47.紙の製造法検討
朝になった。
朝食の時、アイルは、日本語で、なにやらブツブツ言っている。
何か話しかけたそうな感じだったので、メガネの製造の件はどうなっているのか聞いてみた。
これまで、レンズを作ることに集中していて、メガネフレームの事を忘れていたと言う。まあ、いつものアイル(恭平)だね。
『それで、どうするの?』
『うーん。どうしよう。』
『そんなの、ボロスさんでも呼んで、相談すれば良いじゃない。』
『えっ、でも、材料の手配をお願いしているから、領都に居るかどうか分らないよ。』
『そんなこと、ボロスさんが、直にやってる訳ないじゃない。店の人を使って材料を運ばせてるよ。まず、連絡したら?』
『そうか。そうだな。あの忙しいボロスさんが、自分で素材を取りに行くはずは無いか。ありがとうニケ。』
こやつは、転生しても全然性格が変わらんな。
頼りになるんだけど、頼りない。
コミ障だけど、一度動き出したらとことんやる。
いろいろ情無いところがあるんだけど、惚れてしまったんだよな。
昨日は座学で終ってしまったけれど、製紙の手順は一通り説明できた。
あとは、漂白剤なんだけど、こればっかりは、アイルの手助けがないと、安全に操業できる気がしない。
漂白剤生産で一番安全なのは、電気分解なんだよね。
海水を電気分解すると、塩素と水酸化ナトリウムができる。塩素と水酸化ナトリウムは勝手に反応して、次亜塩素酸ナトリウムになる。他の金属イオンや陰イオンもあるから、それほど単純じゃないけれど。
この反応で他に発生するのは水素ガスだ。まあ、発生量は電流で制御できるはずだし、空気中に放出してしまえば、薄ければ危険もないだろう。
中国発祥のウィルス疾患がパンデミックになったときに、家庭用の次亜塩素酸ナトリウムの作製装置が一気に普及したな。
ただねぇ。安定した直流電圧が必要。電圧が低すぎると反応が発生しない。電圧が高すぎると、不要な反応が発生して最悪爆発したりする。
ただねぇ、電気だよ。発電機が無いとどうにもならない。
過酸化水素は、日本では、アントラキノンを使った自動酸化反応で作っていた。
触媒が要るし、そもそもこの世界で、魔法無しに反応に使う有機化合物を準備することができるとは思えない。
過酸化水素を生産する方法としては、過酸化バリウムと硫酸を反応させる方法がある。
酸化バリウムをある特定の高温に加熱すると、過酸化バリウムになる。それを酸と反応させると過酸化水素と酸とバリウムの塩になる。
炭酸ガスを使う方法は他との組合せを考えて、良いかもしれない。沈殿物を乾固したら高温で焼いて酸化バリウムに戻せるかもしれない。
ただ、炭酸バリウムの分解は他のアルカリ土類金属のなかで最も高温が必要だ。
次亜塩素酸化合物は、金属水酸化物に塩素ガスを反応させれば作れる。
問題は塩素ガスだ。酸化マンガンと塩酸を反応させればできるはずだけど。
そして、これが昔主流だった漂白剤の作製方法だ。
どうやって、安全に生産していたんだろう。
ひょっとすると、安全性は無視していたかもしれないな。
塩素ガスは致死性のガスだ。漏れたりしたら、人が死ぬ。何しろ第一次世界大戦でドイツが化学兵器として使っていた。
塩酸も作る方法はいろいろあるのだけど、何もないところから作るんだとすると、塩化物と硫酸を反応させるかな。ああ、さらに硫酸が要る。
硫酸の作り方も問題だ。二酸化硫黄に硝酸を作用させる。こんどは硝酸か。
それを避けようとするのなら、明礬を乾溜するか?いや、どんだけ時間が掛るか分ったもんじゃない。量も取れないし。ボツだな。
いずれにしても毒劇物オンパレードだよ。
こっちは、さらにちゃんとした装置が無いと危険すぎる。
『ねぇ、アイル、相談したいことがあるんだけど。』
