10N.鞄
「あっ。ごめんなさい。驚かせちゃいました?
店主のリリス・ボーナと申します。ニケ様をご存知なのですか?」
「あ。はい。王都の視察団として、アトラス領に来た、考案税調査官のジーナ・モーリと申します。一昨日まで、ニケさんに、色々な事を教えてもらってました。
で、こちらは、私の上司で……」
「私、やはり視察団の一員でアトラス領に来た考案税調査部門で管理官をしているヘンリ・ダナと申します。」
「あら、王都からのお客様だったんですね。ふふふ。てっきり娘さんの服を買いにきた父娘かと、あっ。ごめんなさい。失礼な事言って。ふふふ。」
えっ。私と管理官が父娘?いや、いや、いや、どこも似てませんよね。あっ。後姿だけ見えてたんですね。少しだけ納得。
いえ、いえ、納得できません。
「「いえ。断じて違います!」」
管理官と声が揃ってしまいました。少し恥しいかも……。
「あらあら、本当にごめんなさい。つい口に出てしまって……でも、珍しいですね。王都の視察団の方が、店にいらしたのは、初めてです。」
「えっ。そうなんですか?」
「ええ。お客様として来られた方が居たかもしれませんが、名乗られたのは、初めてですよ。
私が不在の時にお見えになっていたら、店の者から聞いていたでしょうから。」
ん。何で、街の商品の視察をしないんでしょう?
他の人たちは、製造場所にだけ、興味があるのでしょうか?
不思議です。
「それで……ミシンの事は秘密だったりしますか?」
「ミシンですか?ミシンは、領主様からお借りしているので、秘密でも何でも無いですよ。」
「そうなんですね。よかった。それで、この服は、ミシンで縫っているんですよね?」
「ええ。良くお分りですね。最近の服は、みなミシンで縫っています。出来上がる時間が全然違いますし、縫うのが速いので複雑な形の服を縫い上げることも容易ですから。
それに、ある程度慣れると、熟練のお針子さんのような仕上りになります。
かなり特殊な場所を縫う以外は、全部ミシンですね。」
「そうなんですか。そんなにミシンは使われているんですか。やっぱりニケさん達は凄いですね。」
「そうです。あのお二人は、何と言うのか……。やはり凄いとしか言えませんね。この商店がここまで大きくなれたのは、あのお二人のお陰ですし。
そうそう、立ち話も何ですから、奥の部屋にご案内しても?そこにミシンが置いてありますよ。」
「えっ。ミシンが有るんですか?管理官。ミシンが見られますよ。絶対に見た方が良いです。」
「まぁ、それは良いが。お前、この店をまず見て廻りたかったんじゃなかったのか?」
「それでしたら、あとで、店を案内してさしあげますよ。」
「えっ。良いんですか?お忙しいんじゃないですか?」
「忙しくないかと言えば……どうでしょう?
今朝、物産展の様子も見てきましたから、今日は特に急ぎの仕事もありませんね。
店の者に任せておけば大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。宜くお願いします。じゃあ、管理官ミシンを見に行きましょう。」
「おいおい。本当に大丈夫か?昨日もそんな感じで、ここに来るのが今日になったんだぞ。」
「えっ。でも折角の機会ですよ。こんな事、二度と無いんですから。」
「まぁ。それで良いって言うんだったら、異論は無いけどな。」
私達は奥へ随分と歩いていって、作業場所の様なところに案内されました。
「本当は、お客様を案内するのなら、応接室が良いですけど、ミシンはこの部屋にしか無いんですよ。
考案税の調査官さんなら、お願いすれば、ここで見聞きしたことを秘密にしてもらえますよね?
考案税の申請をしようと思っているものも置いてあったりするので。」
「もちろんです。ここで見聞きしたものについては、口外しません。」
「私も口外しないと約束します。」
「では、部屋の中にどうぞ。」
部屋の中は、雑然とした印象を受けました。
中央には大きなテーブルがあります。
その上には、色とりどりの皮革が重なっていて、何かを作っている途中のものが幾つも乗っています。
そして、テーブルの端に変った形をした道具があります。
「あれが、ミシンです。縫製品のちょっとした手直しをするために、この店には1台だけ置いているんです。
実際の縫製は、こことは別な場所にある工房で作業しています。
このミシンは、最近、アイル様と相談して、ちょっとした改造をしてもらったんです。
このミシンでは、革製品の縫製ができるので、今、試作品を作ってるんですよ。」
「えっ。革を縫うことができるんですか?」
「そうなんです。今、革を使った製品の検討をしているんです。
他にも、革に関しては、製造方法の検討もしていました。
店の入口近くに革が置いてあるのに気付かれませんでした?」
「ええ。ありました。ボーナ商店は、布製品が主体なので、ちょっと不思議だと思っていたんです。」
「革を作るときに、鞣しという作業があるのを知っていますか?
