100.工場
私達考案税調査官一行は、約束の時刻に、領主館を訪問しました。
領主館前に領主館専用の馬車が待っています。
時計のお陰で、この領地は時刻に正確です。
王都で待ち合わせをしようものなら、1時近く待たされるのが当たり前です。
私達は、馬車に乗り込んで、コンビナートに向います。
コンビナートの北側にあるコンビナート駅には、広い積み降ろしのための場所がありました。
大勢の人達が、貨車からコークスを運び出したり、危険物の液体を積み込む作業をしています。
今は博覧会をしている所為でしょう。見学に来ている人が沢山居ます。馬車を雇って来ている人も居ます。沢山の馬車がコンビナートの入口に停まっていました。
鉄道を使って来た人も沢山居ます。
駅で乗り降りしている人の大半は、見学の人なのでしょう。
私達は、最初に工場の中央にあるボイラーを見に行きました。
工場で必要としている高温高圧の水蒸気を作っているところです。
ニケさんの助手さん達が生産しているモノの説明。アイルさんが道具の説明をしてくれます。
自分達だけで訪問した同僚は、大きな煙突のあるこの設備がそんな役割をしているとは気付かなかったと言っていました。
ここで作った水蒸気は、パイプを通って、各工場に供給されています。
以前は木炭を燃料に使っていたそうです。
鉄道を使って、海沿いのコンビナートで生産したコークスが運び込めるようになったので、燃料をコークスに切り替えました。
以前は、ここで発生する熱を使って、過酸化水素という漂白剤を作っていたんだそうです。
今は、漂白剤は、海水を電気分解して得られる次亜塩素酸ナトリウムに変わりました。
過酸化水素を作っていた時には、毒性のある薬品を使っていたのですが、その作業は無くなって、専ら高温の水蒸気を発生させる施設になったのだそうです。
ボイラーに続いて、漂白剤を作っている場所に行きました。微かに、あまり嗅いだ事のない臭いがします。この臭いは、工場の給排気している場所から僅かに漏れた次亜塩素酸から発生した塩素の臭いです。
漂白剤は、このコンビナートで紙を漂白したり、マリムに敷設されている上水の消毒、今ではとても有名になった、真っ白なアトラス布を作るのに使われています。
ここで副産物として発生した水素は、アンモニアを製造する工場へ送られています。
アンモニアの製造工場は、ステンレスのパイプと容器、冷凍機などが配置されていました。
外からは何をしているのか窺い知ることは出来ません。ニケさんの助手さん達に、それぞれの容器でどんな事をしているのか教えてもらいます。
これも、私達だけで見学に来たとしたら、詳細を知ることはできませんでした。
そして、ここではアンモニアだけでなく硝酸も製造しています。
アンモニアや硝酸は、肥料の原料になります。
空気から肥料が生み出されるというのは、とても不思議な感じです。
そして、その硝酸は、銀を電気分解で精製するにに使われます。
その後は、アルミニウムの製造工場に向いました。
ここでは、選鉱する施設があって、原料のボーキサイトを砕いて粉にした鉱石を巨大な水槽で選別します。
水槽に入っている液体と送り込まれた空気の泡でアルミニウムの含有量の多い鉱石が選り分けられるのだそうです。
最終的に空気の泡に取り込まれて浮かび上がった鉱石がアルミニウムの原料になります。
同僚達だけで見学した時には、鉱石を洗っているのだと思っていたようです。
これも、申請書の記載を見たことがあります。
ただ実際に選鉱作業を見た事が無いので、そう思ってしまうのも無理は無いですね。
選別された鉱石からアルミニウムを生産している場所には、別な場所で製造した水酸化ナトリウムの巨大なタンク、大きな炉と巨大な電力供給のための装置があります。
鉱石を水酸化ナトリウム水溶液に溶かして、酸化アルミニウムが作られます。
この酸化アルミニウムは、同じ工場で生産した氷晶石と合わせて、大きな炉に供給されています。
出口では、酸化アルミニウムが還元されてアルミニウムが流れ出ています。
ここで作ったアルミニウムは、粉砕して粉末に加工され、他の金属の精錬工場で使うことになります。
銅、銀の精錬工場を見学します。
この設備は、王国が喉から手が出るほど欲がっている設備です。
アトラス領から齎された、高純度の銅や銀、金については未だに語り草になっています。
そして、その設備で生み出された富が先の戦争の勝利に導いたと思われています。
それも、要因の一つかもしれませんが、実際に戦争で勝利したのは、アイルさんとニケさんが考案した、雪上車、空気銃、防寒装備、鉄の剣や盾のお陰です。
その情報は、私達の部門でも、一度目を通したところで、封印されてしまった申請書ですから、普通の人達はその事実は知らないでしょう。
この工場は、銅鉱石の選鉱設備、鉱石を鎔融して空気を送り混んで銅を取り出す設備、そして一番肝心な電気精錬の設備で構成されています。
そして、ここでは、鉱石から発生した二酸化硫黄と、アンモニア工場で作った硝酸から硫酸も作っています。
この硫酸と電気精錬の仕組で、高純度の銅が生み出されます。
電気で精錬するのには、先日教えてもらったイオン化傾向が深く係わっています。
銅よりイオン化傾向が高い金属は、金属にはならずにイオンの状態のまま水に溶けます。
