91.フォトリソグラフィ
とりあえず、デニスさん達、王宮から来た方々へは、准教授達が装置の基本的な使い方から教えることになった。
彼等が装置をマスターするまでの間に、私はアイルと紙幣の試作だ。
これから紙幣の図案を描いてもらうヨーランダさんは、王宮から来た人達の指導係からは外れてもらった。
絵を描き始めるまで、私の助手を依頼した。
バールさんの話では、既に参考にするための絵画は、鉄道に積んで運んでいるらしい。
博物館に飾られていた、大きな絵らしいんだけど、明日には、領主館に届く。
なんだか、国家事業をやっているみたいだね。
いや、国家事業か。これは。
まず、私がやる事は、紙の改質と光レジストを作る事。
アイルは、縮小露光装置と簡単な印刷装置を試作している。
あとは、インクが有れば、なんとか試作に持ち込めるだろう。
ヨーランダさんには、コンビナートへ行ってもらって、様々な原料の紙を持ってきてもらう。
その間に、私は、光反応性の樹脂を魔法で作ることにした。
これは、紙幣の原版を作る時だけ使用するから、製法を確立しなくても良いんだよね。
それに、高密度の半導体を作る訳じゃないから、極々簡単なもので良い。確か最初の光反応性樹脂は、桂皮酸ビニルだったはず。ビニル基は、ポリマー化されていたはず。
何かの酸ビニルエステルとの共重合体だった筈だ。
ポリマーの重合度も高くすると、有機溶媒に溶けなくなるんじゃないかな。
有機溶媒に可溶で、光で桂皮酸部分がラジカル重合して不溶になる加減を調整すれば良い。
ただ、これって、光が当たった場所が重合するんだよね。
写真がネガだから、反転させるのかな。アイルの露光装置次第か……今気にしても仕様が無いか……。
まっ、やってみてだな。
光反応性もそれ程良いものを狙わなくても良いだろう。
今回の凹版を再現性良く作れれば良いだけだから、最良の条件を調査する事もない。
露光にとんでもなく時間が掛るようなら、増感剤を考えれば良いし、逆にあまり露光時間が短かすぎると、同じ版を作るのが難しくなる。
程々の性能で、制御可能なのが目標だね。
そんな訳で、桂皮酸ビニルを大量に作る。このままビニル基を重合させたもの、でも良いかもしれないけれど、光反応性の調整で、念のためビニルアルコールと、酢酸ビニルも作っておく。
まだ、一編にポリマーを魔法で作るのは大変だ。
先にモノマーを作っておいた方が、魔法は上手く行く。
桂皮酸ビニルを重合させたものや、ビニルアルコールや酢酸ビニルと共重合させたものも準備する。
普通に重合させると、何時間も反応に時間が掛る上、重合度が様々なものが出来るんだけど、魔法だと、一瞬だ。
その上、重合度は、ほぼ一定になる。
問題なのは、ポリマーをイメージする事なんだけど、ゴムで散々実施してたので、難無く出来上がる。
前世では、準備時間が9割以上、実験はそれに比べると一瞬に近い。
それだけに、実験のための予備実験をして、準備をして実験に臨む。
最後の最後で、実験に失敗するなんて事も良く有った。
実験の失敗自体は得ることもあるので、悪い事ではないけれど、それまでに準備した時間を考えると、やはり凹んでしまう。
魔法だと、準備時間が一瞬で、条件を変えた実験があれこれできるから、本当に効率的だ。
まずは、重合度で、有機溶媒に溶けるかどうかから。各種の溶媒に対して、重合度による溶解度合いを調べた。
溶媒の沸点などから、イソプロピルアルコールを選択した。
露光するときに、完全に溶媒が無い状態だと、反応性が悪くなるんじゃないかと思ったからなんだけど、沸点が低いと同じ状態を作るのが難しくなる。
今回は、全く同じ版を作らなきゃならないからね。
溶媒の量や、組成比なんかは、魔法で調整するとしても、どうしても、作業時間というのは、バラつくからね。
ざっくり、溶解性を調べてみた。ビニル基の部分の重合度が高いと当然溶けなくなる。
適当な重合度合いを選択した。
今のところは、ざっくりで良いだろう。
アイルが作る露光装置次第の部分もあるからね。
露光の光源は、アイル謹製のダイヤモンド半導体フォトダイオード。
これは、強力な紫外線を発生させられる。
光が漏れない実験容器をアイルに作ってもらって、念のため、保護眼鏡を掛けて実験する。
今は、適当な露光マスクが無いので、私の執務室に置いていた家族写真を使用することにした。
