10.ゼロと数字
ひとしきり、かけ算の実演が続いた。終ったところで、御礼を言っておいた。
「ありがとうございます。計算するのは、大変ですね。」
「えぇ。そうなんです。文官の人達は、これを毎日やっていて、私なんかよりはずっと早くできるんですよね。凄いと思います。」
「なんか、途中で間違えそうですね。」
「いちおう検算の方法もあるらしいです。申し訳ないのですが、私はそこまで詳しくないのです。」
いえいえ、十分大変なことだけは伝わりましたよ。
私は絶対やりませんけど。
基数が違っていても10進法に置き換えて、筆算で計算します。あれ、12進法のまま筆算ていうのもありかもしれない。
などと思っていたら、アイルが復活してきたよ。
あまり顔色は良くないんだけれどね。幼い顔の眉間に皺が寄っているよ。
「数の書き方も、計算のやり方もわかりました。ありがとうございます。
ところで、質問なのですが、何も無い場合の数は、どう書くのですか?」
「えっ。何もないのは数ではありませんよ。」
あ、そうか。これまで、ゼロの説明はどこにもなかったね。
アイルはゼロのことを聞きたいんだ。
「もし、ウノのオリーブがあって、そこから、ウノのオリーブを取ると、オリーブがなくなるけれど、その場合のオリーブの数をなんというのか、ということなのですが?」
「その場合は、オリーブどころか何も無いので数ではありません。」
「ウノ クアト ウノという数の場合に、デイルが無いですよね。そのデイルの状態は何と言うのでしょう?」
「状態もなにも、デイルを言わないだけですけど。」
「それでは、足すと何もなくなる数字は、どう言うのですか?」
「足すとかならず増えますから、何もなくなったりはしないと思いますけど。」
だんだんウィリッテさんがイライラしてきたのが判ったので、アイルを止めないと。
『アイル。もうやめた方が良いよ。多分ゼロもマイナスも無いんだよ。』
『どうもそうみたいだね。ゼロという概念自体が無いんだろうね。』
『だいたいアラビア数字のようなものさえ無いのに、ゼロなんて無くても普通じゃないの。ましてや、マイナスの数字なんて思いつきもしないと思うよ。』
そろそろ幕引きをしておかないと、マズいと思った私は、御礼をいって終りにしようと思った。
「アイルが変なこと聞いて申し訳ありません。今日はありがとうございました。」
「こちらこそ、ごめんなさい。教育係なのに、アイルさんの質問の意味が分らなくて。」
「明日は、魔法を教えていただけるんですよね。」
「あっ。そうでした。伝えておく事があるんですよ。
午前中は、魔法の講義をするので、ここの場所を使います。
午後に、天気が良くて、お二人が疲れていないようでしたら、騎士の訓練所の脇に魔法の訓練場所があるので、そちらに移動します。
外に出るので、そのつもりでいてくださいね。」
そう言って、昨日より疲れた感じで、ウィリッテさんは、部屋を離れていった。
お世話してくれる侍女さんが何人かいるけれど、構わずアイルに話しかけた。
『アイル。この世界の基数が12進法だったのがショックなのは解るけど。最後は喧嘩腰だったよ。別にウィリッテさんの所為じゃないんだからね。』
『ごめん。ちょっとショックが大きすぎて、どうしたら良いのか判らなかったんだ。
円周率やネイピア数が12進法だとどうなるのだろうと思ったら、ショックで。』
『そんなの、どっちも、だいたい3でいいじゃない。円周率で5%、ネイピア数で10%の誤差じゃない。』
『そんな訳にはいかないよ。だいたい物理法則には、円周率やネイピア数がたくさん出てくるんだから。あちこちで辻褄が合わなくなってしまう。』
『じゃあ、12進法で計算しなおしたらいいじゃない。』
『それだけじゃないよ。重力定数も、光速度も、みんな数値が変わるんだよ。ニケにお馴染のアボガドロ数は、桁が大きいからものすごく変ってしまうよ。』
10進法が12進法に変わると、表わす数は1桁で2割減になる。
確かに、アボガドロ数みたいに10の23乗の数字なんて大変だな。
その時、ふと、単位はどうするんだろうと思った。
そもそも、重力定数とか光速度とか言っているけど、メートルじゃなくてインチで測ったら、数字なんてみんな変わる。
