42.大聖堂
宿のベッドは、硬すぎず、柔らかすぎず、良い感じでぐっすりと眠れた。
昨日、精神的に疲れた所為かもしれない。
今日は、マリム観光をする。
妻や子供達は楽しみにしていた。
こういうものは、早めの行動が重要だ。
1時半には準備して、宿を出た。
宿に、駅に向う途中で、朝食が食べられる店を聞いた。
勤務前に、朝食食べる人も多いようで、何軒か、紅茶と軽食を提供している店がある。
宿が勧めてくれた店を選んで、お茶とパンとベーコンと例の目玉焼きの朝食だ。
この料理は……マリムの街中でも、こんな物騒な名前で呼ぶのだな。
店の外の布製の庇がある場所にテーブルがあったので、そこを選んだ。席に着いて、朝食を食べた。
こういった場所で食事を摂る事は、領地でも王都でも無い。
なかなか得難い、新鮮な経験だった。
脇に騎士が立っているために、かなり注目を集めたようだ。しかし、安全には替えられないので仕方の無いことだ。
騎士達には、順番に護衛を外れてもらい食事を摂ってもらった。
息子は食べ足りなそうだったが、我慢させた。
最初に食事を終えた騎士に、観光馬車を確保するために駅へ走らせた。
都合良く、8人乗りの観光馬車を見付けてくれた。
どこを廻るのかを馭者に聞くと、マリム大聖堂、マリム大橋、海浜公園、コンビナート、ガラス研究所、海沿いのコンビナートらしい。
海浜公園で、半時ほど留まって、昼食にする予定だ。
普通はこの順番で廻るのだが、まだ早い時間なので、マリム大聖堂、コンビナート、マリム大橋、海浜公園、ガラス研究所、海沿いのコンビナート
の順で廻ることになった。
ここらへんの交渉は、妻に任せた。こういうところは、私が口出ししない方が、後々問題は起こらない。
料金を含めた交渉が終り、馬車に乗り込んだ。
最初の訪問場所は、マリム大聖堂だ。正式な名称は、マリム神殿なのだが、誰もその名称では呼ばない。
それも、マリムの神殿は、ガラリア王国最大の威容を誇っているからだ。
そして、その規模が、アトランタ王国にあり、大司教が神殿長を務めるガイア大神殿に匹敵するものだという事は、ガラリア王国中に知られている。
もともとのマリム神殿は、極々細やかな神殿だった。
領都の人口が爆発的に増加して、建て替えを行った。その際に、ヘントン・ダムラック司教が、あまりにも無茶な規模の神殿の建設を申請した。
しかし、全く修正が行なわれる事無く、建設が行なわれてしまったのだ。当然ながら、その費用は全額アトラス領が負担した。
この事は、ヘントン・ダムラック司教があちこちで吹聴していることで、王国中に知れ渡っている。
そして、様々な噂や憶測が流れている。
今や、王国一の金満領主であるアトラス侯爵にとっては些細な出費だったのだとか、それまでの貧乏領地が多額の税収のために金銭感覚が奇しくなったのだとかだ。
領主のアウド・アトラス侯爵とヘントン・ダムラック司教は古くからの友人で、司教が悪ふざけをしたなんてものまである。
最近真しやかに出てきた憶測は、神の御使いのアイテール様とニーケー様が居るマリムの神殿だからだというものだ。
お二人の事が公になったので、それまで隠していた理由が表に出たのだとか。
ゆっくりと丘の上に向っている馬車に揺られながら、そんな詰らないことを考えていた。
丘の上に馬車が昇った。マリム大聖堂の威容が目の当たりにある。
マリム特有の色ガラスによる窓の装飾が日の光に当って煌めいていた。
海の方を見ると、マリムの街が一望できる。大きな街だ。
南南西の方向に、マリム大橋が望める。
良い場所に建てたのだな。こちらから街が一望できるという事は、街のどこからでもこの大神殿が見えるのだろう。
大神殿の中に入ると、東側の窓から、色取り取りの光が神殿の中に光を落している。
正面のガイア神像の他、数々の神々の神像が並んでいる。静謐で厳かな雰囲気に包まれた場所だ。
神の前で傅く場所には、彩色が鮮かなカーペットが敷かれ、銀の神具が並んでいた。
騎士を引き連れていたからだろうか、神殿の司祭と思われる人物が声を掛けてきた。
「貴族の方でいらっしゃいますね?」
「ああ。陛下より子爵を賜わっている。ムザル・ロッサと言う。」
