16.カイロス・セメル
あの日、大慌てで帰宅したグルム父さんに、今日の夕食は、領主館で摂るから、家族全員、昼すぎに領主館へ向かえと言われた。
父さんは、アトラス領の宰相をしている。ボク達は領主館に訪問することが時々ある。
「グロスとカイロスには、頼みたいことがあるからな。かならず来なさい。」
父さんはそう言うと急いで領主館に戻った。宰相の仕事が忙しいんだろうな。
領主館を訪問する場合は、正装しないといけない。
言い付けどおりに、昼すぎに、ナタリア母さん、グロス兄さん、セリア姉さんと4人で連れ立って領主館に向った。
ボクと兄さんに頼みたい事って何だろう。
領主館を訪問するのは、先日の正月の宴に参加したとき以来だ。
あの頃は、まだ、アイル様も、ニケちゃんも部屋に籠っていたので、会えなかった。
二人とも、あの新たな神々の戦いの日に生まれた。もう、生まれて1年ちょっと経っているので、今日は会えるかもしれない。
噂では、二人共とても賢くて、もう、話ができるらしい。
ボクは、どうだったんだろう。生れて1年と少しの頃の記憶は全く無いので判らない。知り合いにも二人と同じぐらいの子供は居ないので、その歳の子供が話をするのかは、よく判らない。
ボクには上の兄姉しかいない。アイル様とニケちゃんは、5つになったボクより3つ下だ。弟と妹に会うような気がして、とても楽しみだ。
兄と姉にアイル様とニケちゃんのことを聞いたが、会ったことはないそうだ。噂でとても利発な子供だと聞いているだけらしい。兄も姉も二人に会えるかも知れないと期待しているみたいだ。
領主館に着くと、そこでは、父さんと騎士団長のソド殿が激しく言い合っていた。父さんの脇には、徴税長官のローカス殿、収穫長官のブリート殿がいて、ソド殿の脇には、副騎士団長のグラジアノ殿、警務団長のエンゾ殿がいる。
そして、中央に居るアウド様の隣には、幼ない子供が二人と侍女の人。
一体これは何なのだろう。母も、兄も、姉も言葉が出てこなかった。アトラス領の偉い人の上位7人が揃っている。
母さんは、そそくさと、フローラ様とユリア夫人のところに行ってしまった。兄さんと姉さんとボクも付いていく。
事情を聞くと、文官と騎士で予算の取り合いをしているそうだ。何の?と聞いたら「ソロバン」と言っていた。それは……何だ?
父さん達が言い合っている言葉の中に、ソロバンという言葉と計算という言葉が混っている。やっぱり意味が分らない。
グロス兄さんは、既に文官見習いとして文官詰所で働いてる。来年には成人して父さんの後継者として、宰相になるための本格的な修行をする。兄さんにソロバンって何かを聞いてみたのだが、聞いたことが無いそうだ。
母さんと姉さんは、フローラ様とユリア夫人と王都の流行などの話題を楽しげに話している。
兄さんは、様子を見に父さんのところに行ったのだが、会話に入ることもできず戻ってきた。
兄さんと二人で、所在無くしていると、まだ日が沈むまでにかなり時間があるのに夕食の準備ができたそうだ。
テーブルに付く前に、父さんから、ボクと兄さんには食後に頼みたいことがあると言われた。
アイル様と、ニケちゃんに初めて挨拶をした。二人ともしっかりした言葉を話していた。兄さんと姉さんはかなり吃驚していた。
テーブルの上座には、領主御夫妻が座り、その右手には父さんと母さん、ローカスさんとブリートさんが座った。左手には、騎士団長夫妻、副騎士団長、警務団長が座っている。ご夫人が加わった以外は、先程の言い合いのときと同じ配置だ。ボク達は文官側の末席に。向いには、アイル様とニケちゃんが座っている。
二人は、幼児用の食事のようで、細かく切られた食べ物をニコニコしながら食べている。アイル様は幼いながらもハンサムで羨しくなる。ニケちゃんは、とても可愛く、美人さんだ。
二人は何か会話をしているのだが、何を話しているのか全く分らない。聞いたことのない言葉を話しているみたいだ。
食事の始まりには、漁獲量は例年並だとか、治安の状態は良好だとか、魔物の被害はそれほど大きくないとか、当たり障りの無い会話が聞こえていた。
今年の作付の話になると、父さんが、あと5ヶ月で収穫になる、それまでには、文官全てが計算方法をマスターしないといけないと言い出した。それからは、先程の言い合いが始まった。