溶媒に溶けたポリマーを塗布するために、スピナーもアイルに作ってもらった。
実験を始めて、条件を調整して、大体同じ物が作れるようになった。
折角なので、銅板に露光して、エッチングもしてみた。
中々良い感じだ。
銅の表面を酸化させて黒色にして、エッチングされていないところの表面を磨いたら、金属写真になったな。
銀で作ると、綺麗かもしれないけど……まっ、そのうち時間が有ったらにしよう。
そんな事をしている時に、ふと思い立って、露光したばかりの状態で、未反応の桂皮酸ビニルポリマーを魔法で取り除けるかを確認してみたら……出来た。
溶媒を使って、未反応のポリマーを溶かさなくても良い事が分った。
うーん。これは。
魔法が有ったら、前世のフォトリソグラフィーのやり方以外にも、出来る方法がありそうだな。
最初は、複写の魔法で、紙幣の図柄を複製した版が作れないかと思ったんだけど、それは出来る気がしなかった。
あまりにも、図柄が細かくて、情報量が多いからね。
脳味噌のキャパシティを完全に越えているよ。
それで、写真と同じ方法を採ったんだ。それなら、全く同じものが作れる筈だ。
それで、フォトリソグラフィってことになったんだけど、レジストの重合反応は魔法があれば実は要らなかったりするのか?
少しだけ、考えて、止めた。
光が当って、励起状態になっている原子を除くなんて事を考えても、散乱光があったり、解像度の問題があったりして、そこそこの物しかできない。
既にそこそこの手法が出来てるんだから、これで良いよ。
その内、機会があったら、考えることにした。
ただ、最後の未反応のポリマーを溶媒に溶解させて除去する工程は、魔法で未反応の桂皮酸ビニルポリマーを除去する方が遥かに早い。
実際に版を作るときには、魔法を使う事にした。
ざっくりと、プロセスの確認が出来て、問題は無さそうだった。大体の反応条件も掴めたので、あとは、現物合わせをすれば良いだろう。
そんな成果に満足していたら、ヨーランダさんが、コンビナートから戻ってきた。
「ニケさん。今、戻りました。遅くなってしまって……申し訳ありせません。」
ヨーランダさんは、沢山の種類の紙を持ち込んできた。
とても一人で運べる量じゃなかったようで、護衛の騎士さん達に手伝ってもらったみたいだ。
遅くなったと言われて、研究室の窓から外を見ると、外は橙色の光で溢れていた。何時の間にか夕刻になっていたみたいだ。
素材の調整は、魔法で一瞬で出来るけれど、露光の時間がそれなりに必要だから、結構な時間が経っていた。
「随分、沢山ありますね。」
「そうなんです、様々な種類の紙が欲しいといったら、こんなに沢山になってしまいました。」
多分、同じ紙がそれなりの量あるんだろうけれど、ざっと見ただけで、様々な種類の紙が有ることは分る。
「今は、こんなに色々な種類の紙を作っているんですね。」
「紙は、書類に使うだけでなくて、包装に使ったりして、袋や、箱を作ってますからね。用途によって、厚さや硬さが様々なんですよ。
布と違って、織らなくて良いので、安く済むっていう説明でした。」
「それで、こんなに沢山の種類の紙があるんですか?」
「ニケさんが、様々な種類の紙が欲しいと言っていると伝えたら、倉庫や様々な場所から、かき集めてくれたんですけど、途中から、とても私一人で運べる量じゃなくなってしまって。
すみません。時間、掛りすぎですよね。」
「そんな事は無いわ。丁度私も作業が一段落したところだから。
大変だったでしょ?」
「いえ、そんな事は無いです。
それで、この紙は、原料も、製法も違っているんです。
分る範囲で、原料や製法も聞いてきました。」
そう言って、ヨーランダさんは手にしているノートを見せてくれた。
良く見ると、運んできた紙の端には、数字が書き込まれていた。
「流石ね。ヨーランダさんにお願いして良かったわ。
お陰で、私の方は、お願いしている間に、光で硬化する素材の目処が立ったのよ。
もう、夕刻だから、今日は、ここまでにしましょうか。
明日には、王都から紙幣の肖像に使う絵が領主館に届くはずなので、ヨーランダさんには、模写もしてもらわないとならないですね。
明日の夕食は、他の准教授さん達も誘って、一緒に、領主館で食べませんか?」
「えっ。良いんですか?皆も喜ぶと思います。」




