32.噂
私は、アトラス領やアトラス家、グラナラ家の事は、ロッサには無関係だと思っていた。
アトラス領は大陸の東の端の辺境の領地だ。
ここ数年の躍進があるとしても、もともと、魔物が出没し、貧困であえいでいるような場所だった。
一方、ロッサ領は、王都の近傍にある富裕の地だ。
ロッサ川はlガラリア王国を流れる大河だ。しかもその流域はノルドル王国には掛かっていない。
沿岸の領域は全てガラリア王国だ。
そして、その沿岸の産物は、ロッサの街に集まる。
そして、王都や第二の都市だったゼオンへの荷は、ロッサで積み替えられて、送られる。
波が無く、水が下流に流れている川で使用する船と、波が高く、風が無ければ移動出来ない海で使用する船は全く別ものだから当然の事だ。
まさに地の利の恩恵を受けることのできる領地だ。
この地を拝領した父祖達には感謝しか無い。
そんなロッサで子爵を務めている私が、アトラス領の事など気にする方が不自然だろう。
そうは言っても、アトラス領から齎される物品には興味が有った。我が妻は、アトラス布が大のお気に入りだ。
他の布と比べ、純白の布は、そのまま使って良し、染めても色が鮮かで良い。
妻は、王都を訪問する度に、大量に購入していた。
我々貴族は、王宮晩餐会での情報交換が非常に重要だ。
しかし、アトラス家が王宮晩餐会に出席した事は無かった。
そのため、アトラス家の事については、誰も知らなかった。
というより、辺境にあるアトラス家に興味を持つ貴族は皆無だった。
それでも、宰相閣下の娘の嫁ぎ先であるとか、近衛騎士団長の娘が騎士団長の元に嫁いでいるといった事は良く知られていた。
長い間、辺境で苦労しているという噂はあった。
宰相閣下の娘のフローラ様も、何を好き好んで、あのような辺境に嫁いだのかと口さがない貴族達の恰好の的になっていた。
変化は突然やってきた。
最初は、ソロバンだった。
新しい物を好む、領主はそのソロバンに注目した。
今から4年前だったろう。態々晩餐会に持ち込んで、ことさら自慢気に周りの貴族達に見せていた。
私も見せてもらった。木工品なのだが、これまで見た事もない精密な細工が為されていた。
そのソロバンは、数字の使用と合わせて、有用性が浸透していった。
アトラス領には、優れた職人が居るのだと思い、羨しい事だと思った。
数字を考え出した者もアトラス領に居るのだと思った。
さしずめ、流れ者の求道師でも雇ったのかと思っていた。
その頃は、アトラス領は、辺境の貧しい領地のため、それ以上の注目は集めてはいなかった。
それから然程時間を置かず、国王陛下の元に、鉄剣とガラス製品が齎された。
その時の晩餐会は、大騒ぎになった。
ガラス製品の登場は、驚く他無かった。
既に、「神々の戦い」から長い時が経っている。
その時から、ガラス製品は、新たに作られる事は無くなっていた。
製法を失伝しているのだ。
王国内に現存しているガラス製品は、国王陛下、侯爵閣下といった王国内で有力な貴族の元にあるだけだ。
割れたガラスの欠片ですら、高額で取り引きされ、貴族家の家宝となっていた程だ。
それほどに貴重な物だったのだ。
これまで、数多の求道師がガラスを生み出そうとしていたのだが、そもそもどのようにしたらガラスが出来るのかすら解明されていなかった。
アトラス領に雇われた求道師は、ソロバン、数字に次いで、ガラスとは、並大抵の者ではないのだと知った。
晩餐会で、国王陛下が、鉄の剣は強く折れる事もない、青銅の剣では太刀打ち出来ないと紹介された。
銀色に輝く剣は、まるで宝飾品のようだった。
晩餐会の余興で、その鉄の剣と、それより遥かに太く丈夫そうな青銅の剣を打ち合わせた。
青銅の剣は、砕け、鉄の剣は傷一つ付いていなかった。
鉄というのは全く知られていない金属だった。
その様な金属がある事は、王国内の貴族は誰一人として知らなかった。
国王に贈られた剣は、聖剣とか魔剣とか様々な呼称で呼ばれた。
この鉄の剣には、多くの領主貴族達が色めき立った。自領の騎士達に装備させたいと願ったのだ。
しかし、アトラス領から、鉄の剣が出てくる事は無かった。
後の晩餐会での、有力な噂としてアトラス領の騎士達へ装備する事を先行しているのだと囁かれていた。
アトラス領は辺境で、山岳がある。魔物の脅威は王都周辺の領地とは大きく違っている。辺境にこそ必要なものなのだと。
そんな噂を真しやかに語っていた貴族は、入手出来ない物を諦め切れなかったのだろう。