間近で聞いていたので、今度は何を言い争っているのか解ってきた。どうやらソロバンという道具をどれだけ購入するのかについて争っているみたいだ。
父さん達文官は、騎士団にソロバンを渡すぐらいならば、文官にソロバンを揃えるのが先だと言っている。
騎士団は、我々のところも必要な道具だから、文官で独占するのは許されないといっている。平行線だ。
そもそもソロバンが何なのか皆目見当が付かないので、こんなに偉い人が言い争っている肝心な理由が判らない。
向いを見ると、アイル様とニケちゃんの二人は、うんざりした面持ちで、その言い合いを見ている。
「アイル様とニケちゃんは、ソロバンって何か知っているの?」
と聞いてみた。二人があの言い合いに付き合わされていたのだから知っているのかもしれない。
「ウン。勿論知っているよ。でも、まだ幾らで作れるのか判らないのに、なんでこうなってるんだろう。」
とアイル様
「自分達のところになるべく沢山欲しいんでしょ。そもそも、両方合わせて何台欲しいのかも判らないんだけど。」
ニケちゃんも応えてくれた。
アイル様が突然、領主様に話をした。
「アウド父さん。いつまでも、同じ主張を聞いていないで、そろそろ結論を出したらどうなんです。」
「いや、ソロバンが幾らで作れるのかが判らないのでなぁ。」
「じゃあ、双方で何台欲しいのかはっきりさせてくださいよ。グルムおじさんは、何台欲しいんですか?」
「いや、予算との兼ね合いもあるので……。とにかく予算額で購入できるだけ、全てだな。」
「もう、その話は聞き飽きました。文官は何人居るんですか?」
「見習いも含めると、576(d400)台は欲しい。」
「なに!見習いなどに回すとはどういうことだ、その分はこちらに回せ。」
「はいはい。それで、ソドおじさんのところは、何台あれば良いんですか?」
「うむ。60(d50)は欲しい。」
「お二人とも、本当にそれだけあれば良いのですね。」
「そうだな。」「そうだ。」
「で、ボクは金額の事は判らないのですが、グルムおじさんは、どのぐらいの金額なら出せるんですか?」
「今の余剰金を考えると、372(d270)ガリオンまでならなんとかなると思う。」
「じゃあ、1台あたり、ざっと7/12(d7/d10)ガリオンで、636(d450)台作れれば、皆が幸せということですね。
ところで、7/12ガリオンてどのぐらいの金額でしょう。
例えばソドおじさんが、外で飲み食いすると、1回でいくらぐらい掛かるんです?」
「ん。ガリオンで言えば、2/3ガリオンぐらいだろうか。」
「おいおい、それは随分と食うな。あっ!飲むのか?」
「体が資本ですから。きちんと食わないと、魔物とは戦えません。」
「はいはい。解りました。何とかなるかもしれませんね。作り方を考えてみます。」
ボクは、今のやりとりに、呆気にとられてしまった。
えーと文官と騎士で合せて、えーと。d460台だろ。予算が、d270ガリオンで……。
1台幾らになるんだ。ボクは、まだ割り算なんて出来ないよ。
それと、ソド殿の1回の食事代とどういう関係があるんだ。
そして、何故、アイル様が作り方を考えるのだろう。
上層部の人達は、平然としている。呆気に取られていたのは、ウチの家族だけだ。
食事が終ったときに、神殿の鐘が鳴った。あと1時ぐらいで日が沈む。
父さんとローカス殿とブリート殿が揃って、ボクと兄のところにやってきた。
「これから、ローカスとブリートから、数字と筆算とソロバンを教えてもらいなさい。
ローカスとブリートは、文官達に教える前の練習だと思ってやってもらえるかな。」
と言ってきた。数字?筆算?ソロバン?知っている言葉がどこにもないんだけれど。
そこに、ニケちゃんがやって来た。
「グロスさんとカイロスさんはソロバンを教わるの?じゃあ、ソロバンが無いとダメだよね。
アイル。子供用と大人用のソロバンが必要みたいだよ。」
ニケちゃんの呼び掛けで、アイル様がこちらにやってきた。
「カイロスさん、手を見せてもらえますか?」
と言われたので、手を前に出して見せる。
「うーん。大人用だと少し大きすぎるかな。」
と言って、アイル様は、ニケちゃんと庭の方に歩いていった。
