84.造幣準備
化学研究所の居室に着いたところで、化学研究所准教授を招集した。
一応、バールさんに、准教授に金本位制と紙幣の件を伝えて良いということを確認したので、これまでの経緯を皆に伝えた。
准教授の面々の中では、鉱物研究室のジオニギさんだけ別行動をお願いすることになる。
「ジオニギさんには、ノアール川流域にある金の鉱山の埋蔵量の調査をお願いします。」
そう伝えて、ノアール川流域から持ち込まれてきた様々金鉱石を見せた。
灰色をしている鉱石の中に金が含まれている。
色の濃淡がそれぞれに違っている。
「鉱石によって、金の含有量が変わるので、これと似ている鉱石がどの程度あるのかの量と、金を含んでいそうな鉱石を、なるべく沢山の種類、持ってきてください。
以前、アトラス領の鉱物調査をした文官の人も手伝ってくれるようにグルムさんにお願いしてあります。」
「えーと、船は出してもらえるんですよね?そうしないと、行って戻るだけで、半年近くかかっちゃうんですけど。」
その心配は正しいね。
「ええ。それは既にグルムさんに、頼んであります。詳細は以前鉱物調査した人に聞いてみてください。」
それを聞いたジオニギさんは、安心した表情をして領主館に向った。
「残りの皆さんには、紙幣用のインク組成の検討と、金の精錬の方法の検討を分担して行なってもらいます。天然物研究室のキキさんと、石炭化学研究室のギウゼさんは、インクに適した油脂を、生物由来、石炭由来で探してください。
無機化学研究室のヨーランダさんと、分析化学研究室のカリーナさん、薬剤研究室のビアさんには、金の精錬の方法の検討の手伝いをお願いします。
それと、ヨーランダさんには、紙幣の図案もお願いすることになります。」
「えっ。私がですか?」
「ええ。お札には、人物の肖像を入れることにしたんです。絵の上手いヨーランダさんが適任なんです。お願いできませんか?」
「それは、紙幣の図案を私が描くってことですか?」
「ええ。だって、ヨーランダさんは、絵が上手いじゃないですか。」
「えぇと、そのぅ。そういった事は、専属をしている絵師の人がするものなのでは?
私には荷が重すぎます。」
「そう言うとは思っていたんですけれど、紙幣の絵は線だけで描くので、普通の絵とは違うんです。
陰影は線の数や太さで表現するので、普通の絵師さんの絵とは違った描き方に慣れていないと上手くいかないんです。
以前、ヨーランダさんは、植物とか細菌の姿を線や点で表現して描いていたじゃないですか。
あんな感じの絵が必要なんです。」
「……」
「まだ、誰の肖像を描くのかとかも決ってませんから、今じゃないんです。
でも、他に頼れる人も居ないので、是非お願いしますね。」
不承不承、ヨーランダさんは了承してくれた。やっぱり自信は無いのかもしれない。
それから、私は、求めるインクの特性の、濡れても滲まないこと、油で簡単に溶け出さない事、乾燥にあまり時間が掛らないこと、細い溝に上手く浸透していくことなどを伝えた。
さて、問題は金だね。
金や白金族と言われる金属は、他の金属と比べると、イオン化し難くて水に溶けるようになってくれない。イオン化傾向が低すぎるんだ。
貴金属は、かなり強力な酸化剤で酸化しないとイオンにならない。
それで、貴金属って分類になっているんだけどね。
シアン化アルカリは、酸化剤と組み合わせると、金や銀を選択的に水に溶かしてくれる。
危険性が無ければ、一番のお勧めの方法なんだけど……シアンって青酸の事だ。
使うのも、排水処理するのも、この世界では大変なのだ。
少しでも漏れたら、即、死亡事故になりかねない。
特に厄介なのは、シアンイオンが含まれている水溶液が酸性になった場合だ。青酸ガスが発生して、吸い込んだりするとアウトだ。
シアンイオンは、細胞のミトコンドリアと結合して酸素が利用できなくなり、細胞の窒息死を引き起す。
前世の様に、漏洩センサーを完備して、管理を厳重にすれば対応出来ないことはない。実際化学プラントで安全に使用していた例もある。
でもね、この世界では、まだダメだろう。
気がついたら、工場の人が倒れていて、助けに行ったひとも倒れてなんてことになりかねない。
だから、不採用にするしかないんだよね。
他に、水溶性の酸化剤で良く使われるのは、濃硝酸、王水、塩酸と塩素ガス。
どれも、劇物、毒物の類いだ。
シアンほどの猛毒性は無くっても、塩素ガスなんかは吸い込めば確実に人は死んでしまう。
これらのうち、濃硝酸は、銀には有効でも、金を溶かすことができない。
金に有効なのは塩素イオンを含んだ酸化剤だ。
王水は、金や白金、パラジウムなんかを溶かす事が出来る強力な酸化剤。
硝酸1に対して塩酸3で混合したものを王水と言う。ただ、実際に使うのは硝酸1に対して塩酸4になる。
つまり、酸化作用があって、高濃度の塩素イオンがあれば、金は、塩化金イオンになって水に溶けてくれる。
ただし、こっちは、こっちで問題がある。
塩酸でステンレスが溶けるんだよ。塩酸を使うならステンレスを保管や反応容器に出来ない。
それで、コンビナートでも塩酸は使わないようにしていた。
紙の漂白に有効なんだけど、次亜塩素酸に留めていたんだよな。
ステンレスをゴムでコーティングするのは有効かな?