ロッサ家にとっては、鉄の剣の必要性は感じなかった。
魔物の脅威など、全く存在しなかったからだ。
しかし、今にして思えば、アトラス領が鉄の剣を外に出さなかったのは、ノルドル王国の侵攻を予見しての対応だったのかもしれない。
一方、ガラスに関しては状況が違っていた。
かなりの数のガラス製品がアトラス領から王都に運び込まれた。
意匠としてどうかと思うものもあったが、我先にと貴族達はガラス製品を求めた。
そして、晩餐会は、購入したガラス製品の話題一色になった。
なにしろ、ガラスの割れた欠片ですら、家宝になっているのだ。
美しい輝きを放つガラスの製品を手に入れたことは、貴族達にとっては自慢だったのだ。
鉄製品は、剣が出回ることは無かったが、代わりに、鉄製の農具が大量に売り出された。
それまで、木製の鋤で土地を耕していたのだ。木製の農具は、根が絡み、硬くなった農地で使うと、直ぐに壊れて作り直さなければならなかった。
鉄製の農具は、頑丈で、全く壊れる事が無い。
それまで金属で農具を作るという事は、全く考えられていなかった。
いや、青銅を農具にしようとする試みは有ったのかもしれない。しかし、青銅では硬い農地には全く歯が立たなかったのだ。
鉄製の農具は、硬くなった土地も耕すことが出来た。
土魔法がそれ程得意でなかった領地貴族は、争う様に、アトラス領産の鉄製農具を買い求めた。
そしてカトラリーという物が広まり始めた。
ある時から、王宮晩餐会での食事はカトラリーを使用するようになった。
その時から、ナイフとフォークを使用する前提で食事が提供された。
それまで、手掴みで食事をしていたのだ。どの料理も十分に冷えたものだった。
暖かい料理としては、骨付き肉というものもある。
しかし、あれは食べる時に、骨を握り締めて齧り付くために、あまりに浅ましく見える。そのため王宮晩餐会で出された事は無い。
焼き立ての肉など、手掴みでは食する事は出来ない。
晩餐会に出席する貴族はナイフとフォークを使えることが必須となった。
しかし、悪いことは何もない。
焼き立ての肉がこれほど美味いという事を貴族の誰も知らなかったのだ。
その頃から、妙な噂が流れてきた。
「新たな神々の戦い」の時に生まれた、アトラス家の息子とその騎士団長の娘が、これらの産物を作り出したのだそうだ。
その頃、アトラス家は注目の的だった。それを誤魔化すにしても、この噂はあまりに稚拙だとしか言い様が無かった。
あくまで噂で、貴族の中で、そんな世迷い言を信じる者は居なかった。
しかし、アトラス領からやって来る商人達の間では、そんな噂が有るのだそうだ。
まだ、生れて間も無い、2歳の赤子だ。
何かを誤魔化そうとしているんだとして、更に噂に尾鰭が付き始めた。
様々な知識を齎した求道師が居るのだというのが有力視されていた。
しかし、その正体は全く分らなかった。
そもそも、そんな者が居たとして、辺境で極貧のアトラス領を選ぶ理由が分らない。
王宮に仕官すれば良いのだ。
中には、辺境のアトラス領で、神々に関わる遺物が発見されたのだという噂まであった。
そんな疑念を貴族達が抱いている間にも、アトラス領の躍進は止まらなかった。
紙、アトラス布、肥料などがアトラス領から齎された。
マリムの街は、夜でも明るいらしいと言われ始めたのは、2年ほど前だった。
これも質の悪い噂だと思われていた。
しかし、王宮晩餐会に出席する貴族達も、大概の事では、誰も驚かなくなっていた。
そして、晩餐会の話題は、アトラス子爵とその領地のことばかりになった。
しかし、アトラス家が晩餐会に出席する事は無かったため、噂は留まることは無かった。
アトラス領に隣接している領地貴族、アトラス家に縁の有る貴族が王宮晩餐会に出席すると、晩餐会の主役になった。
そして、皆、何か肖れることが無いかと必死になった。
態々、辺境のアトラス領まで、文官を派遣して調査する貴族も居た。
派遣して調査した貴族の話では、アトラス領では、鉄製品やガラス製品を街中の工房で加工していた。領主や領主館の文官達は生産には携わっていない様だとも言っていた。
領内の工房が主導して、コンビナートという名前の場所で紙を作っている。しかし、他領の者は、詳細を確認することができないらしい。
アトラス領で、様々な物品を作っているのはアトラス領の領民なのだ。
領主が潤うのだけではなく、領民が皆潤っている。
そして、夜も明いというのは、本当の事らしい。
