4.重力波発生装置
その日、私はいつもより早く目覚めました。
装置の動作試験とはいえ、久々に恭平と長い時間二人きり。昨日のうちに着ていく衣装も決めてあります。
いつもは、研究所に行くときには、作業ができる着古しの衣装に白衣です。今日の動作試験で、私はほとんど何もすることがありません。せいぜい私が恭平に提供した素材に不具合が発生しないかを確認する程度です。
だから、今日は、お気に入りの勝負服にしました。
約束の時間の少し前に恭平の研究室を訪ねます。
恭平はいつもより心なしかフォーマルな装いをしています。今日は、装置の動作をさせるだけで、泥臭い作業は終っているのでしょう。
恭平は、データを記録するためのプログラムの確認に余念がないようです。声をかけるのを躊躇った後、しばらく逡巡して、思い切って声をかけてみました。
「恭平、準備はうまくいってる?」
「あっ、杏樹か。早かったね。今日はまた、とても綺麗だね。」
恭平は時々こんなことを普通に言います。それを聞いた相手がどう思うのかについては、全く斟酌しません。私は少し頬が熱くなるのを感じてます。恭平は、私のそんな様子には全く気づかなかったのでしょう。先程まで行っていた作業に再び取り掛かっています。
予定していた時間のちょっと前になったところで、恭平が作業の区切りを宣言しました。
「こんなところかな。あとは、現場の状況で必要に応じて修正すれば良いだろう。じゃあ、杏樹、待たせて申し訳なかった。実験場に行こうか。」
私達は、連れ立って、実験施設に移動します。高エネルギー重力研究所には、素粒子研究を実施するのに欠かせない粒子加速器など様々な大型設備があります。
敷地だけでも、南北に70km、東西に20kmもあります。研究室から実験場まで、車でなければ移動にするのに何時間もかかります。私は、恭平が運転する車の助手席に乗り込みました。
「試運転うまくいくといいね。私の作った樹脂はどうだった?」
「杏樹の樹脂は、本当に耐熱性が高いね。全然問題なかったよ。」
単純な物質には固体、液体、気体の三態がある。ただし樹脂の場合は、分子が大きくて、気体にはならない。気体になる前に分解してしまう。
ここで言う耐熱性は、樹脂が分解する温度または、樹脂が柔らかなる温度を指している。恭平が望んだ800℃と言うのは、樹脂には本来あり得ない耐熱性で、通常は、その遥か下の温度で、分解してしまう。
恭平も実際に樹脂を800℃で使用するつもりではなく、それなりにマージンを計算した上で使用しているはず。
通常に試運転するのであれば、何も問題は起こらないだろう。
恭平の試作した主な装置は、鉄の原子核ビームを発生する装置と、原子核を加速する超大型の加速器の出力部分に取り付ける装置の二つだ。
その装置には、私が作った樹脂を絶縁体とした多数のコイルがある。このコイルには、粒子を曲げる事で発生する極めて強い反作用の力と、大電流を流したり止めたりすることで発生する熱衝撃が加わる。
大抵の素材は、耐久温度に近づくにつれて、脆くなったり、変形しやすくなったりする。それが、あの絶大な耐熱性を持った樹脂が必要な理由らしい。
二十分ほど車を走らせて、実験場にたどり着いた。
「ふぅん、これが恭平の作った装置なのね。」
「ああ、今日は、最大出力に達した後、周波数の変調確認を行う予定だ。重力波測定装置の感度が一番高い周波数に調整して、重力波の強度が実際にどの程度を見込めるのか確認してみるつもりだ。」
「へぇ、重力波測定装置を借りられたんだ」
「まあ、重力波の検出は多分無理だと思うけどね。もしノイズレベル以上のシグナルが出たら、世界的な成果になるよ。」
重力波測定装置は、極めて高度な技術を必要とする光学機器だ。高エネルギー重力研究所は、その名前のとおり、重力波の観測も行なっている。
地中に重力波を観察するための装置がある。地中に何10kmものトンネルを作り、両端に精密なミラーが設置してある。
ミラーの間を行き来する光のごく僅かな揺らぎを測定する。重力波は極めて微弱で、少なくとも地上で発生した重力波を測定できたことはない。
