20.板ガラス
アイルが私の部屋にやってきた。
あれっ。メーテスの件は終ったよね?
「もう、だめだ。ニケ。ガラス板を作ってくれ。」
アイルは、如何にも疲れ切った風でやってきて言い放った。
ん。ガラス板?
何でだ?
というより、なんか、このシーン、随分前だけど見たことがあるな。何時だろう?
うーん。思い出せない。
「アイルは、私より上手にガラス板作れるじゃない。何で私に頼むかな?」
話を聞くと、アトラス領内で、写真機が作られるようになって、大量のガラス板が必要になったらしい。
最初の内は、コラドエ工房の求めに応じて、ガラスの板を作っていた。
ところが、段々と頻度が上がって、毎日の様に大量の注文が来る。
最初はそれほどなかった注文も、次第に量が増え、今では大量のガラス板を作る羽目になったらしい。
魔法で作っているので、大した手間じゃないんだけど、あまりに頻繁に依頼されるので、ほとほとイヤになってきたみたいだ。
えぇぇ。私、毎日超伝導素材作っているのよ。
それぐらい、我慢したら?
「でも、そんなに手間じゃないでしょ。ガラス板ぐらい作ってあげれば良いじゃない。」
「だけど、この世界だと、精度の良い表面を持ったガラスの板が作れないだろ?絶対に作れるようになった方が良いんだよ。窓だってガラスじゃないし。」
まあ、確かにそうだ。
写真乾板に精度の良いガラス板の需要があるみたいだと知ったガラス職人さんたちが、あれこれ工夫していると聞いている。
今は、鋼で型を作って、ガラスを流し込んで作っているらしい。
結局は、写真乾板に使えるほどの平坦なガラス板の生産には成功していないって聞いた。
「まあ、確かにそうだけど……。」
コストも問題なのよね。
ガラスなので、急冷する事ができない。熱膨張の違いで、型の中で粉々に割れてしまうみたいだ。
前世では、どこでも、窓にはガラスが嵌っていた。
この世界みたいに、木の窓じゃなかったわね。
今の状態だと、建物の窓がガラスになるなんてことは、望むことはできない。
そのうち量産の方法を考え付くんじゃないかと思って放置してたんだけどな。
多分その方が領民のタメになると思っていたんだ。
仕方が無いかな。そろそろ手を出すべきかもしれない。
前世では、ガラス板と言えばフロート方式が発明されて、それまでロールで作っていた方法から大幅に品質が上がった。
最近では、フロート方式では屈折率の分布が出来るので、もっと先進的な製造方法もあったな。
ただ、そんな制御技術の塊みたいなものは、もっと技術が進んでからだろう。
フロート方式は、鎔融した錫の上にガラスを流して板にする。
流石にこの世界で、この方法に考え至ることはないか。
フロート方式もそれなりに制御する必要がある。
ガラスにしろ、何にしろ、液体は表面張力で、細かな丸い形になりやすい。
水の上に油を垂らしたら、水の表面に油の玉が出来る。玉がくっついて層になるには、それなりの油の量が必要になる。
薄い油の膜は容易には出来ない。
例外的に油の場合、界面活性作用がある不純物が含まれていれば、水面を覆うようになることもある。
だけど、鎔融した錫とガラスにはそんな都合の良い素材は無い。
ガラスの量、温度(ガラスの粘度)を制御しないと、平坦なガラスではなくなって、丸棒状や水滴状のガラスになってしまう。
制御装置は、アイルに作ってもらえば良いか。
研究室に行くと、助手さん達は、仕事をしていた。
「あれ?もう休息は良いんですか?」
私が研究室に来たのが意外だったのか、キキさんの声で、みなこちらを向いた。砂糖工場を作って以来かな。それが先々月だから、そんなに久々では……あるな。
メーテスの立ち上げで、現地に行っているバンビーナさん以外は、皆そろっていた。
「最近は、休息だけじゃなくって、来客が多くって、なかなか研究室に来れなかったのよ。」
と言い訳してみるけど……。
皆、私が自室でダラダラしているのを知っているので微妙な表情だ。
「それで、今度は、何を作るんですか?」
皆が手を止めて整列している。聞いてきたのはジオニギさんだ。
