86.余剰金
宰相閣下の話は、それで終りではなかった。
どうやら、この方法を提案したのは、ニーケー・グラナラ嬢だったようだ。
孫のアイテール・アトラス殿の婚約者だ。
ひとしきり、孫と孫の婚約者自慢が続いた。
明日までの作業を命じられた身としては、一刻も早くこの場を離れたいのだが……。
鉄道も、定期船も二人の大魔法で実現しているのは知っている。
ロッサやゼオンのコンビナートも聞くところでは、それぞれ、ほんの2日ほどで建設したらしい。
昨年の爵位授与式の日以降、王宮で二人の事を知らない者は居ないというのに。
今さら、何を自慢しているのだ。
「それでだな。
お前の所には、人員が沢山居るだろう?
アイル達が作ったソロバンのお陰で、随分楽になったようじゃないか。
d10(=12)人ほど、国務館の貨幣管理部門の元へ回せ。
人員の選択は任せるが、これから、紙幣を作る試験をする事になる。
信頼出来ない者、使えない様な者は、回すなよ。」
「突然、人事異動ですか?」
「これから、紙幣を印刷したり、金を保有したりするのは、財務省で実施してもらう。
だから、所属を異動する訳では無い。
紙幣を作るにしても、試作やらなにやらしなければならない事があるだろう。それを、財務省の者で実施してもらう。」
「すると、紙幣の発行などは、財務省の管轄で実施するということですか?
すると、貨幣管理部門は?」
「いや。貨幣管理部門は、独立して、市中にどれだけの通貨を出せば良いのかを判断してもらう。
何しろ、新しい試みだ、彼の者達には、色々調査業務がある。」
「それは、つまり、財務省は、紙幣を製造したり金を保管したりするだけで、貨幣管理部門の言いなりで、通貨の発行をするという事になるのですか?」
「そうだが?何か問題があるか?」
「いえ。ただ、一本化した方が、効率が良いかと思われますが?」
「なあ、ゴリムノ。前任者がどうして更迭されたか、忘れたのか?」
私の前任者は、金貨の鋳造を行なっていた貨幣管理部門へ何かと横槍を入れた。貴金属は財務省が管轄する国の資産だからだ。
貨幣管理部門に難癖を付け、鋳造の妨害をし、そのどさくさに紛れて金貨の横領をした。しかも、巧妙に台帳の操作までしていた。
「それは……。忘れてはおりません。」
「あの時、資産を管理・運用する部門に、貨幣発行の権限を渡すのは危険だと思ったのだ。
特に、今回は、初めて行なう事だけに、慎重に進めるつもりだ。
貨幣管理部門は、今は国務省の管轄だが、宰相府の独立した組織に変更する予定だ。」
いよいよもって、宰相閣下は本気のようだ。
そこまで、厳密な対応をするのか。
宰相府の組織ともなれば、他の宮中の組織は、その決定に従わざるを得ない。
しかし、宰相閣下のこの口振りだと、既に紙幣に変更するのは、決定事項なのか?
「すると、紙幣を発行する事は、既に決定事項なのでしょうか?」
「ああ。アイルとニケの提案だからな。
突飛な事を言い出す事が多いが、奇しな事は実行しない。
話を聞いて理も利もある。
特に、隣国が怪しい状況にある今、早急に対応すべきだと判断した。」
「しかし、問題点を考えろと命じられましたが?」
「それは、当たり前の事だ。何か不都合があるかどうか、この件に関わる者には問うに決っている。不都合な事があれば、修正すれば良いのだ。
後々、困ったことにならないよう、しっかりと考えてくれ。」
宰相閣下の執務室を辞した。
アイルとニケの提案だと?判断基準として、それはどうなんだ?
ただ、宰相閣下のことだから、ご自身で十分検討はされたのだろうが……。
まずは、国務館に派遣する人員を決めねばならない。
今日、既に休暇を取っている者も居る。明日以降になると、さらに増えるだろう。
早急に異動を命じなければ連絡も取れなくなりかねない。
任命した者には迷惑かもしれないが、宰相閣下のご命令だ。甘んじて受けてもらう他ない。
誰を派遣すべきだろうか。
下手な者を異動させれば、私の立場が危うくなりかねない。
自分の執務室へ戻るあいだ、担当者をどうするか考えていた。
執務室に入るところで、デニスが良いかもしれないと思い付いた。デニスは東の方の領地の出身だったはず。確か、グイード男爵ではなかったかな。
勤務状況も真面目な上、財務省で資産管理の業務に就いている。
紙幣の製造と管理は任せられそうだ。問題は、その穴をどう埋めるかだ。
そろそろ、管理職を任せても良さそうな若手が何人か居る。その者達を上に上げるか。
家族持ちだが、国務館には、官舎があったはずだ。家族連れでも、対応してもらえる筈だ。
部屋に戻ったところで、デニスを呼んだ。
デニスは国務館勤務に異動を告げられて、当惑している。
「私が国務館勤務ですか?