どこか遠くの宇宙でブラックホールが衝突するとかいう、想像を絶するような質量が関わる現象でもなければ検出にかかることはない。
もし近くの宇宙でそんなことがあれば、太陽系自体がタダでは済まない。
実験場には私と恭平しかいない。
この研究所にある実験設備は高度に自動化されていて、すべての調整は、コンソールで操作することができる。普通なら、現場に居なくても良いのだ。状況をモニターするのも全部自動だ。どういった操作を行ったかとか、センサーが検知した値などは、離れたところにあるメインサーバーに逐次記録されていく。
現状恭平が作った装置は、まだ、かなりアナログで操作する部分がある。
現場で調整しないと、実験ができないらしい。
実験の有望性が確認できれば、リモートで操作する様に改造する予定だと言っていた。
しかし、現段階では、有望なのかどうかすらわからない。この装置は、恭平が持ち込んだノートパソコンだけが、唯一のコントローラだ。
ただし、記録だけは、後で解析しやすいように、メインサーバに逐次保存されるようになっている。
恭平は、必要な装置の接続作業をしばらくやっていた。一通りの作業を終えて、私に声をかけた。
「じゃあ、始めるね」
「危なくないのよね」
「ああ、もうすでに装置単独で、何度か最高出力の確認を行っている。ただ、こんなに沢山のセンサーを取り付けて、実験するのは初めてだけどね。これで問題がなければ、この装置はほぼ完成だよ。
……それでなんだけれど、……今日、この実験が成功したら、夜、二人で打ち上げをしないか?
あの駅前にある有名なイタリアンレストランを予約してあるんだけど。
杏樹は、イタリアン好きだろ。」
恭平の言葉に、私は驚いてしまった。
これまで、三十年近く一緒にいたけれど、恭平が照れながらこんなことを言い出したのは初めてだった。
もうすでに、二人とも三五歳。才能があった二人はそれなりの地位も獲得し、そろそろ、将来の約束をしてもおかしくない。私は驚くほど胸が高鳴るのを感じた。
「……いいわよ。」
「よかった。じゃあ、終わったら一緒に打ち上げに行こう。さてと、実験開始っ。」
周りにある装置が低い音を発しながら、持っている最大のパフォーマンスを発揮するための助走に入った。
私が作った高純度の鉄プレートから、原子が叩き出される。その原子が粒子加速器で加速されて、恭平の装置に安定して供給されるまでには、何十分もかかる。その後、粒子加速器のパワーを上げていく。
十分な粒子が装置に導入されるたところで、加わる磁力周波数を調整して、周回軌道の中の原子の回転周波数を変化させる。
「よーし、きたきた。さてと出力を上げていって……。」
私は、何もすることが無い。椅子に座って、つい呟いてしまった。
「ここで見ていても、何も起こらないのね。」
「えっ、そりゃ、ここにある装置の中の真空の空間で全てが行われているから、外からは何も見えないよ。」
「そうだよねぇ。」
「よーし、最大出力に達した。じゃ、これから微妙な調整に入るから、またしばらく待っていてね。
もし、万が一、重力波が検知されたら、そのモニターの数値が上がるから。それでも見ていて。
何か検知したら大発見だから。」
言った本人もそんなことは起こらないと確信しているのだろう。まあ、そう言われたから一応見てようと思った。
恭平は、周回周波数を調整するべく、ノートパソコンを叩き始めた。
私は、言われたとおり、重力波測定装置のモニターを眺めていた。この装置だけで、何百億円もする。他にも高額な装置がここにはゴロゴロしている。
こんな、装置に囲まれた環境は、世間の常識とはかなり隔絶されている。
しばらく経った時、私はモニターの数値が急速に上昇しているのに気づいた。
「恭平! 重力波が……」
といった瞬間、あたりが急に光りだした。
「わっ、電流値が振り切れた。えっ、粒子の出力が……」
眩いばかりの光が空間全体に溢れ、圧力としかいいようがない光が発生したと思った。
そのとき、何かに引き寄せられるのを感じた。