44.紙
訪ねてきたのは、リリス・ボーナさんと言う、中年の綺麗な女性だった。
ボーナ商店は、領都マリムで最大の服飾製品の商店と聞いている。
女性と男性の従業員という人達がお付きでいっしょに来た。
「はじめまして、ニケ様。リリス・ボーナと申します。この度は、お声掛けいただいてありがとうございます。
伝え聞いたとおり、とても可愛らしいお嬢様でいらっしゃいますね。
宰相様からは、糸について興味がお有りだと聞いておりますが、どのような事に興味がお有りなのでしょう?」
可愛らしいと言われると、テレるな。
杏樹だったころは、そんな事言われたことがない。
剣道をしていた所為か、同級生には恐れられていたかもしれない。
それにしても、リリスさんは、物腰も柔らかで、表情も和やかだ。
ただ、目だけは真剣な眼差しだね。きっとボロスさんの躍進の噂は知っているんだろうな。
リリスさんから、布に使っている糸の原料を聞いた。
糸の原料は、羊毛と植物が3種類。
植物を同定しようと思って、植物の特徴をあれこれ聞いてみる。
種が白い細かな糸の塊になるって、『綿』のことだろうか。
あとの2種類は、茎が糸になる草だ。『麻』の類いなのだろうか。
一つは、実が生って油を取った後の茎の部分から糸を採る。
あっ。『亜麻』だね。油は『亜麻仁油』だろう。
もう一つは、細い葉が7つから9つ一つの場所から生える。なるほど、こっちは『麻』だね。
素材を糸にするまでの作業を色々聞く。
この世界でも、糸を作るためには、撚って糸にする。
紙を作るには、撚る前の状態で細断した方が良さそうだ。
布や糸になる植物が何処で採れて、どのぐらい流通しているのかを聞いてみる。
綿も、亜麻も、大麻も領地で栽培していると言う。
ボーナ商会では、いくつもの農村と契約をして、安定して仕入れている。
農村によっては糸を紡いで納入して現金収入を増やしている。
僅かながら、布を織って大きな収入を得ている村もある。
収穫量を聞いたあたりから、段々口が重くなってきた。
うーむ。疑念が溜ってきたみたいだな。
私が何をしたいのか意味が解らないだろう。
そして自分が呼ばれた意図も。
ただ、こればかりは魔法でパっと見せることができない。
セルロースを魔法で取り出せたら、見せられるんだけどね。
仕方が無いな。糸か布を買って、紙を試作してみようか。
幸い、ソロバンや鉄やガラスの収益で考案税がガッポガッポ入ってきているので、お金の工面は全然問題ない。
というより、これから、何もしなくても生活するのに全く困らないぐらいのお金が入ってきている。
「リリスさん。お願いがあります。綿と亜麻と麻の糸か布を売ってほしいのですが。」
「ええ、それは構いません。というより、今日、お持ちしているのですよ。
お金は要りませんので、お受け取りください。」
後ろに控えていた男女の従業員さん達が、持ち込んでいた袋の中から、色取り取りの布を出した。
おぉっと。カラフルな布が沢山出てきたよ。紙を作るのに染色された布は要らないよなぁ。
どうしよう。お母さん達にあげてしまっても良いけど。
「あの。染色されていない布はありますか?」
「はい。やはり白い布は基本ですよね。」
そう言って出してきた布は、白というより薄めのベージュ色かな。
「これは、どうやって白くしたのですか?」
「長い時間を掛けて、日に晒しているんですよ。
そういう訳で、染色した布よりお高くなっております。」
なるほど、太陽光の紫外線で、リグニンを分解したということか。
晒し粉とかは無いんだね。
なんとなく、リリスさんが前のめりになっている。話が少し、具体的になったからかな。
初期投資のつもりかな。受け取れ、という感じの目が怖いんだけど。
要らないとは……言えないよねぇ。
まだ、布を作る繊維で紙を作れるかは未確認なんだけど。
たしか、コットンペーパーとか、麻紙とかがあったと思うから、作れるのは作れるんだろうけど。
あと、漂白方法も考えないと。
うーん。どう説明しよう。
これまで同様にまた来てねというのが良いかもしれないけど、検討に時間がかかりそうだしなぁ。
魔法を少しだけ使えば、紙を目の前で作ってみせることはできるかなぁ。
あと漂白剤を見せたら、かなり食い付いてきそうな気がする。
漂白剤はどうしようか。
プランとしては次亜塩素酸塩と過酸化水素のどちらか。
