15.グルム・セメル
突然、領主様から執務室に呼び出しだ。
私はグルム・セメル。
アトラス領で宰相を務めている。
領主様と領地の宰相をしている私との間は信頼関係が築かれている。こういった呼び出しは稀だ。大体の領内業務は、お任せいただいている。
今は、そろそろ作付が始まる頃で、収穫まで、まだまだ間がある。特段忙しい訳ではない。
ただ、問題なのは呼出しの内容だ。伝令からは「アイルとニケに会ってもらいたい」と聞かされた。
アイルとは、アイテール・アトラス様で、アウド・アトラス様のご子息。ニケとは、ニーケー・グラナラで、騎士団長ソド・グラナラの娘だったはずだ。噂では大層利発な赤子だとは聞いている。
先日、ようやく家から外に出たと聞いた。
まだ生まれて1年経ったばかりではないか。
忙しくなくとも、領内の業務が無い訳ではない。日中に呼び出されて、まだ生れて1年の赤子に会うことに何の意味があるのだ。
親馬鹿も極まっている。
急ぎ、領主館にある領主の居住場所に向う。
入口で、アウド様が待っていた。中に入ると、挨拶もそこそこに、急かされて、屋敷の執務室に連行された。
中には、子供というよりは、赤子の男の子と女の子、そして騎士団長のソド殿、侍女のウィリッテが居た。
ウィリッテのことは知っている。王都の魔法学校を主席で卒業した才女だそうだ。何故、こんな辺境のアトラス領に来たのか訝しい点がある。しかし、極めて真面目に務めているという報告だった。
最近、アイル様とニケ嬢の教育係になったと聞いている。
「じゃあ、アイルとニケ説明を頼む。」とアウド様が言う。
二人からの説明?何の説明だと思っていたら、アイル様が石版に何かを書いている。
あれは、数か?
この歳で既に数を書くことができるのか。
なるほど利発という噂は本当だったようだ。
随分と大きな数を書いている。ああ、各桁を1ずつ増やして書いているのだな。しかし、あんなに大きな数の書き方を良く知っているな。
「おじさん、これは、ウノデイルボロ ジノボロ トリクアトミロ テトラデイルミロ ペンタミロ ヘキサクアトサンド ヘプタデイルサンド オクトサンド ノナクアト デカデイル エバです。これをこんな具合に書く(123456789NW)と、文字数を大幅に減らすことができます。これを『数字』と呼びます。」
なにやら、見たことのない、丸い文字を書いたものを見せられた。
今度は別の石版を持ってきて、ウノからエバまでの数とその文字を並べて見せた。
「ウィリッテ。これは、あなたが考案されたのかな?」
「いいえ、アイルさんとニケさんが考えたものです。」
そんな、バカな。ありえないだろう。
「そして、ウノデイルボロは、こんな風に(10000000000)書きます。」
「何かな、その丸い文字は?」
「これは、この桁は何も無いことを示してます。」
なるほど。桁に数が無い場合は、丸を書くということか。そうすると、この数字とやらを使うと、桁数を揃えることも、文字の数を数えることも不要ということか。
なかなか良く考えられているな。この記法を使うと数を表わすのはかなり便利になる。
「おじさん。そして、これは、『ソロバン』という道具です。」
キラキラと輝く複雑な細工物を見せられた。透明なビーズの様なものが、串刺しになって沢山並んでいる。
この素材は、ひょっとするとガラスか?もしこれがガラスならば、国宝級のとんでもないものだ。
「これは、ガラスではないのか?」
「あれ、ニケ、ガラスってなに?」
「ガラスって、『ガラス』のことよ。おじさん。これはガラスではないわ。ガラスより透明で、固い素材だけど。これが何で出来ているかはこの際どうでも良いので、説明を続けていいですか?」
頭が混乱してしまったが、何か他に大事なことがあるのだろうと思って頷く。
それから、『ソロバン』というものの使いかたを聞いた。
それは驚くべきものだった。あまりに驚いてしまったため、何度も説明を聴きのがした。そのため何度も説明を求めた。その度に、ニケ嬢が優しく説明してくれる。
どうやら、要点をアイル様が説明してくれて、不明なところをニケ様が補足説明してくれる。そういう役割分担になっているらしい。
二人ともこの数字とソロバンについては、詳しく知っているようだ。もう、ニケ嬢は呼び捨ては無しだ。様を付けて教えを請わなければ。
足し算の方法、引き算の方法を聞く。2桁の掛け算の方法を聞いたときには、驚きで目が点になった。これは、このまま、何桁もの掛け算が簡単にできるではないか。
その時、アウド様が自慢気に、
「オレは、この表があれば、何桁の掛け算も間違えずに出来るし、割り算も出来たのだ。」
と言った。
私の目の前には、数字で書かれた1桁の掛け算の表がある。これとソロバンを組み合わせれば、何桁の計算も出来るだろう。割り算も先程の引き算のやりかたを使えば容易に出来る。
割り算は非常に難しく、正確に計算できる文官は数えるほどしかいない。
アイル様とニケ様が言うには、この表を覚えてしまえば、ソロバンだけで、全ての計算が出来るそうだ。
これまで、計算をすることにどれだけ苦労していたか。
税の徴収、収穫量の集計、予算の配分、経費の査定。
領地運営は数の計算で成立している。
しかし、どうしても、計算の間違いを無くすことができない。数え間違い、記載間違いは常に起こる。それを悪用した不正が横行する。
不正を無くすためには、記載された数が正しいか、計算が正しいかを何度も確認しなければならない。しかし、熟練した文官でもその作業は膨大な手間がかかる。
そのため、間違いや不正は、ある程度許容せざるを得ないのだ。
この数字とソロバンは、そういったことを全て払拭することができる。
しかし、どこをどう見ても、国宝級の輝きを持った道具だ。
「このソロバンを沢山作ることはできないのでしょうか?」
と聞いてみた。
「ボクとニケの魔法で作ったので、あと何個か作っても良いけれど。」
「でも、床に落すと割れて壊れますよ。」
そう言うと、ニケ様がテーブルからソロバンを床に落した。
きらきら輝いていたソロバンが床に落ちて、大きな音を立てて割れてバラバラになった。
「なっ。」
あの、宝玉のようなソロバンを落して壊すとは、何をしているのだ。
すぐに、ニケ様が割れたソロバンを白い粉に変えたと思ったら、アイル様の手元には、元どおりのソロバンがあった。
私は、今、何を見たのだ。魔法だと思うのだが。
このお二人は、大魔法が使えると聞いていた。しかし、なんという魔法を使っているのだ。
突然、アウド様が声を掛けてきた。
「それでだな。このソロバンを木工職人に作らせて領主館で使おうと思う。」
この展開に、付いていけなくなってきた。
木工職人?ああ、木でソロバンを作るということか。それならば、落しても壊れないかもしれない。
ただ、こんな精巧なものを作れる職人など居るのか?
