7.魔法
なぜだか、杏樹が、魔法という言葉に食いついてきた。
この世界の技術は、どうやらあまり進んでいない。
魔法があれば、物理や化学は必要ないかもしれない。
それは、魔法である程度できてしまうから、それで済んでいるのだろうと思う。
そもそも、オレは、魔法などというものが有る所為で、この世界は夢の中の世界だと思っていたのだ。
片付けが終ったのか、一人、二人と侍女さん達が戻ってきた。
今更かもしれないが、二人で日本語で話すのは遠慮した方が良いかもしれない。
さっきは、固まってしまっていたから。
『世話をしてくれている人達が戻ってきたから、日本語やめておいた方がいいかも』
と言うと、杏樹も頷いた。
「それで、さっき言っていたのはどういう事?」
「魔法のこと?」
「ふーん。そういう単語なんだ。聞いたことがないな。で、この世界には魔法があるの?」
物知りの杏樹が知らないのは不思議だけれども、本当に知らなかったみたいだ。
「うん。あるよ。この部屋、塵一つなく綺麗でしょ。箒もチリ取りもなくて、どうやって掃除しているんだろうって不思議だったんだ。そしたら、侍女さん達が魔法で、塵を集めて、窓の外に飛ばしていたんだ。」
「えっ。ウチには、箒もチリ取りもあるよ。」
その違いは何なのだろうと少し疑問に思った。
「それで、それは本当に魔法なの?」
「うん。魔法で、火や水を出すのを見たから。」
「えっ、魔法で火や水が出せるの!」
「火といっても窒素のプラズマの様だったけど。」
そのあと、杏樹はしばらく考え込んでいた。
唐突になにやらブツブツ言い始めた。
「水の女神アクアラーレよ
御身の奇跡と秘めたる力を我の許へ
水よ出よ!」
と叫んで、手を上に勢い良く上げた。
その瞬間、室内が暑くなったと思ったら、大量の水が天井から落ちてきた。
「ぐぼっ」
突然、大量の水が口を塞ぎ、溺れかかった。
部屋の中は、水浸しになった。
杏樹は、水の勢いに流されたみたいで、少し離れたところで四つん這いになって咽せていた。
「げほっ、げほっ。凄い!魔法使えた!!」
魔法使えた、じゃないだろう。溺れるかと思ったぞ。
ほどなくして、アウド父さんとフローラ母さん、ソドおじさんとユリアおばさんが部屋にやってきた。
どうやら、ニケの侍女さんが、この惨劇を伝えたみたいだ。
ニケは叱られるのだろう。
ソドおじさんが吠える様に、言い放った。
「ニケ!魔法が使えたというのは本当か?」
ニケは吃驚した目で頷いている。
「でかした!グラナラ家に念願の魔法使いが生まれた!でかしたぞ!でかしたぞ!」
ソドおじさんは、顔をくしゃくしゃにして、太い腕で、ニケを抱き上げるとニケに頬ずりしはじめた。
ユリアおばさんも満面の笑みで、ニケを抱き上げたソドおじさんに抱き付いている。
ん。褒められている。魔法が使えるのがそんなに嬉しいんだ。
アウド父さんもフローラ母さんも三人にお祝いの言葉を言っている。
ソドおじさんは、アウド父さんに向き直って、
「我グラナラ家は、アトラス家に仕えて70年、我一族からは、誰一人として魔法を使えるものが生まれなかった。
それが、始めて現われたかと思えば、こんな大魔法を使えるものが出るとは。」
なんか、4人で「目出度い」、「目出度い」を連呼し始めたよ。
なるほど、魔法が使えるのは、目出度くて嬉しいことなんだ。
少し離れたところでその様子を見ていて、オレも魔法が使えるのか、少し試してみたくなった。
杏樹は、何を呟いていたのか思い出そうとしたが、思い出せない。
水の女神…なんだっけ。
御身の奇跡とかなんとかだった様な…。
そもそも、オレに魔法を見せてくれた侍女さんは、何も呟いていなかったと思う。吃驚してあまりその部分は注目してなかったけれど。
どうするのが正しいのだろう。
まあとりあえず、手を上に上げて、
「水よ出よ!」
と叫んだ途端、部屋の温度が凄く暑くなって、
バゥンと音がして、部屋の中が水で埋めつくされた。
驚いたアウド父さんが、こっちを見たのが目に入ったが、互いに水の中を流されて、もみくちゃになった。
今回は、水が落下してきたのではなく、部屋全体が水で満たされた状態になったみたいだ。
入口のあたりで固まっていた、オレの両親とニケの両親とニケは、入口から押し流されていった。
オレは、そばにあった窓から、外に流された。
あたふたと働いていた侍女さん達も、窓か入口から外に流された。
チェストや椅子は、窓や入口から外に流れていった。
部屋の中にあったものは、ベッドとテーブルを除いて、綺麗に外に流された。
