123.写真
私とアイルがもうすぐ6歳になる年の瀬に、アイルが写真を撮りたいと言ってきた。
『えっ?写真?それパソコンが無いから無理じゃない?どうやって画像データを保管するの?』
『いや、昔の写真っていうか、写真乾板を作って欲しいんだけど。』
『あっ、そう言えば、そんなものが昔有ったらしいわね。フィルムに写真を撮って、焼き付けるとかってやつよね。』
『そうそう。天体観測していて、星の映像を撮っておきたいんだよ。』
それから、アイルが、写真が必要になった説明を聞いた。
随分苦労して、万有引力が成り立っているとか、相対性理論が成り立っているとか確認できたらしい。それで、今見付かっている惑星以外にも惑星がありそうだから、その確認をしたいらしい。
『それで、メクシート君は、何時爆発したか分ったの?』
『いや、それは、まだ……。そうそう、それも、写真に記録しておけば、もう少し詳しく分るかもしれない。』
『ふーん。』
まだ見付かってない惑星なんて、何か、どうでも良い様に思うな……。
でも、写真か……写真が撮れるんだったら、家族写真とか、記録写真とか撮れるってことか。
有っても良いかもしれないな。
『普通は、カメラとか写真とかって、家族写真を撮るとか、記録写真を撮るとかに使うんじゃないの?』
『あっ、そうかな。そうだな。そんな用途もあるな。』
ダメだな……これは。
『じゃぁ、そういった写真が撮れるようなカメラを作ってね。写真を撮る方法は考えるから。』
『わかった。ありがとう。やっぱり頼りになるな。』
アイルは喜んで、自分の研究室に戻って行ったけど……。
そんな写真の仕組があったことは、あまり知らないというか、聞いたことがあるだけというか……。
私が、物心付いた頃には、フィルム写真って、無かったよな。
電子カメラって言われていたな。写真は、メモリーに保存するか、パソコンにダウンロードしていた。
前世での最後の10年ぐらいは、スマホが撮影装置だった。
昔のお父さんとかお母さんの写真って、そんなレガシー技術で作られたものだったのかもしれないけれど。
そもそも、写真のフィルムって見たことが無い。
そう言えば、健康診断の肺のレントゲン写真の撮影の時に、技官の人が何か板みたいなものを取り付けたり、外したりしていたけど、あれが写真乾板ってやつなのか?
どうなんだろう?
まいったね。これは一から写真を発明しなきゃならない感じだ。
写真ねぇ。あれは、完全に電子機器で、画素数がどうとかそんな話しか知らんぞ。
うーん、写真に関することで聞いたことのあること、無いかな……。
記憶を掘り返してみると……。
何度か、古い映画やドラマで、写真を現像するところを見た記憶がある。
けっこうミステリーなんかで、写真って重要だったりしたんだよな。
あっ、銀塩写真とか言ってたかな。
そうすると、銀化合物の光反応を利用していたのか?
でも、光が当たったところは、銀が析出して黒くなりそうだな。
白黒が反転するよね。
あれ、ネガとか言う単語もあったような。
ネガとポジって、写真用語だよね。
ん?ネガティブとポジティブって事か?
現像なんて言葉もあったな、現像って何だ?
そう、そう、何かの液体に浸けて、何も写っていなかったところから写真が浮き出てたな。
その時現像と言っていた記憶が……。
定着ってのも有った気がする。定着って何なんだろう。
赤い光の中で作業してたりした様な……。
謎が多すぎる……。
そう言えば、映画は昔フィルムで映画館で上映していた記憶が……。
火が出て、映画フィルムが燃えたなんて話を聞いたこともあるな。
あれも写真の一種だよね。
カラー写真って、どうしてたんだ?
…………
ちゃんと考えないと、こりゃムリだな。
可能性のありそうな事を考えてみようか。
銀はイオン化傾向度の低い金属だけど、様々な塩ができる。
光が当ると、電子が励起して、電子受容するものがあれば、還元されて、金属銀に変わる。
1900年頃の、コストの事も考えて、有機合成技術がほとんど無いという補正をすると、多分、昔、写真に使っていたのは銀化合物だろう。
ただ、銀化合物が光に当ったからと言って、即座に真っ黒な銀になんかならないんだよな。
写真って、何十、何百分の1秒で撮影できてるはずなんだよ。
そうしないと映画なんて撮影するのはムリだ。
むぅ。どういう事だろう。
いや、光子で、励起現象が発生すれば、光子が当った銀化合物は、ある確率で銀原子に変わる。光子はとんでもなく沢山あるんだから、銀原子は沢山発生しているはずなんだよな。
でも微細な銀だから見えない。
現像という操作に何かがあるな……これは。
銀原子を核にして、バルクの銀を作ることが出来れば、見えるようになる訳か。
現象としては何だろう?