どちらも何ステップかの化学反応が必要だ。
今の段階ではどちらが良いのか判らない。
電気分解ができれば、次亜塩素酸ナトリウムの一択なんだけど。
電気かぁ。
発電機が必要になるよね。
問題はどうやって発電機を回して一定の電圧の直流電流を得るかだよなぁ。
あれ、燃料電池って可能性もあるのか。
海水から次亜塩素酸ナトリウムを作ると水素が出来るからそれを使って発電するとか。
いやいや。効率を考えると、やっぱり発電機は要るな。
なんて事を考えていたら、リリスさんの表情が困惑気味になってきた。
まずい、まずい。話を進めなければ。
「実はですね。糸の原料を使って新しいものを作りたいと思っているんです。
それは、布になっているものからも作れるんですよ。
ただし、色は白いものが良いんです。
それでですね。今から2種類の実験をしようと思うのですが、お時間の方は大丈夫ですか?」
「ええ。時間は大丈夫です。今日一日は仕事を別の者に任せてきましたので。
それで、何を作られるのですか?」
「一つは、『紙』というものです。これは、木簡の代りに字を書いて記録するのに使うものです。
もう一つは、その『紙』や布を白くするための薬品です。」
「白くする薬品ですか?それは白い色で染めるということですか?」
ふむ。
紙にはあまり食い付かないね。
紙は、世の中を一変させるような大発明だったはずなんだが……。
白い染料か。
染料って、光を吸収して色が付くんだよね。
白い顔料ならまだしも、白い染料って無いよね?
漂白って、白く染めてる訳じゃないんだけど。
説明がかなり面倒だな。
「それでは、少し準備がありますので、準備している間に説明します。
その前に、2階の実験室に移動しましょうか。」
助手さん達に頼んで、海水を汲んできてもらうように頼んだ。
実験の場所は、2階の実験室にした。
水で洗ったりするのに、流しが必要だよね。
2階の実験室に移動したらリリスさんは、まわりのガラス器具を見て、吃驚していた。
真ん中に置いてあるテーブルに着いてもらってから、白い染料というものは多分無いこと。
これから準備する薬品は、色を付けている物を壊して、色が無くなるようにするものだということ。
紙は、糸の原料になるものから作れることなどを説明した。
助手さんが、海水を持ってきてくれたので、早速実験しよう。
先日アイルが作ってくれたステンレスのバットに水を入れて、海水からは魔法で次亜塩素酸ナトリウムを作ってその中に入れた。
やっぱり臭うね。窓を大きく開けてもらった。
もうひとつのステンレスバットに水を入れて、水を過酸化水素水に変えた。
出て来た泡は水素かな。こっちは当然ながら臭いはしない。
ステンレスのバットは、両方ともに窓の側に置いてもらった。
比較のための色の付いた布と、麻と亜麻と綿の白い布を小く切ってそのバットの中に浸ける。
麻も亜麻も綿もベージュ色だ。
色付きの布はしだいに色が薄くなっている。よしよし。
「こちらの薬品の効果が出るのには少し時間がかかるので、その間に『紙』を作ってみましょうか。
本当は、こんなに綺麗な布を使いたくは無いんですよ。
糸を作るのにも、布に織るのにも手間がかかっていますもの。
ただ、申し訳ないのですが、今回はこれを使わせていただきますね。」
そう言って、多分亜麻の布を少し大きめに切って、そのあと、細かく切り刻んでいく。そして織りを解す。
少しだけ、リリスさんが怪訝な表情をする。
まあ当然だろうな。
念のため、お湯の中で煮る。
セルロース以外の有機物を取り除くためだ。
リグニンも多少は分解するかもしれない。
気休めだけど。
その後、濾過する。
濾紙なんてないから、高温耐熱レンガを薄くスライスしたものを使っている。
多孔質の良い感じのものって、これぐらいしか思い浮ばなかったんだよ。
団子になっている繊維を板の上で、捏ねながら、横鎚で叩いてもらう。
繊維を解すためと、毛羽立たせて、絡みやすくするためだ。
これは力の強い騎士さんにお願いした。
最初は、漂白が気になっていたリリスさんも、見たことのない実験の様子に興味を持ったみたいだ。
色々質問をしてくるようになった。
せっかくの布を完膚無きまで粉々にしているのだから、気になるよね。