『ん?何?』
それから、漂白剤の生産について相談した。
電気が有って、海水を電気分解して次亜塩素酸塩を作る方法。
次に多分安全なのは、過酸化バリウムと炭酸ガスによる水を酸化して過酸化水素を作る方法。
昔主流だった、金属水酸化物と塩素ガスを反応させる方法。これは、塩素ガスが必要。塩素ガスを発生させるためには、塩酸や硫酸が必要になる。
『また、やっかいな状況だね。化学プラントを建てる訳だ。』
『漂白剤が無いと、藁半紙みたいな色の紙になっちゃうのよ。それでも良いんだったら、そのままだけど。
漂白剤は、布にも使えるから。それなりの量が欲しいんだよね。』
『それは……。紙は白い方が良いけど……。』
『ねぇ。どうしたら良いと思う。』
『発電装置は、作れるようになると後々嬉しいから、何時かは作ろうと思っていたんだよね。
一定電圧の直流か。電子回路も必要になるな。
まあ、大規模の発電装置を作る前のテストプラントとしては丁度良いかもしれないね。』
『えっ。発電機作ってくれるの?』
『ただ、それなりに時間が掛るから……。
素材はニケに完全に依存することになるし……。
紙の立ち上げに間に合わない事も想定して、他の方法も準備しておいた方が良いと思うけど……。
最後の方法は、硫酸や塩酸や塩素ガスの取り扱いが有るんだよね。
それ、この世界でやっても大丈夫なの?』
『そこなのよ。問題は。
かなりちゃんとした保存タンクを作らないとならないし、どうやって輸送するのかも問題だし。
廃棄物をどうするかというのも考えなきゃならない。
本当に安全性を担保できる条件が揃わないと、事故になるかもしれない。』
『それじゃぁ、繋ぎとして、そのバリウムってやつで漂白剤を作ってみたら?
それなら、今の状況でも炉があれば何とかなるんじゃない?』
『そうね、そうするわ。
それでね。アイル、手が空いたら、発電機や紙の製造装置をお願いできないかな。本当は天体望遠鏡を作りたいのは分ってるんだけど。お願い。』
『わかったよ。天体望遠鏡の設計している最中に、声を掛けられて中断されるよりは、先に紙の製造を片付けちゃった方が良さそうだからね。代わりに試作した紙はなるべくこっちに回してくれよ。』
『ありがとう。アイル。大好き。』
そう伝えたら、みるみるアイルの顔が赤くなっていった。
オイオイ、本当に、転生しても性格が変わってないな。
それから、アイルは侍女さんに、ボロスさんに来て欲しいと伝言を頼んでいた。
私は、研究室に移動した。
アイルに発電機を作ってもらえることが決まった。よかった、ただ時間が掛るのだろう。
当面は、繋ぎとして、過酸化バリウムの酸化反応で作った過酸化水素水を使うことにする。
そうすれば、バリウムは毒物で注意が必要、そして水酸化ナトリウムは危険物だ。
そうそう、バリウムから作った過酸化水素も要注意。
ただ、それほど濃度の濃いものは作らないようにすれば大丈夫。
酸化バリウムから過酸化バリウムを作るのには、高温研究室の炉を使うことにした。
アイルがレンズ用の素材や鋳物を作っているので、いくつかあった炉のうち、一つだけを使わせてもらうことにした。
過酸化バリウムの生成には温度域がある。500℃以上、800℃以下だ。温度を高くしすぎると、過酸化バリウムは、酸化バリウムに分解する。
過酸化バリウムは水に僅かに溶けるだけ、でも、酸化バリウムは水とは激しく反応する。
未反応の酸化バリウムが有るかもしれないので、水と反応させるのには注意が必要だ。
過酸化水素の濃度を上げすぎないようにするために、厳密に混合する重量を決めた。
手伝いの人が、白衣(割烹着)を持ってきた。
人数分よりかなり多めだった。洗濯して使うためかな?