「アイルに頼まれてね。板ガラスを作るの。」
鎔融している金属錫の表面に鎔けたガラスを浮かべて板状にする。
簡単な説明だと、これだけなんだけど、結構条件設定に苦労すると思う。
「なぜ錫を使うんですか?」
「ガラスって、色々な金属が溶け込みやすいのよ。ただ、錫はガラスに溶けにくい性質があって、その上、230℃という低い温度で鎔けるから使いやすいの。
ただ、酸素は遮断しないと、酸化錫になってしまうかな。」
とりあえず、金属錫を精錬しないとならない。
錫と銅の合金の青銅はあるんだけど、金属錫ってないんだよね。多分銅鉱石と錫鉱石を所定量混ぜて還元しているんじゃないかな。
錫石は比較的簡単に還元することができる。
あとは、電気精錬かな。
ボロスさんに頼んで、錫石を取り寄せてもらうことにした。
入荷するまでのあいだ、手元にある錫石を使って、精錬方法の検討をする。
今となってはかなり簡単だ。
選鉱条件やコークスを使った還元条件を決めた。
粗錫を水酸化ナトリム溶液に溶かして、電気精錬をする。錫は両性金属なので、アルカリにも溶ける。
通常金属の大半は、この段階で篩に掛けられる。
電気精錬の条件も決まったので、錫の精錬工場の建設だ。
アイルからの依頼なので、強制的にアイルをコンビナートに引っぱって行って、貴金属精錬工場の脇に錫精錬の工場を作った。
これで、大量の錫を準備できるな。
錫を使って、板ガラスを作るための検討を始めた。
錫の酸化を防ぐ酸化を防ぐために、アンモニアの合成工場から窒素と水素の混合ガスを引っぱってきた。
ここで流しているガスは、反応に使う理由じゃないから、そのままアンモニア製造の初段に戻す。
検討を始めたのは良いんだけど、やっぱり難しいね。
ガラスを薄くしたいと思っても、ガラスはある程度の厚さまで薄くなるとそれ以上広がらない。
温度を上げてガラスの粘度を下げてみたけれど、あまり薄くはならない。
大体、1/16デシ(6.25mm)ぐらいの厚さだ。できれば、1/40デシ(2.5mm)ぐらいになって欲しい。
それに、ガラスが厚いと、真ん中が錫に沈むのか、曲面になってしまう。
散々試してみて、どうにもならないので、鎔融しているガラスの端を強制的に広げる事にした。
ここらへんの仕組はアイルに考えてもらった。
急に広げると、真ん中で分かれて二つの板になったりした。
散々いろいろ試して、何とか薄くて大きな板ガラスになった。
前世では、どうしてたんだろうね。
なんだかんだで、1月近い日数が掛った。
結局、鎔融ガラスの温度は1500℃ぐらい。60mぐらいのスズの槽の中で、ガラスを広げてゆっくり冷して、600℃ぐらいに錫の槽で冷していって、引き上げる。
そのまま、100mぐらいかけて徐冷して、室温にする。
端の部分をダイヤモンドの刃で切りとり、ガラスの板を切断した。
大体、4m×4mで2mm厚さのガラス板が量産できるようになった。
あとは、適当に切ってもらって、写真乾板にでも、窓ガラスにでもしてもらおう。
温度の制御、ガラスの投入量、引き出したガラスの運搬速度など、工場のありとあらゆる場所で、かなり細かな制御が必要になる。
下手に下流側で引っぱったり押したりすると、鎔融している場所でガラスの厚みが不均一になる。
これもアイルに考えてもらった。
電子回路を組んだみたいだけど、詳細は知らない。
色々説明したがったので、聞くだけは聞いてあげた。
まあ、アイルが期待している1割も私は理解してないと思う。
厚みの調整も一応できる様になっているらしい。
まっ、後はアイルの仕事だよ。
私に制御方法なんか調整できる理由ないじゃない。
大量の板ガラスの生産が出来るようになって、木窓をガラス窓にするのが流行った。
領主館の窓も順次、ガラス板に交換していった。
商店で、ショーウィンドウが普通になったみたいだ。
これまで、店の中に入らないと、商品が見れなかったんだけど、道を歩いている時に、商店の中が見える。
売りたい商品を商店の壁に陳列することが出来る。
マリムの街中は、ガラスで溢れるようになった。




