50.変革
1刻半(15分)ほどで、ヤシネ殿は、2枚のガラスの板を持ってきた。
そこには、私達家族の姿が写っていた。
2枚のガラス板は、驚くことに、全く同じだった。
「これで、寂しくないわ……。」
「領地は然程離れていませんから、何時でも遊びに来れば良いのですよ。」
涙ぐむ娘を、妻が慰めていた。
「それで、子爵様は、薬をご所望でしたね。いろいろ話し込んでしまって、申し訳ないです。
個人で使われる程度の量であれば、お売りすることは出来ますが、どうされますか?」
「いや、まずは、この写真だろう。如何程払えば良いのだ?」
「写真ですか……。これは、価格が決まっていないというか……。
カメラはアイル様から頂いたものですし、ガラスの板もそうですね。ここで使っている薬剤もニケ様から頂いたもので……。
費用と言えるものは、ほんの2刻ほどの作業費でしょうか。
薬を買っていただくオマケという事で良いですよ。」
いやいやいや、そんなバカな話は無いだろう。
薬も素晴しいものかもしれないが、この写真に、娘があんなにも喜んでいる。
こんな素晴しいものが只とは……。
なるほど……これなのか。
アイテール様やニーケー様が関わったものは、絶大な価値が有るのに、価格が無いのだ。
どれもこれも、本気で金額を算出しようとすると、とんでもない金額になるようなものだ。
しかし、実質金が掛っていないから、只なのだ。
何とも無茶苦茶な話だ。
それが普通なので、この領地は、ここまで発展したのだ……。
私、妻、騎士達が、それぞれ24日分の解熱剤、72包を購入した。
少し変わった紙で5角形の形に包まれた薬は、食後服用、1日3包までと言われた。
子供に処方する場合には、半分以下の量にすること、赤子の場合には、そのさらに半分と言われた。
料金は、それぞれ600ガント(=1万円)と言われた。
他には無いものだと考えると、随分と安い。
包んでいる紙は、薄く作った紙に薄いロウを塗布した、薬包紙というものだと聞いた。
これは、ニーケー様が、コラドエ工房に依頼して作るようになったものだそうだ。
紙には、こんな使い方もあるのだなと感心した。
ヤシネ殿には、色々と教えてもらったこと、写真を撮ってもらったことなどの礼を言って、工房を後にした。
コラドエ工房を出る時には、昼食の時間になっていた。
妻達の希望で、昼食は、肉料理の店になった。
この店は、海浜公園の最初の屋台の様に、焼いた肉をパンに挟んで出す店だった。
「このハンバーガーというのは、ハンバーグをパンに挟んだものなのか?
それなのに、肉をパンに挟んだものは、肉パンという名前なのか?
なんか、食べ物の名前が、奇しくないか?だったらハンバーグパンじゃないのか?」
「あら、貴方、変なところに拘りますね?」
「うーん。この領地の食べ物の名前は変だとは思わないか?」
「いいんですよ。そういうものだと思えば。」
何となく納得出来なかったのだが、ハンバーガーは、とても美味かった。
息子は、3つも食っていたが、食いすぎじゃないのか?