再結晶?自己触媒?光増感?
いや、銀原子があるからって、周辺の銀化合物が銀に変わったりしない。
銀イオンは還元されなきゃ銀にはならない。
ん。銀原子に酸化還元触媒の効果ってあったっけ。
ん。あったな。
銀触媒で、二酸化炭素を還元するという論文を読んだことがある。
確か、アルコールをアルデヒドに酸化する反応もあったはずだ。
てことは、何か適切な還元剤を作用させれば、銀原子の周辺で、銀化合物の還元反応が起こるか?
新たに発生した銀原子で、さらに反応が進んでいく。
そうすれば、バルクの銀が発生して、像が現われる。
ん。像が現われる?現像って、そういう意味なのか?
ふむふむ。上手く行きそうな気がしてきた。
問題は、還元剤に何を使うかだな。
映画で見た現像のシーンで浸していた液体は水っぽかったな。
間違っても防毒マスクなんかはしていなかった。
水溶性で、還元作用のあるものか。
論文なんかに記載されていた、銀の酸化還元触媒能の対象は、カルボニルだったな。
フェーノール類か、アルコール類あたりが良いんだろうか。
いや、アルコールに還元作用はほとんど無いから、フェノール類あたりか。これなら水に溶けるな。
ベンゼン環にある水酸基とキノンの酸化還元かな。
うーん。あとは実験してみるしかないか。
アイルが来てから、考え込んでいた所為で、助手さん達は、周りで私の様子を窺っていたみたいだ。
手伝いをお願いしたら、早速承諾してもらえた。
「それで、今度は何を作るんですか?」
キキさんは、興味津々の様子だ。他の助手さん達も興味を隠せていない。
写真の事は、どう説明するのが良いのだろう。
完成したら、どういうものなのかは一目瞭然なんだけど。
うーん。絵を自動的に描くというのは……違うな。
意外と難しいぞ。これは。
あっ、アイルの希望を伝えるのが良さそう。
「アイルから頼まれたのは、星空を記録したいってことなの。天体望遠鏡で見た星の様子をそのまま記録できるものってこと。」
「へぇ。アイルさんは、天体望遠鏡で見えた星空をそのまま記録したいんですね。」
「そう。それを上手く利用すると、見ているものをそのまま記録することも出来るようになるわ。」
「えっ?それは、どういう事なんですか?」
うっ。説明に失敗したかもしれない。
「まあ、それは追々分るわよ。」
それから、助手さん達には、寒天の準備をしてもらった。
ガラスの板に、銀化合物を付着させるのに適当なものが思い付かなかった。
後で、還元剤入りの水溶液で反応させるのだとすると、多孔質のゲルが良いのだけれども、簡単に準備できそうなのは、寒天だった。
私は、その間に、銀化合物をどうするかを考えていた。
酸化銀は酸化数に依らず黒色の粉末になる。硫化銀も黒色だ。
感光性素材としては向かない。
硝酸銀は水溶性だから、現像している時に溶け出してしまって、バルクの銀を生成できない。
使用できるのは、ハロゲン化銀だろう。弗化銀は確か水に溶けた。塩化銀、臭化銀、沃化銀のどれかだろう。
問題は還元剤だ。100年以上前からの技術なら、あんまり複雑なものは使わないだろう。
そうすると、使用するフェノール類は、フェノール、ハイドロキノン、カテコール、レゾルシノール、没食子酸あたりだろうか。
フェノールには還元作用は期待できないから、ハイドロキノン、カテコール、レゾルシノール、没食子酸かな。
とりあえず、組み合わせて、確認してみるしかないな。
助手さん達が作ってくれた寒天にハロゲン化銀を濃度を変えて混ぜる。ガラスの板を沢山魔法で準備して、表面に付着させる。
適当な時間、日に晒して、それを各種フェノール類が溶けている水に浸してみる。
反応速度はともかく、ガラスの板は黒くなる。
とりあえず、還元剤は、入手しやすいハイドロキノンかな。これなら、コークスを作っている工場で容易に手に入れられる。
簡単に入手できるハロゲン化銀は、塩化銀だな。