銅よりイオン化傾向の低い銀や金は不要物として陽極の下に沈殿します。
銅を取り出した後は、陽極の下に溜った不溶物を使って、銀を電気精錬で取り出します。
そして、銀を取り出した残りの不溶物に金が大量に含まれています。
実際に精錬しているところを、上から覗き込むことができました。
陰極に、綺麗な色をした、銅や銀が見えます。
本当に電気というのは不思議なものです。
次に訪れた、クロムやバナジウム、モリブデン金属の精錬工場では、とても吃驚しました。
この工場では、アルミニウム工場で作った金属のアルミニウムの粉を使用します。
選鉱した鉱物の重さを測って、それに見当った重さのアルミニウムの粉を耐火レンガの容器の中に入れます。
それに、火を点けるのですが……。
鉱石と金属の粉ですよ。それが、凄まじい閃光を出して燃えるのです。
申請書には、火を点けて燃やすと記載があって、そんなバカな事が有る訳が無いと誰も記載内容を信じることができませんでした。
ただ、アイニーケ申請は、信じられない事の方が多いので、とても悩みます。
この申請書も、調査官が皆で悩んだものの一つでした。
結局、申請が正しいのか誤っているのか判断出来るだけの知識が私達には無いという事しか分りませんでした。
一旦却下したのですが、グルム宰相から、異議の文書が届きました。領主が認めた考案税の申請書です。過去に実施された記録もありません。実現が困難なものであれば、そもそも考案税が発生することも無い為に、実害が無いという事で、そのまま認める事になりました。
何とも後味の悪い結果になったのが、この申請でした。
でも、本当に燃えるのですね。というより、燃えるというのは大人しすぎる表現です。
それほどの高熱と閃光を発しています。
そして、燃えた後には、酸化アルミニウムと金属が残っていました。
鉱石は跡形も無くなっています。
ここで、生産した金属は、クロムやバナジウム、モリブデンといった金属それぞれと鉄の混合物です。
この金属の一部を酸に溶かして、先日教えてもらった分析を行なって、クロムやバナジウム、モリブデンの含有量を測定しているそうです。
そして、ステンレスや、鉄を加工するための工具の原料として使います。
いよいよ、このコンビナートの電力を供給している発電装置の見学になりました。
このコンビナートの北の端が川上で、その場所から水を大量に引き入れています。
工場で使用する水もこの引き入れた水なのですが、水の大半は発電の為に使用しています。
上流の水位をほぼ保ったまま、水道橋で下流方向に流れた水は、南の端で一気に排水位置まで落下します。
その高低差で下り落ちる水の勢いで水車が回っています。
外からは水車は見えませんが、発電機の軸は凄い勢いで回っていました。
この発電機は、ニケさんが魔法で作り上げた超伝導素材を使用してアイルさんが作ったものです。
普通は、磁石という不思議な性質を持ったものの近くを電気が流れるコイルという物を動かして発電するのだそうです。
今は、超伝導素材に電気を流すことで磁石の働きをする電磁石というものを使用しています。
非常に強力な磁石だと思えば良いのだそうです。
そのため、非常に大きな電力を発生させられるという説明でした。
このコンビナートで使用する電力は、ここにある発電設備でまかなっています。
そして、発電設備に不具合が発生しても、他の場所で発電した電気が届くので、工場が止まることは無いのだそうです。
マリム川の上流には、この場所にある発電装置の何d1000倍もの発電装置があって、マリムの街に電力を供給しています。
そして、上流の水の引き入れ設備と、下流の水の処理設備を何d100倍の規模にしたものが、マリムの上下水道設備です。
排水のために水が溜っているところに、水を攪拌する道具が動いています。
そこは、活性汚泥というとても小さな生き物を飼っている場所です。
その小さな生物が生きていくのには空気が必要で、空気を水に混ぜるために、攪拌しています。
その小さな生き物は植物のカスなどを分解しくれるんだそうです。
何度も質問して、説明を聞きましたが、全く分りません。
沢山ある不思議な事の一つです。
ここまで見学をしたところで、お昼の時間になりました。
コンビナートの奥には、宿屋が多数ある小さな繁華街があります。
コンビナートで働いている人たちの宿舎があります。
観光の為に訪れた人たちのための宿泊施設もあります。
以前は、他領の人達は、コンビナートの立ち入りが制限されていましたが、今回の博覧会を機に、他領の人達にもコンビナートが開放されたそうです。
ただし、厳格な入場チェックが入ります。
ここは、侯爵領で最重要な設備です。
貴金属の精錬も行なってますから万が一でも工場の操業に問題が発生してはなりませんからね。
お昼に、私達は、その繁華街に向いました。
今日は、繁華街にある飲食店の一軒を貸切でお昼を頂くことになっています。
アトラス領の食事は、どこも美味しいです。
この店の料理もとても美味しかったです。
焼きたての、牛肉は、とても柔らかくて、甘味のある脂が乗っていました。
アトラス領の食事は、カトラリーを使うのが普通の様です。王都では未だカトラリーを使って食事をするところは、まだ殆ど無いと聞いています。
