40.レンズ
本格的に、物理法則がどうなっているのか確認するために、天体観測をしたいと思っている。
とは言っても、何のために天体望遠鏡を作るのかの説明が難しい。
残念なことに、天文学者は、地球でも世の中の役に立っているという評価は殆ど無かった。宇宙開発が本格的に始まりでもすれば、状況は変わるのだろうけれど。
まあ、オレも含めて理論物理学をやっていた者は、社会貢献とはほぼ無縁だったな。
「世捨て人」と揶揄されることも多かった。
ニケが産み出した鉄やガラスは、大絶賛だ。領地の税収がうなぎ登りだと聞いている。
もともと、化学と物理は似ていても方向性がかなり違う。
学会も、物理は、物理学会と応用物理学会とで分かれていた。半導体などの世の役に立つと思われている分野は応用物理学会の範疇になることが多い。
化学は、化学会だけで、応用化学会という学会は無いと聞いたことがある。
もともと化学は、産業と切り離せない学問ということなのだろう。
友人で、理論化学を専攻していたやつが、教授に、「この研究は世の中の役に立つのですか」と聞いたらしい。その時に「君は学問の事が全く分っていない」と叱られたと言っていた。
そいつは、学問って何だと思いますか?と聞いてきたが、オレにも何なのか解らない。
いけないな。少し気分が拗ねぎみになって、思考が僻みっぽくなっている。
天体望遠鏡を開発するのにあたって、方式と架台をどうするかを考えていた。
度々、ニケに呼び出されて、コンプレッサーや、ガラス加工の道具を作らされた。
別に、嫌ではない。思考を中断されるのが少し煩わしかっただけだ。
しかし、作るたびにコンプレッサーは大型化していく。
最後に作ったのは、ガラス研究所のやつだ。地球で見たことのあるガスタンクより大きいぞ。構造計算を綿密に行なった。破裂したら目もあてられない。
ガラスを作れるようにしてくれれば、レンズを作るのも容易くなる。
最初は、シリカでレンズを作ろうと思っていたのだ。ただ、ニケに指摘された通り、シリカは、光学的な異方性がある。アルミナもそうだ。
シリカは、シリコン結晶と似たものだと思っていたのだ。室温で安定なシリカは、三方晶系で複屈折を持つ。結晶の光学軸とレンズの光軸を一致させれば、ひょっとしてと思ったのだがやめた。
ニケの超絶脳でもなければ、そんなことは出来そうにもない。あいつは、完全に結晶や原子の構造をイメージして魔法を使う。
ということで、光学的な異方性の無い、アモルファスなガラスが一般的になるまで、待つしかなかった。それに、オレの魔法で、下手に弄ると結晶化してしまうらしい。
今、領地で作っているガラスは、ソーダガラスと呼ばれるものだ。
青ガラスと言えば良いだろうか。ガラス板の断面を見ると青く見えるからそういう名称になっている。
若干、不純物による光吸収がある。
融点が低いので、ガラス製造が容易な種類のガラスだ。
レンズ作成に一番良いのは、白ガラスと呼ばれるガラスだ。
ホウ素が添加されている不純物の少ないソーダカルシウムガラスだ。
地球では、BK7と呼ばれているクラウンガラスだ。屈折率が高いので、光学部品に良く使われていた。
ガラス生産が一段落ついたニケに相談した。
ニケの元素コレクションは随分と増えたみたいだ。
レンズを作るぐらいだったら、鉛ガラスでも、ランタンフリントガラスでも好きなものが作れると言っていた。
フリントガラスは、クラウンガラスと比べてさらに屈折率が大きい。色々なガラスが作れるのは魅力的な話だ。
どうしようかと悩んでいたら、BK7を提案された。
ホウケイ酸ガラスは大量に作れるし、結晶化もしにくいらしい。代りにとお願いされたものには、ど肝を抜かれた。
巨大なガラス製の温室を作りたいと言われた。
何のためにそんなものを作るのだ。
「冬になると、花が無くなって寂しいじゃない。
それに、領地でガラスを作るのは、大変だったんだから。
ねっ。アイルお願い。」
地球に居た頃は、こっちが無理なお願いばかりしていたので、受けることにした。
構造計算を必死でやった。強風で崩壊なんて間違っても起したくない。
中に人が居たら、冗談じゃ済まなくなる。
なんとか設計が出来たところで、使用するステンレス製の鉄骨やシリカの板を作っていった。
騎士さん達にお願いして、組み上げていった。
重量物は、魔法で浮かせて、高所の取り付けは騎士さんが実施する。
ニケが、
「風の魔法というけれど、空気の力で浮いている訳じゃないわよね。何故浮いているのかしら」
と言うが、オレにも良く解らない。
本当に、何故鉄骨やシリカの板が浮いているのだろう。
出来上がった温室は圧巻だった。陽光に、骨格の白銀のステンレスや綺羅びやかなシリカが輝いていた。
「こんなもの、この世界に作ったら、異常に思われるんじゃないか。」
「えぇ?!あのガスタンクコンプレッサーを作ったアイルにだけは言われたくないわ。」
いや、あれは、オレが望んで作った訳じゃないだろ。ニケの希望だったんじゃないか。
オレは、炉ごとにコンプレッサーを配置したらどうかと提案したのだが、バルブを捻れば空気が出るように、共同配管にしたいと言ったのは、ニケだ。
理由を聞いたら、メンドウと言われた。面倒だからって、あの巨大構造物を作るか?
