92.紙幣用紙
「紙幣の大きさは、幅が2デシ(=20cm)で、高さが1デシ(=10cm)で良いんだよな?」
「ダメな理由は無いから、それで良いんじゃない?
それに長さの単位が統一されたと言っても、あんまり馴染が無いみたいだから、丁度良いと思うわ。」
フォトリソ用の樹脂の目処が立った翌日の朝。また造幣局の研究所だ。
アイルが紙幣の番号印刷装置が出来たというので、これから試験運転をする。
紙幣用の紙は、これからなので、普通の書類用途の紙をアイルが魔法で大量に準備したものを使っている。
一応、紙幣の大きさについては、バールさんやデニスさんに聞いてある。でも、何の希望も意見も無かった。
それも仕方の無い事かもしれない。
使うシーンを全く想定できないんだろうからね。
バールさんや、デニスさん達財務省の面々、准教授の面々がギャラリーだ。
産業管理部門の管理官のロッコさんも居る。
昨日の打合せの内容をバールさんに聞いたらしい。態々見学に来たみたいだ。
アイルが装置のスイッチを入れると、装置が動き始める。
特に、これと言って、大きな音はしない。強いて言えば、風が強い時の森の葉擦れのような音がするだけだ。
ただ、紙の入口にある紙の束が、凄い勢いで減っていく。
それに合わせて、紙の出口から凄い勢いで紙が吐き出されて、積み上がっていく。
入口に設置した紙が無くなったところで、装置が止まった。
デニスさん始め、王宮から来た人達が、積み上がっている紙束を手に取って、驚いている。
「これが、印刷というものですか……。全く同じものが描かれている。
いや。違うな。数字が一つずつ増えている。」
「物凄い勢いで紙が移動していましたね。」
「どの数字も紙の同じ場所に描かれてますね。」
集まったギャラリーが、口々に、驚きを口にしている。
「今の印刷速度が、d1秒間(=4秒)にd20(=24)枚です。一日4時(=8時間)動かして、d80サンド(d80,000=165,888)枚印刷出来ます。
1ミロ(d1,000,000=2,985,984)枚の印刷なら、半月ほどで終わります。
多分、紙の質にも依りますが、この倍の速度でも動かせますし、必要なら印刷機の台数を増やしても良いです。」
「そんなに早く1ミロ枚の印刷が出来るんですか……。
紙幣発行の枚数を聞いたときには、何d10年も掛る、とんでもない事業だと思っていたんですが……。」
デニスさん始め財務省の人達はニコニコしている。バールさんも嬉しそうだ。
鉄道の時もそうだったけど、現物を見るのが一番早いよね。
それから、アイルの装置の説明が始まった。
紙が切れると自動で止まるとか、欠番が出ないようになっているとか、説明は長くなりそうだな。
担当する人達の表情は真剣だ。
私は、説明に付き合う必要は無いので、昨日集めてもらった紙の改質を始めることにした。
今日も、ヨーランダさんと二人だ。
他の化学研究所の准教授達は、アイルのデモが終ったら、また、紙の作り方の講習を財務省の文官さんたちにする予定だ。
昨日、ヨーランダさんが入手してくれた紙の原料や製法について詳しく聞くことにした。
「これが、通常の紙ですが、水に濡れると、当然ですが、弱くなります。包装用途に作られている紙は、こちらになりますが、どれも漂白をあまりしていないものの様です。」
見ると、包装用途の紙は、薄い茶色をしている。厚いものも多いが、薄い紙もあった。
「すると、漂白しすぎない方が、水に対して丈夫な紙になるって訳なのね。」
リグニンは、接着剤みたいなものだからな。あまり強アルカリでリグニンを分解しない方が良いのか。
そう言えば、お札の紙って、あまり白かった記憶が無いな。クリーム色というか、薄い茶色というか……。そういう事なのかな。
「紙も大量に作るようになって、安くなってきましたので、包装用に紙を使う事が増えているみたいです。肉や魚は、これまで、大きな葉に包んで売っていたんですよ。
それが中々手に入らなくなったことと、衛生的だというので紙で包む様になったみたいです。」
紙の生産は、確かに増えているだろう。安く作って欲しいとボーナ商店にはお願いをしている。その代りに工場を拡張してあげている。今は、コンビナートに6工場ある。
それに、ゼオンとロッサにも工場が出来た。そろそろ稼動するんじゃないかな。
リリスさんは、用途開発に余念が無いね。
今の話で気になったことがある。大きな葉が手に入らなくなったのって、街が大きくなったからかな?