そもそも生ゴムって、塩酸や王水に耐性が有ったっけ?
ゴムを使う時は、ニトリルゴムを使っていたから、ちょっと怪しいかな。
確か濃塩酸の容器は塩ビ製だったはずだ。
ん。ガラスでも良いのか……。
うーん。ステンレスにガラスでコーティングしても、熱膨張で亀裂が入りそうだな。
あれ、琺瑯って鉄にガラスのコーティングしてたよな。
熱耐久性あるんだっけ、火に掛けたりしていたから、ある程度大丈夫なのかも……。
少し考えて王水を使うことにした。
塩素ガスを扱うのは、かなり危険だ。
同じ危険性でも液体とガスでは扱いに違いが出てくる。
塩酸をどうやって作るのかってのがあるけど、そっちは、塩素ガスを使ったとしても密閉した環境が作りやすい。
金の精錬は電気精錬をする予定だから、結構人が近くで作業する。
タンクや容器はクロムステンレスの琺瑯を使う。
クロムステンレスは、若干他の鉄よりも熱膨張率が低めだ。
まあ、そのうち、琺瑯もこの世界の人が作れるようになるだろう。
補修は追々この領地の人にお願いすることが出来るんじゃないか?
ガラスの巨大な装置を作るより、大分マシだろう。
金の精製担当の准教授達に塩酸の合成、王水の製造などを指示していたらアイルがやってきた。
丁度良かったので、琺瑯の実験装置を作ってもらった。耐久性も見ないとダメだからね。
アイルはアイルで、工場を作るための素材が欲しいんだそうだ。
コンビナートへ無線で連絡をして、酸化鉄やクロム鉱石なんかを運び込んでもらうことにした。
電気配線をするための、工兵騎士さん達も召集した。
化学実験は、准教授達に任せて、昼食後、工場予定地へ移動した。
着々と、工場用の原料は、船で運び込まれていた。
何か、私達の依頼事項って、最優先なんだろうか。
多分そうなのかもしれない。
少し弁えて行動しないと、マズいのかも……。
アイルと相談して、先ずは、水を独立して確保できる様に、上下水道設備を作っていった。
メーテス内には、一応上下水が供給されるようになっているけれど、工場を作る前提には無かったからね。
まあ、水道設備はあっという間だったよ。もう慣れたもんだ……。
その後は、順次、運び込まれた原料鉱石からステンレスを作って、アイルが製紙工場を作っていく。
紙のプレス条件を強くする為の仕組みを工夫したりして、従来の製紙工場の設備とは変更をしていった。
あれこれ、これまでの装置から変更したので、時間が掛ったけれど、午後の時間を使って、新しい製紙工場が出来上がった。
あとは、出来上がった紙の状態を見て、工場設備の変更なんだけど……作業する人が居ない。
あまり、詳細の作業などを広める訳には行かないので、これは、国務館と相談だな。
翌日印刷工場を作ることにして、その日は、化学研究所に戻って、今日の作業の進捗を確認した。
今、メーテスで行なわれている数学の授業は、もともとアイル配下の准教授が行なうことになっていた。補助的に私の元に居る准教授が対応していたけど、こんな事態になったので、全面的にアイルの方で対応してもらうことになった。
少しだけアイルが文句を言っていたけど、まあ、大丈夫だろう。
そもそも、物理学と化学では、数学を使う内容も頻度も大幅に違う。
量子化学とかでもやらないかぎり、そんなに高度な数学は不要だ。
微分方程式を使う事はあっても、三角関数の加法定理を使うことなんて殆ど無いよ。
アイルと一緒に帰る馬車の中で、印刷装置をどうするか相談した。
平面の板の版を沢山準備したとして、どうやって紙に印刷するかだ。
アイルは、変形の魔法で、回転するドラムに版を嵌め込めるんじゃないかと言う。
寸法を変えずに、そんな事が出来るのかと聞くと、多分大丈夫だと言っていた。
まあ、あとは、現場合せなんだろうな。