デンキというもので、夜の街中が昼のように明いのは事実だった様だ。
一体、どうしてそのような事になるのか、皆目分らなかった。
この時も、私は、アトラス領の事を気にはしていなかった。
なにしろ、アトラス家は、私と同じ子爵だ。
さらに言えば、辺境の領地を領有している家だ。
王都に近い領地を持つ私の方が遥かに恵まれているのだ。
次に注目を集めたのは、アトラス領が、銅、銀、金の王国内最大の産地となった事だった。
王家にも、大量の金や銀が届けられたらしい。
最初は、銅鉱石や銀鉱石、金をアトラス山脈で発見したのだとばかり思っていた。
しかし、アトラス領内で精錬を開始したのだと聞いた。
しかも、これまで王国で秘匿して行なっていた精錬方法より遥かに純度が高い精錬方法なのだそうだ。
大量の銅、銀、金をアトラス家は所有していると言う。
アトラス領の領都マリムは、好景気に沸き立っていると聞いた。
そして、ノルドル王国との戦争が始まった。
王宮晩餐会で、戦争と聞いたときには、従軍要請や戦費税の徴収があるものと思い、参加した貴族達は身構えた。
しかし、次に晩餐会が開かれたときには、戦争は終了していた。
しかも、ノルドル王国は滅んでいた。
あまりの事に、驚くというより、呆気に取られてしまった。
どうやら、ガラリア王国北部でノルドル王国と隣接している領主達には騎士を国境付近に出すように要請があったらしい。
しかし、本格的に戦う必要は無いという命令が下っていた。
北部から侵攻していった、ガラリア王国の軍が、魔物の様な乗り物や、魔法が使えない騎士達が土魔法の攻撃をすることの出来る武具で、敵を薙ぎ倒して行き、ノルドル王国を滅ぼしたという噂が流れた。
一体どんな戦争であったのか、全く想像することすら出来なかった。
戦争が終結したと聞いてから1月も経たない頃、アトラス家が侯爵に、グラナラ家が子爵に陞爵する事が布告された。
そんな短期間での決定であるのにもかかわらず、異例の陞爵だった。
王都で目撃されたという、魔物と見間違うような武具が、アトラス領で作られたもので、ノルドル王国の制圧は、アトラス領の騎士団によるものだと聞いたのは、戦争が終わってしばらく経ってからの事だ。
この件は、軍事上の秘密事項として箝口令が敷かれているのだそうだ。
懇意にしている高位文官からこっそり教えてもらった。
礼として、ロッサ川沿岸で採れる果物を贈っておいた。
その武具の他にも、噂では、マリムから王都まで、2日ほどで移動出来る船を持っているらしい。
それ故に、ノルドル王国がガラリア王国北東の辺境に侵攻してきたことがガラリア王国に伝わったのだそうだ。
全く想像が付かなかった。
そんな船があるのであれば、是非購入したいと思った。
まあ、これも信憑性の無い噂に過ぎないのだろう。
そして、そんな船が有るのであれば、王宮晩餐会に出席しない理由が無い。
今や時の人となっているのだ。
貴族達から、賞賛を受けるのだ。
しかし、陞爵しても、アトラス家とグラナラ家は王宮晩餐会には出席する事は無かった。
その船の噂は、やはり根も葉も無いものだったのだと思った。
これが間違いの元だったのだが、その時には全く考慮する必要を感じなかった。
兎に角、アトラス領が関わる事は、どの貴族にとっても、予想から外れていて皆目実態が掴めなかったのだから仕方の無い事だ。
アトラス家は陞爵した事で、アトラス山脈とその周辺の土地を貸与された。
ガラリア王国最大の領地だ。
しかし、未開の土地だ。
その上、新たに貸与されたのは元ノルドル王国領だった場所だ。
南北に極めて長い領地だ。統治するのに苦労するだろう。
侯爵に陞爵する代りに、不毛の土地を宛てがわれたのだと貴族達には噂されていた。
やっかみ半分、嘲笑半分といったところだろうか。
新しくアトラス領の領域となった場所を領有していた貴族は、征服したノルドル王国の領地へ、領地替えとなったらしい。
しかし、険しいアトラス山脈周辺の未開の地と比べると、遥かに便利で王都に近い場所への領地替えだ。
これで、王宮晩餐会にも参加しやすくなったと喜んでいた。
その後も、王宮晩餐会には、アトラス家もグラナラ家も参加しなかった。
また、噂が噂を呼んでいた。
統治に苦労して、それどころでは無いという噂が主流だった。
そんなものだろうと私も思っていた。
よもや、鉄道などという前代未聞のものを作っていたとは思いもしなかったのだ。