塩化銀を寒天に混ぜたものと、ハイドロキノンで、感度や反応速度を調べる。
現像液はアルカリ性の方が早く還元する。
塩化銀の寒天濃度、塗布する寒天の厚み、ハイドロキノンの濃度、液性などを決めていった。
魔法で試料を作製して、助手さん達に手分けして作業してもらったので、その日の内に終った。
夕食の時に、アイルに「写真乾板みたいなものできたから、カメラを作ってね。」とお願いした。
これで、記念写真が撮れるな。
翌日、アイルが作ってきたカメラに写真乾板を設置して、研究室の中で、助手さん達やアイルや私、カイロスさんが並んで記念撮影した。
アイルがシャッター速度、焦点深度がどうとか言っていたけど、まだ写真乾板自体の性能調整ができてないから、それは追々だよ。
暗室を作って、カメラに設置した写真乾板に光が当たらないようにして、現像液に浸ける。
とりあえず、全体に黒っぽいけど、姿が分る。
「えっ。これ私達ですか?」
「でも、顔が黒いです。」
「あんなに一瞬で、写し取れるんですか?」
助手さんたちは様々な事を言っている。
とりあえず、ネガからポジを作って見せた。
「わあ。私達が描かれてますね。」
「ちゃんと顔は白くなりましたね。」
「すごいです。」
まあ、始めて写真を見たら、驚くよね。
助手さん達は、何が出来るのか、理解してくれたみたいだ。
昔見た映画やドラマで、赤い光の中で作業していた謎は解けた。
感光剤に使っている塩化銀は、赤の波長の光感度が極端に低かった。
なるほどね。合っているかどうか不明だけど、再現できているみたいだね。
でも、まだ、これで終りじゃない。
写真乾板に残っている銀化合物を除かないと、時間とともに、褐色になって、黒くなってしまう。
それに、現像液は、かなりpHが高い。中和しなきゃならない。
酸を使うことになるけれど、あまり強い酸だと銀が溶けてしまう。
とりあえず、中和は簡単だから、銀化合物だけ選択的に溶かす方法を考えないと。
酸を使うとダメだよね。塩化銀を水に溶けるようにするのか。
あっ、錯体を作れば良いかな。
銀の錯体か、シアンは危ないからダメ。チオ硫酸ぐらいが丁度良いかもしれない。
やってみたら、上手くいった。pHの調整も、チオ硫酸ナトリウムで塩化銀を溶かすところで、弱い酸の緩衝液を構成して中和できた。
助手さん達と手分けして、詳細を詰めていった。
これで、アイルの希望は満せたかな。
大体のフローが定まったところで、再度、助手さん達と記念写真を撮った。
写真をネガから複製して、助手さん達皆に渡したら、喜んでいた。
その日の夕食の時に家族写真を撮った。
すぐ現像という訳にはいかなかったので、翌日現像して見せたら、大騒ぎだった。
各自のポートレートや、家族写真を撮るための撮影会を、日中行なうことになった。
皆、着飾って、カメラの前でポーズを取る。
楽しい一時になった。
まだ、性能や扱い易さに問題はあるけど、とりあえずは完成だね。
あとの性能の向上は、他人に任せてしまおう。
カメラや写真の存在を知ったら、写真を撮りたい人も出てくるだろう。
マリムでは、老眼鏡が作れて、望遠鏡も作れるんだから、そのうちカメラも作るようになるんじゃないかな。
化学品担当のボルジアさんを呼んで、ヤシネ・コラドエさんに来てもらった。
ヤシネさんは、博覧会の時に、ジーナさんと分れた翌日、態々挨拶に来てくれている。
ジーナさんが、私達が暇なのを教えてくれたみたいだ。
今回作った、カメラと写真を見せたら、二人とも興奮していた。
必要な薬剤の作り方を教えて、性能を上げるための検討をお願いしたら、二つ返事で了承してくれた。
現像に必要な機材は貸すことになった。
アイルが必要とする写真乾板も私の手から離れて、ヤシネさんたちが作ってくれるだろう。
あっ、まだ、アトラス領では、ガラス板が作れるようになってないな。
ま、必要なものは、アイルが作って渡すでしょ。