いやぁこの部屋が1階で良かったよ。ただ、今度は家が水浸しになったな。
などと、どうでも良いことを考えていた。その時、水を滴らせながら鬼のような形相のアウド父さんがこっちにやってきた。
「アイル!お前、何をしたんだ!」
その後、ひたすら叱られ続けた。
その後、フローラ母さんがこちらに来て、
「まあ、まあ、あなた、やみくもに叱ってもだめですよ。」
と言われたので、ようやく叱られなくなるのかと思っていたら、くどくどとあれこれ言い始めた。
アウド父さんがストレートに叱っていたのとちがって、フローラ母さんは、ネチネチと小言を言い募ってくる。ボディブローの様にダメージが蓄積していく。
ニケへの対応とのあまりの違いに、涙目になってきた。
そこにソドおじさんがやって来た。
「まあ、まあ、そのぐらいにしておけよ。アイルも悪気があってしたことじゃないんだろうし。
それより、ニケもそうだが、アイルも年端もいかない幼児なのに大魔法が使えるなんて、凄いじゃないか。
アウドも、跡継ぎ息子が大魔法使いだったんだから、少しは喜べよ。」
と執り成してくれた。
それからは、アウドもフローラも言いすぎたと思ったのか、魔法が使えたことを褒めてくれた。
何となく心のなかに引っ掛かりを感じつつも、オレも魔法が使えたので良かったなと思った。
あの後、侍女さん達は、テキパキと動いていた。部屋に水が満されたため水だらけだったのを乾燥する魔法と風の魔法で、水分を外へ吹き飛ばしていた。
もうもうとした湯気が発生して、それが家の外に流れていく。
ベッドも布団も水浸しになっていたのだが、あっというまに、元通りになっていった。
その後館の中は、お祝い状態だった。厨房ではご馳走を作っていたし、オレとニケの両親は、笑いながら嬉しそうに話しをしていた。
今日は、ニケの家族は、館に泊まっていく。
急にご馳走を作ることになったため、いつもより遅くに夕食になった。
この世界では、日が昇るとともに、起き出して、日が沈むころには夕食を食べて寝る。
特に子供は、日が沈むとともに寝かしつけられる。
今日は、日が沈んでからの夕食になった。
オレとニケは、おめでとうと言われて、乾杯してジュースを飲んだ。
その後は、離乳食への移行期間のため、細かく切った肉を焼いたものと、団子のようなものを食べた。
大人達は、酒を飲んで、肉に齧り付いていた。
食事は、だいたい手掴みなんだよね。スプーンは有るんだけど、ナイフやフォークは無いんだろうか。
お祝いの主役はオレ達なので、両親の他、館で働いている人達から祝福を受けた。
両親や他の大人達から、頭をなでられたり抱き付かれたりした。
ニケは、上機嫌で、両親達に、魔法のことを聞いている。
オレも便乗して、その話を聞いた。
この世界の人達の中で、大きな魔法が使えるのは極小数らしい。一つの領地に、何人か居るぐらいの希少さなのだ。
さっきの話の流れだと、当然、ソドおじさんも、ユリアおばさんも魔法は使えない。
弱い魔法を使える人は僅かながら居て、そういった人は、商家や、領主の元に勤める。
商家では、他領に商品を運ぶのに、何日も歩いて移動する。そんなときに火が簡単に点けられたり、水が簡単に出せたりするのはとても重宝がられる。
領主の元では、領主の仕事を魔法で手伝うことがある。領主は魔法が使えないと勤まらない仕事らしい。
確率的には、魔法を使える人の子どもに魔法使いが生れることが多い。
でも、父さんの兄弟姉妹では、他家に嫁いだ伯母さんと、アウド父さんだけが魔法を使えて、他の伯父さん達は魔法は使えなかった。
その伯父さん達は、騎士として王都で働いている。
魔法を使えるかどうかは、生まれたときにだいたい決まっている。
年端もいかない赤ん坊を調べる方法がないので本当かどうかは怪しいようだ。
ただ、子供の時に魔法が使えるとそのまま成人しても使える。そして、成人するに従って、だんだん大きな魔法が使える様になる。
子供の時に魔法が使えないと一生使えないらしい。
オレとニケみたいに幼児で魔法を使ったということは聞いたことが無いと言っていた。
成人したら、どれだけ大きな魔法が使えるのかと、期待する目で見られたよ。
ニケが魔法という単語を知らなかったのは、グラナラ家は、侍女を含めて、誰も魔法を使えなかった。だから、会話のなかに、魔法という単語が出ることが無かった。
あんなに、色々なことを知っていたニケが、魔法という単語を知らないのも納得だ。
とにかく、跡継ぎが大きな魔法を使えたことで、アトラス家は安泰だと、皆が喜んでいた。