27.郷愁
ヤシネさんは、領主館の前で待っていてくれた。
二人で一緒に領主館の中に入った。
応接室に案内されて、紅茶を飲みながらお菓子を食べていたら、アイル様が部屋に入ってきた。
「今日は、何でしょう?」
連日の訪問なのだが、それを不快には思っていないみたいだ。微笑んでいる。
ヤシネさんが、オレが写真の検討をするために、写真乾板を購入したいと相談したこと。
まだ、写真乾板そのものの値付けをしていなかったこと。
原価に含まれるガラス板の金額をどうすれば良いのか相談に来た事を伝えた。
「ボクが、天体観測するためや、領主館で使用するために、写真乾板を作ってもらってましたからね。
原価に占めるガラス板の金額については、気にしてませんでした。」
「これまでは、写真乾板の殆どを領主館に納めていました。
これからカメラが出来てきたり、写真を撮る人が増えてきたりすると、写真乾板を売らなければならななくなります。」
「そうですね。どうしましょうか?
ヤシネさんの話では、写真の技術はまだこれからなんですよね?」
「そうです。あちこちのメガネの工房にカメラを依頼してみてますが、レンズの質も撮影のための仕組みも不十分ですね。」
「それじゃ、写真の技術を検討するため自消する部分は、これまで通りガラス板は無償でお渡しします。あとヤシネさんのところで、写真乾板に加工する費用を上乗せしたものとして使用してください。
バールさんのところで撮った写真を販売したり、カメラで写真を撮りたい人達のために売買する場合には、ガラス板の金額を上げて、それほど流通しないようにしてもらえれば良いです。
あまり枚数が増えた場合に対応するのが難しいことも出てくるかもしれませんからね。
販売した時には、領地の方に差額を支払ってください。」
「えっ、私のところにも安く卸してくださるんですか?」
「だって、彩色技術を検討したり、写真を撮る技術を開発するのに、写真乾板が必要じゃないですか?
そして、それは売り物じゃないんでしょ?」
それは、その通りなんだが……それで良いのか?
でも、とても助かる。売れなくても原料代金で大損はしない。
売れれば、売り値を指定通りに高くすれば良いだけだ。
まあ、売れればって事だけどな。
それから、色々相談をして、ガラス板を販売する場合に加算する原価は、3ガリオン(=6万円)になった。
オレが、もし、写真を売るような事があれば、原料代金、オレの作業費用に3ガリオンを上乗せして販売すれば良い。
オレの作業時間を考えると、5ガリオン(=10万円)で売れれば御の字だ。
そんな高いものが果して売れるのかと言うと無理かもしれない。
ただ、彩色して肖像画として売るのであれば、破格の安さだろう。
あまり人気の無い絵描きが描いた肖像画でも、金額はd10ガリオン(=24万円)じゃ収まらない。少しでも人気がある絵描きなら、d100ガリオン(=288万円)を越える。
まあ、売れてもいないものの事を考えても虚しいだけだ。
一通りの話が済んだところで、折角なので、アイル様にカメラについて質問をした。
絞りとシャッター速度の事だ。
オレの理解だと、どちらかを調整すれば、事足りると思ったんだ。
シャッター速度はあまり任意に選べないからそのために絞りがあるのかと思っている。
ただ、現像を調整すれば、出来上がる写真には違いが無いんじゃあないだろうか。
「絞りとシャッター速度ですか?バールさんって、昨日初めてカメラを見たんですよね。凄いですね。もうその事に気付くのは。」
そんな風に褒められても……オレは煽てに弱いんだよ。
「絞りって、光の量を調整するだけじゃなくて大事な役割があるんですよ。」
それから聞いた事は、オレの想像を越えていた。
「絞りを使うと、はっきり写る範囲を変えられるんです。
具体的には、絞りで光が通る範囲を狭めると、近くから遠くまで、あまりボケる事なく写真に写ります。
絞りを広げて、写真を撮ると、焦点を合わせたところだけ、はっきりと写って、周りや遠い所はボヤけて写るんです。」
「えっ、写り方が変わるんですか?」
「そうです。絵でもそんな風にしませんか?