木で作ったとしても、どれだけ高価になるだろう。アトラス領は、子爵にしては、大きな領地を持っているが、大半は未開地で決して豊かとは言えない。
やっとの思いで、返事を返した。
「金額しだいかと思います。」
ただ、このソロバンは欲しい。それこそ、文官全てに持たせたいと思うほど欲しい。
「とりあえず、腕の良い木工職人とそれを商う商人を選定しておいてくれ。」
と命じられた。
それを聞いたアイル様が、
「安く作れれば、良いんですね。じゃあ、安く作る方法を考えますね。あれ、でもボクお金の価値とか全然判らないな。ニケは知っている?」
「いいえ、私も知らないわ。ウィリッテさん、今度教えてくださいね。」
アイル様とニケ様が満面の笑みで、ウィリッテに話し掛ける。ウィリッテの顔が引き攣った様に見えた。
「それでは、ソロバンが出来るまで、『筆算』で計算する方法を使ってみてもらえますか?」
それから、石版の上に数字を書くことで、計算する方法を教えてもらった。
これは、アウド様も、ソド殿もウィリッテも初めて聞いたようで、一緒にその方法を習った。
これは、ソロバンほど早くは無いが、計算棒を使用して、従来の数で計算するのと比べて遥かに早くて正確だ。
これは、部下に伝えなければいけない。
だが、私が教えることができるだろうか。
今、あの二人を呼んで、アイル様とニケ様に教えを乞うのが良いかもしれない。
そんなことを考えていたら、アイル様が
「えーと。大人用のソロバンは5つ作ったので、父さんと、ソドおじさん、グルムおじさん、ウィリッテさんの分はあるんだけど。あと一つは誰に渡せば良いかな。」
と言いだした。
あと一つか。これは、難しい。どちらに渡しても諍いの種にしかならない。
ここは……、お願いするしかない。
「できれば、なのですが……。
本当にできればで良いのですが。
税収を担当している者と、収穫を担当している者が居ます。
どちらも非常に重要な仕事で、計算を常に行なっています。
その者達に、文官の教師役になってもらいたいと考えています。
なんとかその二人にソロバンを渡してはいただけませんか。」
と相談をした。
儂のソロバンは、儂のモノだ。誰にもやらん。
「その二人が教師役になってくれるの。それは有り難いですね。じゃあ、ニケ、あと一つソロバンを作っちゃおうか。」
「えっと。『シリカ』はどこで作ろうか。あっ、庭に砂があるから、あそこから作ろうか。」
と二人が話している。そのまま二人は庭に出て、ソロバンを手に戻ってきた。
税収担当のローカスと収穫担当のブリートを呼ぶために、文官詰所に使いを出した。
「今、何をしていようが仕事を中断して、直ちに領主様の執務室に来い」と。
部下の二人を待っている間に、ウィリッテに質問をした。
「お二人のあれは、魔法なのですよね?」
ウィリッテは、何ともいえない不思議な表情を浮べて、
「えぇ。そうですね。ニケさんの魔法は分離の魔法のはずで、アイルさんの魔法は変形の魔法のはずです。でも、あんな風に魔法が使える人は、お二人以外には、いないでしょう。」
呼び付けた二人は慌ててやってきた。顔が緊張している。何か問題が発生したと思っているのだろう。
集っている人の中に、幼児が二人混っているのを認めて不思議そうにしている。
これから、思いきり驚くが良い。
アイル様とニケ様から、二人に数字とソロバン、筆算を習った二人は、驚くとともに、ソロバンを貰って嬉しそうだ。
そりゃぁ、宝玉の様なソロバンを貰えれば、教師役ぐらい何ともないだろう。
私は、木製のソロバンが出来たら、普段使いはそちらにして、このソロバンは家宝にしようと決めた。
翌日、アウド様からの指示で、領内の公文書には数字を使うことを布告した。