なぜか、色々な色をしていた。
漂白剤の工程については、昨日の段階では説明しなかったので、まず、それを説明した。
漂白の効果を考えると、水酸化ナトリウムでリグニンを分解した後で漂白をするのが良いだろう。
水酸化ナトリウムで繊維を煮たあと、繊維にアルカリが残っていないかを判断するために、アントシアニンの試験紙を作った。
アントシアニンは、果物に含まれている色素だ。アルカリ性で青くなり、酸性で赤くなる。リトマス試験紙みたいなものだ。
ベリー系の果物が沢山あるので、その果汁で染めてみた。まあまあ上手く色は変わってくれる。
これで、全ての化合物や実験の手順について説明したので、今日から実際の作業に合わせたビーカーテストをすることにした。
ビーカーテストというのは、机上で化学器具を使った実験のことで、別にビーカーでテストする訳ではない。
化学薬品を使う工場の事をプラントと呼ぶが、そこに至るまでの最初の一歩だ。
これは、通常、ビーカーテスト、ベンチテスト、パイロットプラント、実プラントの手順を取る。順番に規模が大きくなっていく。
ベンチテストでは、実プラントの雛形のような小型装置を組み上げる。
ビーカーテストで、小型装置を作るために必要なデータを取る。
化学プラントは基本連続運転だ。途中で止めようと思ってもそう簡単ではない。
反応途中の薬品が、そのままで居てくれるとは限らない。一定の手順を踏まないと危なくて停止することもできない。
そのため、工程毎に発生する事象をこと細かに検討する必要がある。
今回の場合規模が小さいと思われるので、ベンチテストか、パイロットプラントテストで完了になると思う。
工程を要素となる部分に分解して、それぞれの作業を実施する場所を決める。
最初の工程から順番に、気を付けないといけない項目、危険として何があるのかを皆で洗い出していく。その工程で確認不足だったため、後の工程で問題が発生することもある。そういった項目を潰していく。
その上で、作業に必要な道具、薬品を揃えて、置いていく。
実際に作業をして、その工程で投入する材料の量と作業時間を測っていく。
これで、連続して運転する時のマテリアルフローを計算することができる。
ウィリッテさんとカイロスさんには記録係をしてもらった。二人と助手さん達は、アイル謹製の懐中時計を持っている。
カイロスさんは、まだ6歳なので、体格の面で、実作業してもらうには無理があるからね。
そうやって、順番に工程のチェックとデータ取りを進めて、全ての工程が完了するのに2週間弱かかった。
セルロースの懸濁液から紙を作る部分は、アイルの手が空いているときに、ちょっとした道具を作ってもらった。
細かな網がベルトコンベアのベルトのように、二つのローラーの間を移動する。
片方のローラーの脇の網の上面に懸濁液を一定量連続して降り掛けて、網が移動する間に懸濁液の水を切る。もう一方のローラーのところで、網から、紙を剥す。
その先にある2本のローラーに挟んで紙をプレスする。そして、乾燥。
これで、連続して紙を作ることができるのを確認した。
全ての工程の確認が完了した。
それ以降は、全ての工程に人を付けて、連続して全ての作業を同時に実施できるか確認していった。
私は、最後の乾燥工程で、ひたすら紙を乾かす役だ。実運転では、乾燥するために温度を上げた小部屋に紙を通すことになるだろう。
あまり、問題が発生するとも思えないので、乾燥部屋は準備せず、私がオーブンの代りになった。
原料の投入量が適切か、ボトルネックになる箇所が無いかなどを確認する。
何度か、作業を実施して、問題となる部分を議論して、なんとか基本的な工程の検討を完了した。
あとは、実際に投入する人員と運転時間を確認しなきゃならない。
リリスさんと相談する必要がある。
侍女さんに、翌日の午後にリリスさんに来てもらうように連絡してもらった。




