね。
ただ、話かけているのは、赤ん坊なんだけど、それで良いのか。
しばらくすると、立って歩ける程度に成長した。
ここまでが長かった。
やっと人間になった気がするよ。
正月になった。この世界では、正月に一斉に歳を取る。昔の日本の数え歳みたいなものなのか。
もう少し経つと、生まれて1年になる。ここでは、1年経たずに死んでしまう赤ん坊がとても多いらしい。そのため1年が過ぎるまで、赤ん坊は家の中で育てて外には出さない。
なぜ、天気の良い日にも部屋の中にいるのか不思議だったんだ。それが理由だったんだね。納得した。
領主の息子さんも、私と同じで嵐の日に生まれたらしい。1年が過ぎたら、領主館に連れていってくれると言っていた。その時にその子とも会えるらしい。少しだけ楽しみだ。