一頻り叩いてもらった塊を少し千切って、バットの中に入れてもらい、水を加える。水に解く、懸濁液になったところで様子を見る。
セルロースは比重が1.5ぐらいで、水より重いから、底に沈んでいく。
水とセルロースの量の調整をして、底の金属光沢が見えるか見えないかぐらいの濃度にする。
最後に一度完全にかき混ぜてから静置した。
セルロースが底に沈んでいったあたりで魔法で水を少しずつ取り除いていく。
生乾き状態になったら、ビーカーの底を使って、平らにしてもらう。
その後、魔法で一気に水を除いた。
バットから剥したものは、いい感じに紙になっていた。
その後、材料が無くなるまで、紙を作り続けた。
バットサイズの紙が9枚出来た。
耳の部分が少し厚めだったので、周辺を切り取る。
「リリスさん。お待たせしました。これが『紙』です。」
「これは……。布……とは違うものですね。それに薄いですね。それに硬い。」
リリスさんは、紙を手に取って眺めている。
「先程、木簡の代りになるものと仰っていましたけれど、これを木簡の代りに使うのですか?」
「ええ、そうです。字を書いてみましょうか。」
助手さんに、ペンとインクを持ってきてもらって、文字を書いてみる。
よかった。滲まないよ。
いやー、ヒヤヒヤものだ。やっぱり打っ付け本番は心臓に悪いよ。裏には滲んでいるな。
インクは要検討というところか。
別に、意味のある言葉なんか書くつもりはなかったので、文字を一通りと数字を書いてみた。
「このカミには字が書けるんですね……。それに木と違って、白いので、インクの字がはっきりしていますね……。」
そう言いながら、目の色が変わってきた。
うん。知っているよ。
ボロスさんと同じ目だ。
「ニケ様!これを!カミを是非。当商会で作らせていただけませんか。」
「ええ。もちろんです。そのつもりで、作る過程をお見せしたんですから。ボーナ商会では、原材料もお持ちですよね。
今回のように、布を壊して『紙』を作るのは、色々とムダです。是非、原材料のところからカミを作ってみたいと思っています。
あっ。でも、古着で、継ぎ当てできないほど布が弱くなってしまったものは、壊して『紙』にするのは良いと思います。」
「でも、古着は色が着いていますよ。」
「ええ。だから、さっきの漂白なんです。」
リリスさんは、目をしばたいていた。
忘れちゃってたんだな。
さっきまで、漂白の方が気になっていたはずなんだけど、紙の商売のことで完全に頭が切り替わちゃったんだな。
助手さんに頼んで、窓際に置いてもらったステンレスバットを机まで持ってきてもらった。
臭いがまだまだ残っているな。
臭う方が次亜塩素酸で、こっちが過酸化水素か。
うーん違いがあまりないな。
どちらかというと次亜塩素酸の方が効果が強そうだ。
ただ、濃度がいいかげんだから、本当のところは判らないね。
臭うので、魔法で一気に水分と薬品を除いた。取り除くときには、次亜塩素酸は食塩に戻して、過酸化水素は水に戻したよ。
「えぇっと。どれが色の付いていた布だった?」
助手さんに聞くと、一番奥の布のようだ。良く見ると僅かに色が残っているような気がする。
この世界の染色は、漂白剤にかなり弱いみたいだ。
もう染色した色は残ってないよ。
他はというと……。
これなら白と言っても良いかもしれない。
ただ、かなり薄くなったと言っても、ベージュっぽい色が残っているけど。
まあ、初回ならこんなもんだろ。
「こんなに白くなるんですか!こんなに白い布は見たことがありません。」
リリスさんが布を手にして、興奮して叫んでいる。
よかったよ。喜んでもらえて。打っ付け本番は疲れる。やれやれだ。
さて、これからお願いだけど、これなら、真剣に対応してくれるだろう。
「それでですが、リリスさん。今回の方法は、一部魔法を使っていますので、私以外には出来ないのですよ。
そこで、リリスさんのところで、漂白と、紙の製造が出来るように検討したいのです。
色々とご協力お願いできませんか?」
「えぇ。もちろんですとも。何なりと仰ってくださいませ。」
「それで……。今は冬なので無理かもしれないのですが……。
綿と亜麻と麻の糸にする前の素材をお持ちではないでしょうか。
もし、ありましたら、それを頂けませんか。」
「わかりました。未加工の素材は倉庫にありますので、明日にも運び込みます。どのぐらい必要ですか?
