87.颱風
その日、父さんの執務室で、父さん達に、石炭の利用方法について相談していた。
先月の末には、ニケを手伝って、コークス製造工場を建てた。
まだ、石炭を輸送する方法が決まっていない。
そこに、助手さんの一人のウテントさんが血相を変えてやってきた。
この助手さんは、気象現象に興味があるらしく、積極的に気象観測をしてくれている。
「アイルさん。今日は、朝から気圧が変です。」
ウテントさんは、日の出の頃に、いつも通りに、気象観測をしたところ、何時もより気圧が低くなっているのに気付いた。
気になって、半時毎に気圧を計ってくれていたらしい。
今は、もう昼前ぐらいの時刻だ。
「気圧が下っている日は、天気が悪いのが普通なのですが、今日は天気が良いんです。
自動記録装置も水銀柱の気圧計も低い値になっています。」
昨日までのデータと、今日の朝からの気圧の変化を見ると、明かに何時もの状況とは違っている。
今日は、朝から気圧が低めで、時間を追う毎に、気圧が下ってきている。
そして、確かに今日は天気が良い。
ただ、空を見ると、大きな鱗雲が沢山ある。
確か、前世では、颱風の外周部では、沢山の鱗雲が有ったな。
少し風が強い感じだ。
風のデータを見せてもらうと、朝のうちは、北東風で、今は東風になっている。
こちらも時間を追う毎に、強くなってきている。
領都には、領主館の他に、領都の南西のマリム川の河口付近と、領都の北西にあるガラス研究所、たたら場に測定場所がある。
領都から北に離れた場所にも何箇所か測定場所がある。
あとは、北の国境地帯だ。
それらのデータをウテントさんに頼んで持ってきてもらうことにした。
父さんとソドおじさん、グルムおじさんが、怪訝な表情で、オレの方を見ている。
「父さん、ひょっとすると、大きな嵐が来るかもしれません。」
「どうして、そんな事が判るんだ。」
「厳密な話は、時間が掛るので、簡単に言いますね。
まず、この気圧という値ですが、気圧が下っているときには、雨が降ったりして天気が悪いんです。
でも、今日は天気が良いのに、気圧が下っています。これは、近くにとても気圧が低くて、とても天気が悪くて嵐が起っているところがあると思われます。
それと、風の向きと風の強さです。
嵐が起っている場所が遥か南にあると、風向きは北東です。そして、それが近づくにつれてだんだんと東を向くようになってきます。
今朝から観測している結果が正にそのとおりになっているんです。
嵐が南から近付いてきています。
そして、今の空の雲です。
大きな丸い雲が沢山ありますよね。
大きな嵐の外周には、あんな雲が沢山並ぶんですよ。
しかも、かなり早い速度で西に移動しています。」
「すると、南の海で嵐が発生していて、それが段々と近付いてきているという事なのか?」
「そうです、それも、とても大きな嵐です。
前世では、『颱風』と言っていましたが、ものすごい風が吹いて、沢山の雨が襲ってくる可能性があります。
そして、今日は、8月2日ですから、『大潮』ですね。
領都の海岸に近い、低い土地では『高潮』の被害が起こるかもしれません。」
「その『高潮』というのは何だ?」
「大潮の満潮時には、普段より海面が上昇します。
その上、気圧が低くなると、大潮で上昇している海面がさらに上昇します。
そんな風に、海面が上昇している時に、嵐で波が高くなると、低い土地にあるものは、海に飲まれたり、掠われたりするかもしれません。」
「それは、何時やってくるんだ?」
「うーん。難しいですね。
とりあえず、最悪を想定して動いた方が良いかもしれません。
深夜にこの街に颱風が来る場合が一番被害が大きいでしょう。
昼を過ぎて、風が強くなるようなら、低い土地に住んでいる人は、高台に避難した方が良いと思います。」
「ソド、念のため、嵐が来るかもしれない事を、警務団に伝えておいてくれ。
もし、嵐になりそうなら……」
と言って、父さんは、街の地図を出した。
この地図は最新のものだ。領都の測量は完了していて、標準海面からの標高も正確に測定してある。
「ここより南は、土地が低い。この範囲の住人を神殿に避難させてくれ。
神殿は、先日、デカいのを作ったばかりだ。グルム、神殿に領都民を収容してもらえるように頼んでおいてくれ。」