「紙が包装紙として使われているのは分りましたけど、葉が手に入り難くなったのって、何か理由があるんですか?」
「それについては、あまり詳しくないんです。でも、以前から食品を包んでいた葉として使っていた植物は、今でも、そこら辺中に生えてますね。」
ヨーランダさんは、植物に関しては詳しいから、植物が無くなった訳ではないというのは本当だろう。
「不思議な事ですね。」
「あっ、こういう事かも知れないです。
以前は、包装に使っていた葉は、貧しい家庭の子供達の収入になっていたんですよ。
でも、今は、それほど貧しい家庭というのも無くなってきてますし、子供達は寺子屋通いで、時間があまり無くなったからじゃないですかね。
それに、葉っぱは、採ってきてそのまま使える訳じゃなくって、洗浄したり手間が掛るんです。
紙なら、そんな手間が要らない上、見た目が清潔そうですから。」
貧しい子供が減った所為だというのなら、安心だな。
でも、後で、文官の人に確認してもらおう。
紙の所為で、葉っぱの需要が無くなったんだったら、困っている人が居るかもしれない。
「そういう事なら良いんですけどね。
それで、肉や魚を包むのに使っている紙というのは、どれになりますか?」
「それは、このd3M(=47)番からd48(=56)番までの紙です。厚さに違いがあるみたいですね。原料は、麻を使ったものの様です。
作り方としては、水酸化ナトリウムの処理を無くして、代りにお湯で煮込む時間を延長しているみたいです。漂白は一応掛けています。
でも、紙の色はかなり茶色いですね。」
「包装紙なら、これでも問題は無いんでしょう。
ただ、流石に、これだけ茶色いと、このまま紙幣にするのは難しいわね。」
それから、持ってきてもらった、紙の説明を聞いていった。
本当に沢山の種類の紙が有った。
「それにしても、様々な紙がありますね。ここで、紙を作り始めて、もうすぐ5年になりますから、色々な事を検討しているのは、とても良い事ですね。」
「今回集めてきたのが、これまで作って販売した紙のほとんど全てらしいです。」
残念な事に、滲み難い紙についての情報は無かった。
印刷なんてしないからな。
文字の滲みについてはインクの方で、対応しているんだそうだ。
どうやっているのかを聞いたら、膠が入っているらしい。
ヨーランダさんも、それほどは詳しくないと言っていた。
すると、今のインクには、膠が入っているのね。
ふーん。それなら、紙にも膠を入れたら良いのかな。レジンって手もあるか。
これは要検討かな。
それでも、水濡れしても強度が落ちない紙が見付かっただけでも成果だね。
「ありがとう。ヨーランダさんのお陰で、色々な事が分りました。」
「いえ、いえ、とんでもない事です。」
「それで、やはり、あの水に塗れても破れ難い紙をベースにするのが良さそうですが、どう思います?」
「えーと……あの茶色い紙ですか?
紙幣って、白い紙じゃなくても良いんですか?」
まあ、白い紙であるに越したことは無いけれど、それより丈夫な紙っていうのが大事だと思うんだよね。
「ええ、真っ白じゃなくても良いんですよ。ただ、表面に印刷した図柄がきちんと見える程度には白くなくては困りますけどね。
それより、皆が持ち歩いて、使うものだから、丈夫なのが一番大切なんです。」
「そういう事ですか。それで、あの茶色の紙になるんですか。分りました。」
「ただ、あのままという訳には行かないんです。それで、これから紙の改質をしてみます。」
「そうですよね。見るからに茶色いですから。それで、改質って、どうするんですか?」
「あの紙を繊維に戻して、幾つか化学的な処理をして、また紙に戻して特性を見ます。その作業や、測定をする為に、一旦、この紙を化学研究所に運びます。」
造幣局のこの場所は、フォトリソグラフィー材料を作るために使ったガラス容器しかない。
フォトリソグラフィーの材料を作ったと言っても、魔法で作った。化学反応の作業をした訳ではないからね。
魔法で作った液体を扱うための容器や、ピペットなんかを、そこらの土から抽出した石英で作り出したものだけ。
スピナーとか、露光装置とかは、アイルに作ってもらって、ここにあるけど、それは、これからの作業には使わない。
だったら、器具や測定装置がある化学研究所で作業した方が効率的だ。
部屋の警備をしている騎士さんにお願いして、例の茶色の紙を化学研究所の研究室に運んでもらう。
それと、アイルには、王宮から来た文官の人達への説明が終ったら、化学研究所に来て欲しいと伝言をお願いした。