肖像画だと、人物を詳細に描いて、周りの背景は、ボヤかして描くでしょ。
風景を描く時は、いたるところを詳細に描いたりしますよね。
そんな効果が絞りで作り出せるんです。」
それは凄いな。絵を描く時の手法をカメラで実現できるのか。奥が深い。
そうすると、絞った時には、シャッタ速度を遅くしなきゃならないのか。
それで両方が必要なんだ。
「まあ、詳細な理論は、説明できますけど、難しくなりますからね。
それより、色々と試してみて、感覚で掴んだ方が良いかもしれません。」
その後も、照度計の使い方などを教えてもらった。
話をしている最中に、夕食の準備が出来たと侍女さんが伝えに来た。
オレ達は、食事をする部屋に移動する。
オレは、持ち込んだ絵画を抱えた。
昨日自己紹介したので、簡単な挨拶をして席に着いた。
また、司祭様が隣になった。
今日、連れて来ている神殿の人は昨日とは違う人だった。
また、ニケさんが、食事の説明をする。
「今日は、魚のフライなんですけれど、昨日のマヨネーズを応用して『タルタルソース』を作りました。
魚のフライに掛けて食べてくださいね。」
昨日のマヨネーズは美味かった。あれは、魚にも合うのか?
期待が膨らむな。
また、芳ばしい香りとともに、食事が運ばれてきた。
これは、背開きした魚を揚げたものなのだろう。
昨日の豚を揚げたものと良く似ている。
タルタルソースというものは、白いマヨネーズに何かいろいろ入っているみたいだ。
茹でた卵だろうか。野菜も入っているみたいだ。
大きな魚のフライが3匹。やはり量が多いな。
タルタルソースを付けて食べてみる。
おっ。これは美味い。
魚の油の甘みと合う。
気がついたら、1匹を食べ切っていた。
これなら、3匹は軽く食べられるだろう。
子爵様の方を見たら、既に完食されていた。やはりお代りをしている。
司教様も、一口一口大事そうに咀嚼されている。
昨日と変わらないな。
食事の後には、小振りのケーキが出てきた。ケーキにはベリーが乗っている。
紅茶と良く合っている。
お茶を堪能した後で、いよいよ持ち込んだ絵を見てもらうことにする。
オレが最近描いた絵といえば、古いマリムの街並みを思い出しながら描いたものだ。
「あら。いいわね。昔のマリムね。」
「そうだな。昔はこんな街並みだったな。忘れていたが、昔はずっとこんな感じだった。」
「私は、この絵の色合いが好きだわ。なんか暖かい感じがする。」
「ここは、昔の中心部だろ。この工房には、良く剣の補修をしてもらった。」
フローラ様、侯爵様、ユリア様、子爵様が、それぞれに感想を言いながら昔語りが始まった。
「バール殿は、中々の腕前だと思う。これで、絵描きとして大成しなかったのが信じられないな。」
司教様まで、そんな事を。
「あら。これは……」
最後の絵を見たフローラ様が呟いた。
「ああ、颱風で滅茶苦茶になった場所だな……」
「そうね。ふふふ。良くここの漁師さんが、魚を持って来ましたね。」
「あの時は大変だった。アイルとニケが危険を告げてくれなかったら、どうなっていた事か。」
「あの時の颱風で、流されてしまった場所ですか。本当にそうですね。沢山の人たちが神殿に避難してきました。」
それから、しばらく、侯爵様ご夫婦、子爵様ご夫婦、司祭様で絵を前にして歓談していた。
「ねえ。バールさん。宜しければ、ここにある絵を売っていただけませんか。
感動しました。本当に昔の色々な事が思い浮びます。」
「そんな大層なものではございません。子供の頃見たマリムの街を覚えている内に描いておこうと思って描いただけものでございます。」
「いいえ。そんな事はありませんよ。感動しましたし、昔の事を思い出せましたし。
差し支えなければ、本当に売っていただきたいです。」
「そうだな。領主館も殺風景だから、絵を本格的に飾るようにしても良いだろうな。」
「バール殿の絵の腕前は、かなりのものと見えます。王都やゼオンの神殿にあった絵と比べても遜色無いですよ。本当に古いマリムの街並みが良く描かれています。
しかも、最近描かれたのでしょう?
私もマリムに赴任して来た当時の事が思い出されました。
郷愁の念が呼び起こされます。」
「そんな。身に余る賞賛です。本当に手慰みで恥しい限りです。」
オレは失礼にならないように、苦労しながら固辞した。
結局、熱意に負けて、絵を売ることになった。
持って来た5枚の絵それぞれに、d200ガリオン(=576万円)が支払われた。
絵を売って、こんな大金を手にしたのは初めてのことだ。
そのまま流れで、オレは、侯爵家と子爵家の専属絵師になった。
何か義務のようなものは発生せず、絵を描いたら売ってくれれば良いとまで言われた。