「ロッサ様と言えば、王都に近い、ロッサ川の河口に領地を持たれている方ですね。何かご要望がご在ますか?」
「いや。ただの観光だ。それにしても大きな神殿だな。」
この司祭は、このマリム神殿で司祭を務めて28年なのだそうだ。昔のマリムの事も知っている。
司祭の話では、マリムの人口が急速に増え、婚姻式や葬式を行なう小神殿が足りなくなり、神殿の庭で儀式を行なわなくてはならなくなった。
それで、改築の話を領主に依頼したのだそうだ。
その時に、領主館のある丘の隣りの丘をまるまる一つ、神殿のために使って良いと許可が降りた。領主館のある丘との間に沢があって、領主館としては使い難くて放置されていたのだそうだ。費用は領地で出すので、好きにして良いとも言われた。
最初は、以前の神殿の4倍ぐらいの規模で考えていたのだが、丘の大きさと比較してどうにも収まりが良くない。ダムラック司教の奔放な性格から、丘の半分以上を占めるほどの大神殿を領主に申請した。
費用や規模などで、何か言われたら縮小したら良いと考えたのだ。
ところが何も言われない。逆に、その大きさで大丈夫なのかとまで聞かれた。
その頃は、移民の人数が多く、領主館ではその対応に追われていた。
結婚したくても神殿が使えない。亡くなった人の葬儀に難儀をする。そんな事になったら、領民が困るだろうという話だった。
それで、再度、神殿の大きさを大きくしたが、それでも何も言われない。
それならばと、さらに大きな神殿の計画をした。それが今の大きさの神殿なのだそうだ。
大神殿を囲むように12の中神殿、その周りと奥に向って、d400の小神殿を持つ巨大な神殿になった。
「建築の費用で、何も言われなかったのですか?」
「その頃は、ソロバンから始まり、鉄、ガラス、紙、アトラス布と高額で売れる製品が次々と生み出されていました。
アトラス領は、この神殿の一つや二つ程度では、小揺るぎもしなくなってました。
それに、神殿を建設する人手も沢山ありました。
移民としてこの領地にやってきたばかりの者は、直ぐには仕事に就けません。
仕事の無い者に仕事を与える必要もありました。」
隣で聞いていた妻が溜息を吐いていた。
私も溜息が出そうになった。
結婚と葬式の話ばかりだったが……私の領地での神殿の大きな役割は、生れて間も無い子供たちの治療なのだ。どうして、その話は出てこないのだろうか?
「この領地は、子供がとても多いと感じました。生れる子供が多いのでしょう。生れて間もない赤子の治療の場所を確保するのは大変ではないのですか?」
「今はそれほどでは無いのです。今でも神殿に運び込まれる子供は居ますが、生まれる赤子の人数に対して、運び込まれる赤子の数の比は、以前のd400分の1ほどに減っています。」
「それは……どうしてなのですか?」
「まず、ニケ様が上下水道を作られたのが一番の要因ですね。この街は綺麗で、変な臭いもしませんでしょう?
それまで、道に廃棄していた汚物や食べ残しは、全て下水に流されて処理されています。
ニケ様の説明では、汚物や残飯には、子供を病気にするとても小さな生き物が居るという事です。
井戸や川の水にも居るのだそうで、この領地の水は、そういった小さな生き物を除いた安全な水が供給されています。
そのお陰で、病気に罹る子供は、とても減りました。
そして、薬というものも提供してくれるようになりました。この薬というものを飲ませると、熱が下がって、食事を摂れるようになります。
大抵の子供は、熱や体調の所為で栄養を摂ることができなくなって、衰弱して亡くなってしまいます。
神殿に運び込まれる子供達は、手の施しようがなくて……。
神に祈る他無かったのです。
それでも殆どの子供は亡くなってしまっていました。
それが、それこそ魔法の様に、回復して神殿から元気な姿で親御さんの元に戻るようになったのです。」
そう言えば、昨日のシェフがニーケー様に孫を助けられたと言っていたが……。この事だったのか。
「それで、ニーケー様の事を女神様とか聖女様とか呼ぶのですか?」
「ええ。その通りです。ニケ様は、正に神の国から使わされた使徒様と言う他ありません。神殿は、アイル様、ニケ様のお二人は、神の国から使わされた使徒様であると認めているのです。」
しかし薬か。それはどういったものなのだろう?