ヨーランダさんの説明を聞いている内に思い付いたことがあるので、そのための実験装置を作ってもらおうと思ったんだ。
ヨーランダさんが、
「それなら、包装用の紙が沢山必要ですよね。私、コンビナートに行ってもらってきます。」
そう言って、コンビナートに向おうとしていたので、引き止めた。
紙の種類が分っているのなら、騎士さんに取りに行ってもらった方が良いよ。
化学研究所まで紙を運んできてもらった騎士さんにお願いして、コンビナートから、同じ紙を必要な量、貰ってきてもらうようにお願いした。
さて、実験だな。
まず、例の包装紙を水に浸けて、魔法を使いながらバラバラにする。繊維を傷付けないように注意しながら行なう。褐色の懸濁液になったら、魔法を使って、水だけを取り除いて、元の紙に戻してみる。
水に濡れた時の強度を調べてみる。
「ニケさん。元の紙より丈夫ですね。」
うん。これは、予想した通りだな。
紙の強度は、どれだけ分子レベルの繊維が絡んでいるかが重要そうだ。
魔法で紙をバラバラにしたことで、それまで、繊維の束として絡んでいた繊維が分子レベルで絡むようになったんだろう。
今度は、水に戻す前の紙を魔法で微塵切りにしてから同じ実験をしてみる。
流石に、紙を粉にしてしまうと、強度は取れなかったけれど、d0.1デシ(=8.3mm)ぐらいまで粉々にしても強度は保持されるみたいだ。
試みに、魔法でセルロースだけ分離出来ないかと思ってやってみたんだけど、それは無理だった。
高分子だから重合度がそれぞれ違っている。私が思い描いた分子の長さと少しでも違うと分離出来ないみたいだ。
仮に出来たとしても、工業的に同じ事をしようとすると、とんでもなく大変になるから、あまり意味が無いんだけどね。
そんな感じで、基本的な状況を確認していたら、アイルがやってきた。
「何か用事があるって聞いたんだけど。何かな?」
「あっ、いいところに来てくれたわね。もう、説明は終ったの?また、蘊蓄をあれこれ言って、煙に巻いていたんじゃないわよね?」
「いや、そんな事は無いと思うんだけど……。」
アイルの目が泳いでいる……身に覚えがあるのかな。
「まあ、良いわ。ちょっと作ってもらいたいものがあるのよ。」
それから、アイルに依頼して、アイゾット試験機と大きなホモジナイザ、紫外線照射装置を作ってもらった。
アイゾット試験機は、樹脂の強度を測定するための装置。簡単に言えば、打ち付ける強さを調整できるハンマーみたいなものだ。構造は簡単なので、私にも作れなく無いかなと思ったけど、ベアリングは、私にはムリだ。紙の強度を数値化するのに使う。
ホモジナイザは、先刻、ヨーランダさんの説明を聞いて思い付いた事で、なるべく繊維をバラバラにして、どのぐらいリグニンを残した方が良いのか、他の添加物でも同様の機能が得られるかを確認するためのものだ。
上手く行ったら、製造工場でも使う予定だ。
円筒形のステンレス容器の内側に羽が付いていて、その羽の間を、心棒から生えている羽が通る。心棒を回転させることで、繊維をなるべくバラバラにするようにする。
メンテナンスが出来るように、円筒部分は縦に割れて、横に開くようにしてもらった。
そして、紫外線照射装置。昨日の実験の時にも使ったけれど、あれはかなり小型だったので、沢山の紙サンプルを並べて、照射できる大型の物を作ってもらう。
よしよし。じゃあ、続きをするか。
例の包装紙を大量に水で戻して、ホモジナイザに掛けた。条件によって、どのぐらい細かくなっているかを顕微鏡で見て、あとは、リグニンを分解させてから、紙を作る。
当然だけど、リグニンの分解の度合いが大きいと、紙は弱くなる。
それに対して、膠やレジンを混ぜてみて、紙の強度を確認する。
アイゾット試験機があるので、かなり定量的に比較できるようになった。
夕刻ぐらいまで、膠やレジンなどの配合比を変えた添加物を作って、紙を作って、効果を確認していった。
元々の包装紙より丈夫な紙を何デイル(=12)種類も得ることが出来た。
後は、耐久性だね。
アイルに作ってもらった、大型の紫外線照射装置の中に、添加物の効果が有った紙と、包装用の紙を設置して、スイッチを入れる。
アイルが言うには、日光に当てるより遥かに強力で、まる一日で、d10年分ぐらい日光に当っているのと同等の紫外線が照射できるらしい。
明日見てみて、極度に変色していたり、強度が落ちていたりしているのはダメだろうな。
生き残ってくれるのがどのぐらいあるか。
まあ、明日の楽しみだな。
時刻が6時半(午後5時)になったので、准教授達を誘って、領主館に移動することにした。