国務館には財務省の部門はありませんが、別な部門に異動ということでしょうか?」
「いや、財務省の所属のままだ。早急に移動して欲しい。」
それから、紙幣の話、紙幣を作る業務を財務省が請け負うことになった事などを伝えた。
「その、紙幣というものを全く知らないのですが、それは、金貨や銀貨や銅貨の代りという事で良いのですか?」
「その通りだ。それに、この件は、宰相閣下からのご下命になる。先方には通貨管理部門があるので、異動した後、そこで詳細を確認して欲しい。」
「……」
今回の話は、私にとっても初めて聞く話だ。
宰相閣下からの強い要望で実施される件だと言って、何とか納得させた。
「実際に、その紙幣を作る作業は、我々の手で行なわなければならない。
これまでの貨幣の管理と同じ事となる。民間の者の手を借りることは出来ないのだ。
紙幣の生産に役立ちそうな、若手をd10名ほど選んでくれ。
今日中に、一緒に赴任させる者の選定を行なってくれ。
この件は、宰相閣下から秘密にするように言われている。
この情報が、外に伝わる事のないように扱ってくれ。
人員を確認したら、辞令を作成する。」
「何時、その国務館に赴任する事になるのでしょうか?」
「宰相閣下は、迅速にと仰っていたからな。1週間後には出発するつもりで準備を頼む。」
当惑顔で、デニスは部屋を出て行った。
私は、宰相閣下から質問された事に取り掛かることにした。
まずは、金の保有量をどれだけ増やせるかだな。
最近は予算に余裕があるのだが、決して潤沢な金が王宮に有る訳ではない。
それでも、最近の税収の増加で、余剰金を貯めてはいた。
先日の予算総額は、約d10ミロガリオン(=約7,000億円)の金額で、余剰金もほぼ同額になってきている。
余剰金は、金貨で保管しているのだが……。
これは、王国が保有する金として見るのか?
紙幣を持ち込めば、それと同等の価値の金と交換すると言っていたが、紙幣を金貨に交換という訳には行かないのだろう。本末転倒だ。
金貨には、1/12ほど混ぜ物が入っているという事なのだが。
これは、どうするのだ?
宰相閣下は、通貨の発行数量に合わせたいと仰っていた。
すると、この対応をした金貨は、使用することができない資産となるのだろうか?
何やら混乱してきた。先程、話を伺った時には、それほど不思議とは思わなかったが、実際にどうするのかを考えると、どうすれば良いのか皆目分らなくなってきたぞ。
いかん。頭を整理しないと……。
今後、紙幣をどのぐらい作るかというのは後にして、紙幣というものを作ったら、今流通している通貨を紙幣と交換することになる。
それが一番最初にする事だ。
金貨は紙幣と交換すれば、金が手に入ることになる。
これは問題が無い。混ざり物を無視すれば、紙幣を発行した分の金は確保できる。
銀貨と銅貨については、紙幣と交換で、相当額の銀と銅が手に入ることになる。
この分を金にしておきたいという事だろうか。
銀貨と銅貨を交換して王宮に戻ってきた銀貨と銅貨を相応額の金貨と交換する。
すると、今、王宮で余剰金として確保している金貨が銀貨と銅貨に変わる事になる。
一体保管場所がどのぐらい必要になるのだ……。
いや、それは今考えることじゃない。
ただ、貨幣を紙幣と交換していく事だけを考えると、国庫の資産は減ることはない。これまで金貨で保有していたものが、銀や銅に変わるだけだ。
ここまで、考えて、これが宰相閣下が私に聞いてきた事なのだろうかと思った。
多分違うように思う。
これは、私で無くとも、誰が考えても同じ結論になる。
つまり、これから発行する紙幣の量をどの程度見込めるかという事のはずだ。
そうすると、最初に考えた、利用出来ない余剰金をどのぐらい見込む事が出来るかということか。
ようやく、何を考えなければならないのかが分ってきた。
つまり、余剰金から通貨のために回すことの出来る金額を聞いていたのだ。
余剰金は、あくまで余剰金だ。
使い道が特に有る訳ではない。
ただ、国内で災害が発生したりする場合に特別に予算を組む事になる。
予定外の支出への対応のためのものだ。
しかし、いくら何でも予算と同額などは不要だろう……。大抵の事ならば、現在の予算額の1/4もあれば事足りる。
すると、余剰金の3/4は新規の紙幣発行の為に確保しても大丈夫だと判断できる。
すると、d9ミロガリオン(=約5,000億円)程度は紙幣を追加で発行できる余地にする事ができる。
何となく結論は出たな。
専属の侍女に頼んで、お茶を煎れてもらった。
お茶は良い。以前はこのような飲み物は無かった。
アトラス領から運ばれてくるのだが、物凄く高価だった。
この香り、そして少しだけ苦味のある味が、気持を落ち着かせてくれる。
牛の乳を少し入れたり、砂糖を入れるという飲み方もあるのだが、私は何も入れないのが好きだ。
そう言えば、砂糖というものもアトラス領から運ばれてきている。
以前は、貴重品で、晩餐会で菓子として提供されていたが、今は普通に手に入るようになってきた。
まだ、かなり高いのだが、紅茶に少しだけ入れて飲むことは出来る。
全く驚くほど、世の中が変わってきている。
紙幣というものも、その一つなんだろうか。
懸念する事はかなりある。問題かと言えば、そうとは言えない。
まず、金貨の混ざり物をどうするかだ。
大量にある金貨から混ざり物を取り除くことは、そう簡単に出来る事ではない。
ただ、不可能という訳ではないのだから、懸念事項だ。
あとは、偽造だろうか。紙幣というものがどんな物なのだろう。
紙に図案が描かれたものだと言うのだが、そんなものは、紙さえ有れば、誰でも作れるのではなかろうか?
そして、大量の銀貨と銅貨の扱いだ。
その銀と銅は、王国の資産として保管管理することになるのだろうか?