ガラス研究所は順調に運営されているらしいから、もうどうでも良いのだが。
その後、ニケは、硼珪酸ガラスを大量に作っていた。それこそ何でこんなに要るのだろうと思うほどに作っていた。
「ひょっとして、またキッチン用品を作ろうと思っていないか?」
と聞いていみた。
たしか硼珪酸ガラスは、パイレックスとして知られているガラスキッチン用品の素材だったはずだ。
「いいえ。もっと良いものを作るの。その時はお願いね。」
この世界では、素材を作れる方が、完全に上位に君臨するんだと心の底から思った。
折角なので、何種類か別組成のガラスも作ってもらった。色収差を解消するためには、アッベ数の違うガラスが必要になりそうだったから。
しかし、レアアースが良くあったなと思ったら、例の鉱石探索チームがレアアース鉱床を見付けたらしい。それは凄いと思った。
日本は、レアアースはほとんど採れず、隣国にあれこれ嫌がらせされていたなと思いだした。
それなら、高性能磁石や、蛍光体などが作れるな。
そう思ったとたん、この世界でそれらが必要になるイメージが全然浮かばなかった。
まあ、そのうち使うときもあるだろう。きっと。
ガラス用の素材が手に入ったので、それからは光学実験をした。最初、テーブルにプリズムや板を置いて実験していた。
振動が有ってどうにも上手くいかない。
せっかく圧縮空気が有るので、除振台を作った。ハニカム構造の実験台を空気圧で支える、普通に地球に有ったものだ。
ニケから大量に、永久磁石を貰って、マグネットスタンドや部品ホルダーを作った。助手さん達にお願いして、部品やスクリーンを配置してもらった。
マグネットスタンドは、ニケに何個か盗られた。
光源は陽光だ。窓の外に鏡を配置してエキスパンダレンズで、光を広げてスリットを利用して光源にした。
プリズムで初めて分光したときは、ウィリッテさんやカイロスさん、助手さん達から驚きの声が上がった。なんか楽しそうで良かった。
鏡と言えば、ニケが巨大なガラス板の裏面に銀を付着させて姿見を作っていた。ご夫人方には大層好評だ。
ガラス板は、オレが作ったので良く知っている。ガラス板ぐらいは自分で作れないのだろうか。相変らず不思議な脳味噌だ。
素材の屈折率を測って分散を計算した。
素材の光学特性が分ったので、早速レンズを作って、焦点距離を測定したりした。
助手さん達には、ガラスの板からレンズを作る方法を教えた。昔、高校生の頃、地学クラブに居たときに、完全手づくり天体望遠鏡にチャレンジした事がある。あれは大変だった。ガラスの厚板を特殊な道具で研磨していく。
球面なので頑張ればどうにかなった。ただ、歪みが多少あって、収差は酷かった。接眼レンズだけは、手に負えなくて、市販品を買った。まあ、達成感だけの青春の思い出だね。
こうやって、領民へ技術移転していくのは良いことだろう。これから作る望遠鏡は領内で必要とする人も居ると思う……。多分。
とりあえず魔法を使って、望遠鏡と双眼鏡を作った。鏡筒は、真鍮を使った。
ザイデルの5収差をなるべく軽減させるために、合わせレンズにした。
色収差だけは、ニケに作ってもらった素材では完全に無くすことができなかった。今度、極低分散のフッ素を含有したレンズ素材を作ってもらおう。
視野を広く取るために、望遠鏡も双眼鏡もケプラー式にした。虚像が倒立像になるのを修正するために、ポロプリズムを使用した。
原理を説明するために、焦点距離の違う幾つものレンズを準備した。
遠くを見てもらうため、日中に、父さんとソド叔父さんを呼んだ。
父さんの執務室に行くと、何故かグルムおじさんも居た。
ガラスが出来ると、レンズが作れると説明した。今は、ガラスの用途は、容器に偏っている。現存するガラス製品が、壺とか瓶とか椀ばかりなので、それは仕方の無いことだ。
レンズが出来れば、望遠鏡が作れることを説明した。
三人とも、遠くの景色が拡大されることに驚いていた。
魔法でも、遠くの様子を拡大することは出来ないらしい。
音を拾う、遠耳の魔法というのはあると言っていた。
この魔法は難しく、これを使えた場合には超一流の魔法使いと認められる。
ただ、使えることが分ると、色々と面倒なことになるらしい。
面倒な事って何だ?