時間の単位なんて、この惑星の自転の周期で決めるしかないんだし。
『だいたい、地球と同じ単位を使えるとは思えないんだけど。
重力定数や光速度なんて、単位が変われば、値が変わるじゃない。』
『えっ』
ああぁ。また固まちゃったよ。
多分、こっちの方が事態は深刻だろうな。地球と同じ単位を使う方法なんて思いつかないよ。
確か、メートルの定義は、クリプトンの発光波長を基準にしていたんだっけ。あれ、光速度を基準するのに変わったような気がする。どっちにしてもこの世界で測定できる訳ないし。
時間は、原子時計が関わっていたんだっけ。そんなもの、この世界でどうするのよ。
『もう、あきらめて、この世界に合わせるしかないじゃない?』
『それは……。確かに、同じ単位を使うのは……、無理だな……。せめて、物理や化学に関することは10進法を使うとか……。』
『それって、誰にとって得なの?私達以外に、10進法に馴染んでいる人なんていないよ。
それに、さっき数を教えてもらったとき、12が基数だと、約数が多いから、分数が簡単になるんだなって思った。ある意味10進法より合理的じゃない。』
また、アイルが黙ってしまった。何か考えているのは分る。あきらめたのかな。
『数字の表記方法を作ろう。』
それは、地球の数字の表記をこの世界に広めるということかしら。それは、大事じゃない。それに、10進法と、12進法の違いもある。
『今のままでも、いいんじゃない?』
化学では、3桁以上の精度を考えることなんてほとんど無い。普通に生活するのに、それ以上の桁は必要ない。物理学みたいに10桁以上の精度を求めて理論の正当性を評価したりすることなんてない。
『じゃあ、3桁以上の金額の計算を、あの表記方法でするのか?』
そうか。お金の計算は、桁数が多くなったりするわね。
『そのときは、普通に数字を使うわよ。あんなの書くだけで疲れてしまう。』
『じゃあ、この世界の人に、その方法を教えてあげれば良いじゃない。』
いや、いや、いや。そんなの生まれてまだ1年しか経っていない幼児のする事じゃないでしょ。
だいたい、私達が提案したって、誰も使ったりしないわよ。
『まだ、生れて1年しか経っていない幼児の話なんか誰も聞かないわよ。』
『このことは、アウド父さんに相談する。文官の偉い人を紹介してもらって説得するよ。』
あぁ、領主様が父親だったわね。それはアリかも。
ウチのお父さんは……、肉体労働タイプだから、ムリね。
『でも、地球の数字は、10進数よ。12進数用じゃないわ。』
『そうなんだ、だから、10と11を表わす文字を作る。0から9は、アラビア数字でいいと思う。誰も知らないし。オレ達が使えないようなものを使う必要もないし。』
それから、少し、アイルは考えてから、
『10を、アルファベットの大文字のNにして、11をWにすればいいかな。2が下向きになったのが10、3が上向きになったのが11になる。』
『11をアルファベットの大文字のMでも良いんじゃないの?』
『そうも思ったんだけど、アルファベットの順番で、NはMの次だし、両方下向きより区別が付き易いから。』
なるほどね。まあ、一度決めてしまえば、あとは慣れだから、まあいいかな。
『いいわよ。それで。うーん。掛け算九九をこの世界の言葉で、覚えなおさないとダメね。』
『そうだね。そして、ソロバンを作る。』
なんで、そういう発想になる?
『数を横にならべるから、あんな表記方法になると思うんだよね。
ソロバンがあれば、桁ごとに縦に並べれるということをイメージしやすいと思うんだ。
それに、電卓もコンピュータも無い世界なら、計算機が欲しいし。
ソロバンなら筆算より早いでしょ。』
なるほど、と思ったけれど、ソロバンなんて、この世界の技術で作れるのかしら。
まして、私達の手のサイズに合うソロバンなんて。
なんか、凄い技術ギャップがありそうな気がするけど。
前話と前々話のタイトルの番号が変だったのはこういう訳です。
Mを使わず、Wを使うのは、実は作者の都合です。
ディレクトリ内の各節のファイル名をアルファベット順にして、正常な順番になるようにしたかったからです。