私が行く事ができる飲食店では皆無です。
高位の文官の人や、領主様達が向う高級店だとどうなのかは、行った事が無いので知りませんが……。
カトラリーを使い始めると、手掴みの食事は少し野蛮な様に感じてしまいます。
ただ、王都に戻るとそういう食事になりますね……。
昼食後、製紙工場を見学しました。
大量の植物を潰して、水と混ぜて、漂白して、ドロドロの白い液をロールの上に展開して紙にしていきます。
驚くのは、それらが人の手に依らずに、ほとんど自動で行なわれている事です。
人手が入るのは、最初の植物の原料の繊維質で無い部分を取り除くところだけです。
工場の中には、随所に、危険性のある場所や、何をすると危険なのか、分る様に注意喚起の文言が大きな文字で掲示されています。
アイルさんが、回転しているロールに人の手や衣服が巻き込まれると、とても危険なのだと説明してくれました。
ロールの前には、柵があって、人がロールに触れる事ができない様になっています。
柵を開けると、自動で全てのロールの回転が止まります。
不具合が発生した時に、それを修正するには、かならず全てのロールが止ります。
ロールが止まると、製造途中だった高価な紙は全てダメになってしまうのですが、紙がダメになるより、人が怪我をしない方が大事なのだと言います。
普通の作業場では、こんな考え方はしません。高価な製品がダメになるぐらいなら、人が怪我をするぐらい何でもないと思う管理者の方が多いでしょう。
ただ、製品がダメになると言っても、紙の特殊性から、製造途中だったものは、もう一度、水に溶いて原料として再利用できるのだそうです。
これで、コンビナートの工場群の見学はお仕舞いです。
一つ言えることがあるとしたら、工場が単独で有るのではなくて、相互に生産したものや副産物が原料になっているということです。
それで、この場所に様々な工場が集っているんです。
その知恵こそがとても重要な事の様に思えます。
私達は、海沿いのコンビナートに移動しました。
ここには、巨大なコークス工場と火力発電所があります。
アトラス家で領有しているアトラス山脈の北部には、燃える鉱石の石炭と瀝青炭が大量に埋蔵されています。
燃える鉱石については、考案税申請書で読んで知っていました。アトラス領では、その鉱石を使用して、コークスを作り、鉄道を走らせたり、コンビナートにあるボイラーの燃料にしています。
コンビナートの側の海岸に、大きな埠頭がありました。
北にあるミネアの街で積み込まれた瀝青炭は、この埠頭で荷揚げして、工場に運び込まれます。
幸いな事に、石炭運搬船が埠頭に停泊しています。その石炭運搬船の姿を見ることができました。
巨大としか言いようのないこの船も、鉄で出来ています。
こんなに大きな船は、大陸中を探してもどこにも無いでしょう。
その上、コークスを燃料として、自走します。
ミネアの港で大量の瀝青炭を積み込んで、私達が王都からグラナラまで移動した船と同じ速度で移動できるのだそうです。
驚く様な事なのですが……これだけ驚く事があると……慣れてしまいました。
先ずは、コークス製造工場の見学です。
瀝青炭をそのまま燃やすと、硫化水素やアンモニア、そして様々な有毒なものが発生します。
この工場では、瀝青炭を燃やして蒸し焼きにする事で、それら有害なものを除去してコークスという安全な燃料にしています。
コークスから取り除いた有毒なものは、様々な方法で無毒化しています。
副産物として、硫黄や解熱剤の原料になるフェノールというものも得られるそうです。
硫黄は、グラナラ領の南部で生育を進めているゴムの木から得られる樹液を改質するための原料にする予定だと言っていました。
火力発電所は、隣にあるコークス工場で生産したコークスを燃料として発電を行なう施設です。
コンビナートにある発電所は、水が落ちる力を使って発電機を回していました。
ここでの発電は、コンビナートのボイラーの様に、水を高温高圧の蒸気にして、その力で発電機を回しています。
この仕組は、鉄道の機関車で使っている仕組と同じなのだそうです。機関車の発電装置が、とてつもなく巨大になったものです。
火力発電所を見学している内に、夕方になりました。
今日も一日、様々な話を聞くことができました。
沢山の質問にも応えてもらいました。
アイルさんとニケさんには感謝しかないです。
マリム駅まで、馬車で送ってもらい、再度、王都で再会する事を約束して、お二人と別れました。
今回の視察は十分満足することのできるものでした。
憧れていた、アイルさんとニケさんとも沢山話をすることができました。
明日からは、マリムの街を視察します。
実際に、考案されたものが、どう生活に使われているのか確認するのも大切な仕事です。
そうです。決して、観光目的ではありません。
これは仕事なのです……ガラスの小物や、アトラス布を買っても、それは仕事の一環なんです……。
ふふふ。楽しみです。
ついに、「はじまりのものがたり1」はd100(=144)話になりました。
読んでいただいている読者の方達には感謝しかないです。
当初、この章は切り良くd100話で完結する予定だったのですが……上手くいかないものです。