望遠鏡で、あちこちを見ていた、父さんとソドおじさんは食い付きが尋常じゃなかった。
魔物討伐や戦争のときに、相手の様子を遠くから詳細に見ることができるのは、物凄く役に立つ。
望遠鏡は大歓迎された。
その脇で、単レンズをとっかえひっかえグルムおじさんが見ている。
「アイル様、このレンズというものは、近くのものも大きく見えるのですね。」
「ええ、そうです。厚いレンズはより大きく見えますよ。」
その後も、レンズを目の近くにかざしてみたり、目から離してみたりしている。長焦点のレンズに拘りがあるみたいだ。
最後は、目の極近くにレンズをもってきて、手を見ている。
「アイル様、お恥ずかしい話ですが、最近、手元が霞むようになってきたんです。
病気ではないかと思って、神殿の神官に聞いたら、歳のせいで、これは治らないと言われたのですよ。
ところが、このレンズというものを使うと、手元が良く見えるのですが。
何故なのでしょう。」
この話でグルムおじさんが何をやっていたのか分った。グルムおじさんは、このメンバーの中で、一番歳が上だ。たぶん50歳手前だったと思う。
そのぐらいの歳になると、老眼になる人も居る。老眼は病気というより、老化現象だ。目の水晶体を調整している筋肉が衰えて、焦点を合わせることができなくなってくる。
この世界の人達は、慨して目が良い。どちらかというと遠視なんじゃないかと思うほど、遠くが良く見えている。
逆に、老眼になると、近くは見えにくくなる。
ここに居るメンバーに、目の構造と、焦点を合わせる仕組みを教えた。
この後、メガネを作るために、助手さんに頼んで、研究所に置いてある真鍮を取りに行ってもらった。
水晶体を調整する筋肉が衰えるという説明をしていたら、ソドおじさんが、
「その筋肉は鍛えられないのか。」
と聞いてきた。
流石、騎士団長だね。筋肉は鍛えれば良いと思っている。
うーん。流石にそれは聞いたことが無いな。
心臓や胃袋も筋肉の塊だけど、それを鍛えることってできるんだっけ?
運動したり、大食いしたりすると鍛えられるのか?
いや、ただ筋肉を痛めているだけかもしれない。
分からない事は、素直に知らないと言っておく方が良いだろう。
「残念ながら、この筋肉を鍛える方法は聞いたことが無いですね。」
と答えておいた。
助手さんが、必要な材料を持ってきてくれたので、グルムおじさんに、眼鏡のフレームを作って見せた。鼻パットは木を使った。
「これは『メガネ』と言って、目が霞んだりする場合に改善するための道具です。
顔に直接付けるので、形によって、顔の印象が変わります。
これから、色々変形させたのを作ってみますので、グルムおじさんの気に入った形を教えてください。」
そう言って、丸眼鏡、角型の眼鏡など、色々な形の眼鏡を作って見せた。実際に顔に装着してもらって、執務室にある姿見で、気に入るものがあるか選んでもらった。
父さんと、ソドおじさんが、ニヤニヤしながらその様子を見ている。
そのうち口を出すようになった。
色々冷かされながら、グルムおじさんが選んだのは丸眼鏡だった。
さんざん冷かされたグルムおじさんは、父さんとソドおじさんに言い放った。
「覚えておるからな。そなた達も、そのうち目が霞む事になる。」
オレも、眼鏡とは無縁の生活だった。でも、歳を取ったら、老眼鏡を掛けることになったんだろうか。
その後は、レンズの選定だ。
レンズを簡単に交換できるホルダー型のメガネフレームを作った。
レンズを置いて、手元を見てもらい、一番見易いレンズを選択した。
選択したレンズと焦点距離を一致させて、なるべく薄くなるようにメガネ用のレンズを作った。
グルムおじさんが選んだフレームに嵌めるときに、目の中心と光軸が合うようにガラスレンズの外周の形を変形させた。
全てが終って、メガネを掛けたグルムおじさんは嬉しそうだ。自分の指の指紋が久し振りに見えたと言っていた。