帰ってきたときには、大きさが違う二つのキラキラと光輝く不思議なものを手に持ってきた。
「えつ、何。これ。綺麗!!。兄さんとカイロスは狡い。こんな綺麗なものをアイル様から頂いて。狡い。狡い。」
と騒ぎ出した。
それを聞いて、母と一緒だった御婦人方も寄って来た。
「アイル。これは何?」「ニケ。これは何?」
と二人が問い詰められている。
ニケちゃんが、
「えっ、ソロバンだよ。グロスさんとカイロスさんが、数字や筆算やソロバンの勉強をするというから作ったんだよ。」
と言った。
その言葉を聞いて、副騎士団長のグラジアノ殿と警務団長のエンゾ殿もやってきた。
「これが、ソロバンか。随分と綺麗なものだな。ソド殿が自慢していたが、これを使うと、何桁の掛け算も割り算も出来ると聞いた。我々にも教えてもらえないだろうか。」
と言いだした。
その言葉に、姉さん母さんと御婦人方も教えてほしいと懇願し始めた。
えっ、姉さんが勉強?ウソだろう。
父さんが再びやってきた。
「セリアみたいに覚えの悪い者も居るかもしれないから、ダイムルとサイラスも訓練だと思ってやってもらえるかな。」
などと言う。
絶対、姉さんにはムリだと思う。すぐ飽きてしまうだろう。
「ちゃんと学べなかったら、ソロバンは没収するから、セリアはそのつもりでやりなさい。」
さすがに父親だね。解っているよ。
「ねえ、アイル。もう、砂はなくなっちゃってるよ。どうしよう。海から持ってきてもらう?」
「うーん。そうだな……。父さん!あそこにある、敷石をソロバンを作るために貰ってもいいかな?」
「いいぞ。そう言えば、二人の魔法を未だちゃんと見せてもらっていなかったな。やって見せてくれないか。」
アイル様とニケちゃんに付いて、皆が敷石のところに移動する。
ニケちゃんが、敷石から白い粉を魔法で出して、その粉をアイル様が纏めたと思ったら、手元には、ソロバンがあった。しばらく二人で、白い粉とソロバンを作っていた。6つのソロバンが出来上がった。
「始めて見たが、不思議な魔法を使うな。ウィリッテさん、これは本当に、分離の魔法と変形の魔法なのかい?」
「多分そうだとは思いますが、こんな形で魔法を使うのは見たことはありません。」
アウド様、ウィリッテさん、アイル様、ニケちゃんの4人で話を始めたので、ボク達は、手に入れたソロバンを持って、部屋に戻った。
ダイムルさんと、サイラスさんに教えてもらいながら、数字と筆算とソロバンを皆で習った。
ダイムルさんも、サイラスさんも、今日、始めて習ったばかりだと言っていた。教えるコツを掴むのに一生懸命だった。
これまで、計算棒で計算する方法を教えてもらっていたのだが、こっちの方がずっと解り易かった。ソロバンで、3桁の掛け算ができたときには自分ながら驚いた。
案の定、姉さんが、一番覚えが悪かった。それでも、皆で教え合って、最後には姉さんも計算ができる様になった。なんかとても嬉しそうだった。こんな姉さんの笑顔は見たことが無いかもしれない。
皆が一通り、計算の方法を学んだ後、家族で帰途についた。
父さんから
「カイロス。明日から、アイル様とニケ様の教育にお前も参加しなさい。
朝食後に行なわれているそうだから、早めに朝食を摂って、領主館に行きなさい。
アウド様には話を通してある。
あのお二人とお前は年齢が近いのだから、仲良くするんだぞ。
カイロスが成人したときには、あのお二人の補佐が出来る様になりなさい。」
「父さん。今日、教えてもらった、数字と筆算とソロバンは、あの二人が考えたって聞いたけれど本当なの?」
「本当だ。なにしろ、今日の昼前に、ワシは、あの二人から直接教えてもらったからな。
いいか、あのお二方の知識は、大変なものだ。
お前は、あのお二人の役に立つ為に精進するんだぞ。」
あの日はそんな風に終った。
それが、全ての始まりだったとは、その時には全く思っていなかった。
12進法の数は普通は、10をA、11をBで記載して、(12AB)の様に記載した後ろに12を下付きで書きます。
ただ、その記法はこのサイトでは冗長なので、12進数の前にd を付けて記載することにしました。
もちろん、アイルが考えた様に、10はNで11はWと記載します。