d100キロですか?
d1,000キロだと少しお待ちいただくことになるかもしれません。」
うわっ。すごい勢いと早口だ。
「いえ、そんなには……。ではd20キロほどお譲りいただけますか。料金はお支払いしますので。」
「とんでもありませんわ。お譲りします。
あと、何か必要なものはありますか?」
何か気が急いてないか。これ。
「あとは、そうですね。検討の作業を手伝ってもらう人を何人か貸してもらうことはできますか。私は、まだこんな歳なので、助手さんに手伝ってもらわないと何も出来ないんです。そして、ボーナ商会にも検討の経過や考えかたを知ってほしいと思います。
薬品を使う作業なので、万が一、薬で体を痛めてしまうと問題ですから。」
「わかりました。ウチの染色工程でも、多少危険な作業をします。染色を担当している者が良いでしょう。何人かお出しします。
あとは、何かございますでしょうか。」
あっそうだ。白衣を作ってもらえると有り難い。
本当は地球の作業服のようなものが良いんだけど、デザイン的にこの世界にないんだよね。ボタンも見たことが無い。
そういうデザインの服はそのうち作るとして、今着ている服の上から羽織る、割烹着みたいなものを作ってもらえれば、ほんの少しだけ安全性が高くなるかな。
「少し危険な作業をすることもあるのです。助手さん達が今着ている服の上から着れる衣装が欲しいのです。」
そう言って、黒板に、割烹着の様なものを書いた。体の背面を紐で結ぶようにした。本当に割烹着だな。これ。
「これは、着ているものの上から着るのですか。なるほど、何か液体が飛び散っても直接肌や着ているものに掛らないのですね。これは良いですね。これは、助手さん達が着るのですね。解りました。人数分、至急作らせます。」
手伝いをしてくれる人の分も要るよね。
「お手伝いをお願いする人の分もお願いできますか。」
「ニケさんは、優しくて気が利くんですね。もちろん用意します。
ところで、この衣装、私の店で扱わせていただくことはできますか。
もちろん考案税は支払わせていただきます。」
「考案税はともかく、ボーナ商店で扱ってもらえるのはありがたいです。
ここだけではなくても、料理する人とか給仕する人も使えると良いかもしれないです。」
「そうですね。使う人はけっこう居そうな気がします。
あとは、何かございますか。」
「いえ。それだけご協力いただければ、あとはこちらで検討ができます。
ただし、検討には少しお時間をいただくことになります。
そうですね。2ヶ月は掛らないかもしれませんが、その程度はお待ちいただくことになると思います。
よろしいでしょうか。」
一瞬だけ目が気落ちした様子に見えた。
やっぱり直ぐにでも商売したかったんだろうな。
まあ、そうは言っても検討しないと、危なくって。
今回は塩素とか硫酸とか劇物を使うことになるかもしれない。
リリスさんは、ちょっと気を取り直したみたいだ。
満面の笑みで、
「ええ。何の問題もありません。手伝いの者は、明日の朝、こちらに伺わせますわ。こちらこそ、よろしくお願いいたしますね。
あっ。そうそう、今回、持ってきた布は、差し上げます。
白色のものは、遠慮なく切り刻んでいただいて結構です。
色の付いているものは、お母さまに差し上げてくださいませ。」
うーん。なんか大商店の店主はボロスさんと言い、少し苦手かもしれない。
「あっ、それは……。ありがとうございます。今後とも宜しくお願いします。」
「こちらこそ。では、検討結果を楽しみにしております。宜しくお願いいたします。」
そう言って、大量の布を置いて帰っていった。リリスさんは、何か嬉しそうだった。
紙は2枚だけ渡して、あとは残してもらった。グルムさんに、報告しなくちゃね。