「それで、その薬というのは、どういう物なのですか?」
「白い粉です。赤子の場合と大人の場合では飲ませる量が違っています。」
「大人も飲むのですか?」
「ええ。その薬というものは、熱を下げる他に、痛みを抑えてくれるのです。
頭痛や女性の月毎の痛み、怪我をした時の痛みも抑えられるのです。
ですから、大人の方々も、飲むことがあります。
特に、アトラス領の騎士団に良く売れていると聞きます。
騎士の方々は、怪我をする事が多いですから。」
後ろに控えていた騎士が身じろぎしたのか音が聞こえてきた。
「お話中に失礼ですが、その薬という物を手に入れることはできるのでしょうか?」
騎士にとっては耳寄りの話だな。私も手に入れられるのなら手に入れたい。
「ええ。薬はニケ様から製造方法が開示されています。ただ、製法を誤ると毒にもなるそうで、領都のコラドエ工房で厳重に管理して生産されています。
コラドエ工房の店舗や、コラドエ工房から卸された雑貨店でも扱っているはずです。」
「王都や、私の領地では、その薬の事を聞いた事が無いのですが、生産する量が少ないのでしょうか?」
「いえ。そんな事は無いと思います。ただ、王国中にとなると、どうなんでしょう。生産する量が足りていないかもしれません。
それより、飲む量を間違えると、効果が出ない上に、体を痛めるそうです。そういった知識無しに薬を飲むのは危いのだそうです。」
「すると、量を間違えなければ良いという事ですか?」
「私もそれ以上は詳しく知りませんが、そうなのでしょう。詳細は販売している所で聞いていただくしかありません。」
なるほど。文官に頼んで、手に入れてもらおうか。
しかし……病気になる子供が減ると、御布施も減ってしまうのではないのか?
「病気で運ばれてくる子供が減ると御布施の方の問題が出てきたりしませんか。そうなると、この人口です。領都で炊き出しするのも大変では?」
「炊き出しですか……最近は全く行なっていません。前回炊き出しを行なったのは、大きな嵐で沢山の人が避難して来たときですね。」
意外な内容だ。
「炊き出しをしないのですか?」
「ええ。アトラス領で炊き出しをしても、誰も寄ってきません。小腹が空いた子供が集ってくるぐらいなものです。アトラス領では、誰も生活に困っていません。
炊き出しの必要性そのものが無いのです。」
それから聞いた話は、容易に信じられるものでは無かった。
寡婦や大黒柱が大怪我をする、高齢で普通の仕事が出来なくなるなどして、困っている家庭には、炭焼きという軽作業を斡旋して生活が困らないようにしている。
足腰が弱ってそれすら無理になった住民は、世話をする施設があり、神殿の修道士が手助けをしている。
妊娠で一時的に働けない女性は、出産のための休暇を取ることができて、休暇を取ったことで、雇い主が雇用を停止することは禁止されている。
生れたばかりの赤子を預かる施設があり、出産後、母親は仕事に戻ることができる。そして、その赤子の世話も神殿の修道士が行なっている。
新しく移民として、領民になった者は、商業ギルドや工房ギルドが、その人の適性に合わせて職を斡旋する。この領地は常に人手不足なのだ。
つまり、この領地では、体調の問題で働く事が出来無い者以外に失業している者は居ないのだ。
こんな状況にある領地が、王国内で、他に有るとは思えない。
私の領地でも、かなりの失業者が居る。
炊き出しはかなりの賑いだと聞いていた。
本来なら、炊き出しをするぐらいなら、職を斡旋した方が良いのだ。
しかし……そんな事が出来るものなのだろうか……。
そう言えば、大きな嵐の時に炊き出しをしたと言っていたが。
「炊き出しを最後にしたのは大きな嵐の時と言っていましたが、被害はどうだったのです?」
「あの時は、酷い被害がありました。領都の海岸に近い場所は、大波や高波で、かなりの家が流されるか壊れました。
その跡地が、今は海浜公園と大浴場になっています。」
あれ?人的被害は無かったのだろうか?
「亡くなった人も多かったのでは無いですか?」
「いいえ。かすり傷を負った者が一人二人居たらしいですが、誰も命を失なっていません。」
「それは……?どういう事ですか?」
大きな嵐が来る事を、事前にアイテール様が知り、海沿いの低い土地の住人をこの大神殿に避難させたのだそうだ。他にも、日中、ヘリオをセレンが覆い画して真っ暗になった事もあったらしい。
それも、アイテール様が事前に予知して、街中の電灯を点けたことで、誰も怪我をしたりしなかったのだそうだ。
そんな事もあり、ニーケー様だけでなく、アイテール様も神の使徒として認められている。
このマリム大神殿に観光に来たのだが、聞いた事が整理できない。
この話も文官に頼んで、調べてもらった方が良さそうだ。