食事を終えて、私達は、ボーナ商店へ、昨日採寸して仕立ててもらった衣装を取りに行く。
ボーナ商店に着くと、衣装は全て仕立てられていた。
それぞれの衣装を纏ってみて、手直しの必要が無いかを確認した。
流石に、有名店だけあって、手直しが必要なところは無かった。
手形は文官のヴァエルが午前中に届けていてくれた様で、支払いの問題は無かった。
妻は、アトラス布を買いたいと言う。
店の人に売り場を聞いて、隣にある布類の売り場に移動した。
そこには、漂白した布、その布に染色をした布が大量に置いてあった。
「価格が一桁違いますね。」
「そうだな。凄く安い。王都で手に入れる普通の布の価格とあまり変わらないではないか……。」
これまで、王都でのアトラス領の製品が高かったのは、やはり関税や運送費用の所為なのだろう。
船で輸送が始まっているので、王都での布の販売価格はかなり下るだろう。
これまで、アトラス布は高級品で高値でも売れていた。
ここまでアトラス布の価格が安く、王都に持ち込まれたら、王都周辺の布製品の商売は大打撃を受けるだろう。
漂白していない布の値は大幅に下げざるを得なくなる。
王都だけではないな。船が運行することにより、海の沿岸の街では、それまで高額だったマリム産の物品が、大幅に安く手に入ることになる。
そして、鉄道が通れば、その影響はガラリア王国の内陸部にも及ぶ。
この時、初めて気付いた。
マリムの製品が安く流通するとどうなるのか。
これまでの、ガラリア王国の生活は、3000年前とは然程変わっていない。
いや、ユーノ大陸全体が変わっていない。
開拓を進めてきた所為で、衣食住に困ることは無くなってきたが、それだけだ。
もし、大きな嵐が来れば、多数の王国民が死に、衣食住にも困る。なんとか復興しても、前の生活が戻るだけだった。
しかし、この街では、大きな嵐の到来すら、事前に判るのだ。
備えることも出来たのだ。
この街は、ありとあらゆる事が違っている。
この街ほど、安全で、清潔で活気の有る街は他に無い。
領地運営の施策も大幅に異なっている。しかも、その施策は領民にとって良い事ばかりだ。
その事を知った、王国民がどう思うか。
この街の状況が、王国中に広まっていく。広まらざるを得なくなる。
この辺境の東の果てで起った変化は、これまで、距離と関税の所為で未開の極東の領地に押し止められていた。
王都との間で船、鉄道が運行することになった。
この変化は、またたく間に王国を変革してしまうだろう。
3000年間、我々は、眠っていたのだ。
停滞と言うべきなのかもしれない。
毎日、毎日、同じ夢を見て眠っていたのだ。
これから、我々は目が醒ることになる。
背筋に寒気が襲った。
まだ、誰も、気付いていないのかもしれない。
いや、気付こうともしていないのだ。
「あら?貴方。どうかなさいました?」
妻の呼び掛けで、我に返った。
妻のところには、山の様な布が置いてあった。
「これは?こんなに買う心算なのか?」
「ええ。だって、お安くて。これだけ買えば、船代の元も取れましてよ。」
まあ、妻が嬉しそうだから、良いだろう。
それに、ボーナ商店は、王都での布の価格も突然ここまで安くしたりはしないだろう。
ボーナ商店としての折角の儲けをふいにすることになる。
支払いを手形で頼むと、今回は商業ギルドへの確認は不要だと言われた。
購入するものが増えたり減ったりすることは常にあり、一度確認された場合には、商店から金額を商業ギルドに申請するのだけで済むのだそうだ。
確認書には、振り出す者の信用度に応じて、手形の上限が記載されているらしい。
私は、王都の近郊の豊かな領地という認識で、上限は特に設けられていないと聞いた。
その事を聞いた妻は、さらに布の枚数を増やした。
それ以上布を増やすと、領地に帰る時に大変な事になるぞ。
妻が購入した布は、量が多いので、宿に運んでもらう事になった。
一旦、衣装を持って、宿に戻った。
衣装は、ボーナ商店と大きく書かれた紙の袋に入っている。
紙に、この様な使い方があったのだな。
流石、紙を作っている商店だけある。
宿に戻り、衣装を片付けたところで、妻が声を掛けてきた。
「ねぇ。貴方、領主館に行くまで時間があるから、もう少し商店を見てまわりたいわ。」
私は、先程気付いた事が気になって仕方が無い。
「子供達と、廻ってくると良い。私は、少し考えたい事がある。」
「そうですか。領主館を訪問するのが、6時半(午後5時)ですから、6時(午後4時)には戻ってきますね。」
妻は、子供達を誘って、街に出ていった。
私の元には、騎士が一人残った。
これから、我が領地も、大きな波に呑まれていく。
大きな変革の波だ。
昨日までの我々の生活は、激変することになる。
対応を間違えば、将来何が起こるのか……。
そう言えば、アトラス領の所為で追い込まれ、犯罪に手を出した領主が居た。犯罪に手を染めたため、族滅の憂き目に会ったと聞いている。
私の領地は、アトラス領とは離れていたため、何と馬鹿な領主だと思っていたのだが……。
これからは、王国全てが、アトラス領の影響を受けていく。
アトラス領と同じ事をしても、最初から勝負にはならないのだ。
我が領地の地の利は、海と川、そして王都に近いこと。
しかし、その地の利もこれからの世の中で、何の利点となるだろうか……。
我が領地が持つ利とは何なのだろうか……。