これまで、タンニンという植物由来の薬剤で鞣しをしていたんですけど、ニケ様から、クロムというもので簡単に鞣しができるはずだと言われたので、それを試したものなんです。
やってみると、タンニンの場合、かなり長い時間、薬液に浸けておかなければならないのですが、クロムを使うととても時間が短かくなるんです。
ただ、風合いが多少変わってしまうので、何件かのお客様に評価をお願いしました。
お客さんの評価が、概ね好評だったので、試しに販売をしているんです。」
「へぇ。そうなんですか。すると、近々、それの考案税の申請が出てくるんですね?」
「ええ。ただ、ニケ様は不思議な人で、「それは、ボーナ商店で実施したことだから、私の名前は不要だ。」なんて言うんですよ。
それはダメだと強く言ったことで、私とニケ様の連名になる予定です。」
何か、昨日も同じ事を聞きましたね。
「それで、ここで作っている試作品というのは、どういう物なんですか?」
「ジッパーという物をご存じですか?」
「ええ。名前と構造と機能だけは申請書で読んだ事があります。実物は残念ながら使っている製品も、そのものも見たことは無いです。」
「かなり便利なものですよ。それを使った商品を考えていて、革の袋に付けてみたらどうかと思ったんです。
ニケ様は、それの事を鞄と言っていましたね。
皆さん荷物を持ち運ぶのに、布の袋を使われるでしょ。
革でそれを作ると、袋自体が頑丈なので、中の物を保護して持ち運べるんですよ。
ただ、布袋と違って、革は硬いので、口の部分を紐で縛る訳にいきません。
そこでジッパーなんですよ。」
そう言って、鞄という物を見せてくれました。
丸い感じの意匠の、革でできた容器です。両側面に持ち手のようなものが付いています。
革の容器の上部には、金属のギザギザしたものが付いています。
このギザギザがジッパーなんでしょうか?
「ここをですね、撮んで、横に動かすと、物を出し入れできるようになるんですよ。」
そう言って、リリスさんが、端にある金属の塊の様なものを動かしました。
鞄の上の部分が開いて、鞄の中が見えるようになります。
逆に動かして、閉めると、完全に閉じてしまって、中に入れたものが、こぼれ落ちたりしません。
これ、とっても良さそうです。
「これ、とっても素敵です。売っていたら購入したいと思う程です。
あっ、でも革だから高いですよね。ジッパーも高そうですし。」
「あら、気に入ってくださったんですね。嬉しいです。」
「これ、もしもですけど、厚い布で作ったら、安くなったりしませんか?
あっ、ジッパーは高いんですよね……ダメか……。」
「いえ。最近はジッパーは大分安くできるようになってきたんですよ。
なにしろ、戦争の時に大量に生産しましたからね。
専門の鋳物師さんもいます。
そうですね。厚い布ですか……。それ良いですね。とっても良い考案ですよ。
私達は、大分、革に拘ってましたね。
そうですね。頑丈だったら良いんですから、厚い布でも良いんです。
ふふふ。沢山売れそうです。」
「私も、とっても気に入りましたから、発売されたら是非、購入したいです。」
「そうだな。男性用があれば、オレも欲しいな。」
「あら、それなら、鞄を差し上げますよ。」
「えっ。あの……それは絶対にダメです。」
「そうだな。それは、ダメなやつだな。」
「えっ。どうされたんですか?せっかくの考案の御礼ですよ。何故ダメなんです?」
「この鞄は考案税の申請をされますよね。」
「えぇ。これは今まで無かったものですから。当然申請します。」
「私達が事前に考案税案件だと知っている場合、その申請者からは、どんな理由があっても、何かを受け取ってはいけないんです。
金品を受けとって、不正が行なわれたと疑われたら、考案税の申請そのものが却下されてしまうかもしれません。
これが、普通には考えられない様なもので、その原理や効果の確認を必要とする場合には、それを入手することは許されます。
でも、この考案は、既に有るものの組み合わせですから、不正の疑いが発生すると厄介なことになりかねません。」
それから、少しの間、考案税のしくみと、その調査で承認、不承認がどの様に決まるのかの説明をします。
既に有るものを組み合わせた場合の判断基準も併せて伝えました。
もし、不正が見つかった場合にどんな処分が下されることになるのかも。
「あらあら。それは大変。でも、そうすると、考案税の調査官さんは、考案税の申請って出来なくなりませんか?」
「その場合には、別な担当が調査しますから、大丈夫です。
ただ、不正していない証明が難しいので、調査官は申請をしない方が良いですね。」
「私は、アトラス領の担当調査官で、ニケさん担当なので、ニケさんが関係する案件は、要注意なんです。」
「あら、ジーナさんは、ニケ様の担当さんなのね。それは……大変でしょ?」