ニケが、『この世界でも颱風が来るんだ。』と日本語で呟いていた。
助手さんが、周辺の観測場所の気象データを持ってきてくれた。
領都周辺の気圧は、北の観測点ほど高く、南になるにつれて低い。
風向きの変化は、南が先に変化して、北の観測点がそれに続いているように見える。
「それで、ニケはどう思う?」
ニケの意見を聞いてみた。
「アイルの言うとおり、この気圧変化は、ちょっとマズいかも。えーと、1気圧が『1013ヘクトパスカル』とすると、『950ヘクトパスカル』ぐらいか。
天気が良いのに、普通はこんなに下がらないわね。
ここより遥かに気圧の低い場所があるってことでしょうね。」
「なんだ、そのヘクトパスカルと言うのは。」
と父さんが聞いた。
「あっ、気にしないでください。向こうの世界の単位なんで。それで考えた方が楽だっただけです。」
とニケ。
「それで、ニケもアイルと同じ意見なのか?」
「そうです。アイルが言っていることが起こる可能性は高いと思います。」
「そうか。それでは、アイルが言っているように、昼を過ぎて風が強くなるようなら、海岸に近い領民は、万一のために、避難させよう。
ソド。そのように警務団には伝えてくれ。
グルム。神殿に、避難する領民を受け入れてもらえるように依頼を掛けてくれ。」
とりあえずの対策としては、これで良いのかな……。
そう言えば、こんな嵐は、頻繁に来るんだろうか。
オレもニケも産まれてから、三年半ぐらいだけど、その間に嵐の記憶は無いな。
「父さん、過去に、このマリムに大きな嵐が来たということは有るんですか?」
「あまり、無いな。以前、嵐で被害を受けたのは、オレが領地を引き継ぐより前だったな。12,3年前だと思う。」
「そうすると、時には、嵐で被害を受けることもあるんですね。」
「それでも、マリムは少ない方だ。もっと西の海岸沿いの領地は、毎年のように被害に遭うところもある。」
なるほど。颱風は普通に発生するんだな。海流かなにかの影響で、マリムは被害に遭う事が少ないのか。
昼を過ぎたあたりで、東風が強くなってきた。
やはり海の近くの土地に住んでいる人たちは、避難させた方が良いかもしれない。
相変らず、青空が見えている。ときおり、激しい雨が降っては止む。
凄い勢いで、羊雲が西に流れていく。
時々、南の海上を双眼鏡で見てみるのだけれど、まだ纏まった雲は見えない。
もし、颱風が来るとすれば、夜半か明日なんだろう。
颱風がマリムに上陸しない可能性もあるけれど、最悪想定をしておいた方が良いんだろうな……。
父さんに、低い土地に住んでいる人たちを非難させた方が良いと伝えた。
既に、ソドおじさんが、警務団を使って、嵐が来ることや、避難対象地に住んでいる住人は、避難しなければならないこと、避難の準備のため貴重品を持ち出せるように纏めておくことなどを通知していた。
警務団は、街中の人々に、今日は、仕事は早めに切り上げて、嵐が通り過ぎるまで、安全な場所に居ること。避難対象地に住んでいる人は、新旧の神殿に避難することを命じていった。
避難場所は、新しく建設した大神殿と、昔からあった神殿になった。
古い神殿は内装を変更して、子供のための「精鋭養成学校」になる予定だ。ただ、まだ開校していないため、空いている。
避難民の人数は、5千人を上まわるが、何とか収容できるとグルムおじさんが教えてくれた。
夕刻が近付いた頃、ようやく南の海上に巨大な雲の塊が見えた。水平線に、とてつもない幅の雲の塊があった。それが、左から右に凄い勢いで廻っている。
もう、既に、かなりの強風が吹いている。
気圧は、5/6に近付いている。
あの、颱風の中心気圧はどのぐらいあるのだろう。
日が暮れる前あたりから、大雨が降り出した。颱風の雲が領都に掛ってきたのだろう。横殴りの雨が建物を打ち付ける。
百葉箱の観測では、風速は、2000デシ毎秒(=50m/s)になった。
気圧は、4/6に近付いている。
気圧はどこまで下るんだろうか……。
気にはなるんだけど……。オレの体は夜中まで起きていられないんだよな……。
普段、天体観測をしている、助手のダビスさんと、ピソロさんに夜間の気象観測記録をお願いした。