82.顕微鏡
次はパン酵母かな。
膨らし粉で、パンを焼くというのもあるけど、やっぱり酵母発酵でパンを作りたいじゃない。
お酒があるんだから、アルコール発酵する酵母は有るんだよ。
だけど、どうやって探そうか……。
アイルに頼んで、生物研究キットを作ってもらうか。
また、アイルの研究室に行く。
『アイル。度々で申し訳ないんだけど、また作って欲しいものがあるんだけどな。』
『ん。今度は何?』
『オートクレーブと顕微鏡を作ってくれない?』
『顕微鏡は分かるけど、オートクレーブって何だ?』
『圧力鍋みたいなものかな……。高圧高温水蒸気で滅菌する装置よ。』
『ふーん。で、どのぐらいの温度と圧力が必要になるんだ?』
『使うのは120℃で2気圧ぐらいかな。スペックとしては140℃3気圧ぐらい。
ただ、この世界が地球と同じかどうかというと……何とも言えないけど……。』
『なるほどね。酵母でも培養するのかな?
容積はどのぐらいのものが必要なんだ?』
それから、こちらの要望を伝えて、アイルが図面を簡単に書いてくれた。
うん。うん。望み通りのものになりそうだ。
『あっ、あとシャーレを大量に作ってほしいな。』
『えーと、シャーレって、以前作ってたよな。丸い容器じゃなかったっけ。大量って、どのぐらい必要なんだ?』
『うーん。とりあえず100組ぐらい作ってもらえないかな。』
『なんだ。そのぐらいなら、直ぐに出来るけど、材料は?』
『まだ、硼珪酸ガラスが残ってるから、それでお願い。』
『じゃぁ、オレは、昨日オーブンを作った残りの材料で、そのオートクレーブってやつを作っておくから。
ホウケイ酸ガラスを持ってきてくれ。
あとは、顕微鏡だけど……。シャーレ作ってからだな。』
私は、助手さんにお願いして、残っている硼珪酸ガラスを持ってきてもらった。
アイルは、あっという間に、オートクレーブの本体を作ってしまい、ヒーターを組み込んでいる。
上部に縁をネジで固定する耐圧容器だ。
あいかわらず、アイルの頭の中は、どうなってんだか不思議だ。
助手さんが硼珪酸ガラスの塊を多数持ってきたので、それはそのままシャーレに変わる。
よしよし。これで、実験できるかな。あっ、折角だから、セルスプレッダーも作ってもらおう。10本ほど作ってもらった。
よしよし。あとは顕微鏡だね。
『それで、顕微鏡は、どんなのが良いんだ?』
『せっかくだから、いろいろできるのが良いな。』
『いろいろって……。何を見るんだよ。』
『まずは、酵母菌を探さなきゃならないし、金属表面を前から見たいと思っていたんだよね。
普通は、金属表面に結晶粒界があるはずなんだけど、魔法で作った塊は、なんか地球のと違うんだよ。ひょっとすると、大きな結晶になってるんじゃないかと思うんだけど……。』
『生物用の顕微鏡と、金属顕微鏡の両方が欲しいって訳か?
まあ、顕微鏡の基本的な部分は変わらないけれど、透過観察と反射観察の両方か。
光源はどうするんだ?』
それから、二人で話し合って、様々な構成を決めていった。
光源は結局、アイル謹製のダイヤモンドLEDと蛍光材料としての量子ドットの検討をした。
量子ドットは、上手く組み合わせると、紫外線を吸収して、高効率で可視光に変えてくれる。
これも魔法で、適切な粒子サイズに調整できるからなんだけど。
便利だ。
アイルが、顕微鏡の構造を設計してくれる。
私は、対物レンズ用に、分散の異なるガラス素材と紫外線を吸収して可視光の蛍光を発光する量子ドット材料を作ることにした。
二人で話し合いをしている間、例によって、助手さんたちが分らない日本語を聞き続けているので、時々、内容を解説してあげた。
助手さんたちは、顕微鏡の意味や意図が分らなかった。
何故、小さなものを拡大して見るのかが分らないみたいだ。
虫めがねレベルと顕微鏡だと、見える世界が違うのだよ。
まあ、出来上がってからだね。
アイルの設計には時間がかかるみたいなので、その間に、テングサを探すことにした。
また、浜辺に行って、海藻を多種類取ってきてほしいと頼んだ。
ずいぶん久々だな、このアクションは。
確か炭酸ナトリウムが欲しくて探したっけ。
青海苔の原料みたいなものが良かったんだよな……。
こんど海苔を作ってみようかな。
だけど、あれを好むのは、私とアイルだけかもしれない。
何かの文献で、海苔を消化できるのは、東アジアの人達だけだって読んだことがあるけど……。この世界の人はどうなんだろう……。
寒天培地を作る海藻は、赤い色をしていた記憶がある。赤い海藻を重点的に探してきてもらった。
寒天の素材は、特殊な糖類で、通常の細菌はその糖類を分解してエネルギーに変えることができない。
水分を魔法で除去した乾燥海藻から、その糖類を分離魔法で探す。
すぐに、大量に寒天を含んでいる海藻は見付かった。
助手さんたちにお願いして、その海藻を大量に入手してもらった。あまり食べない海藻らしく、大量に岩場の海岸に生息していた。
それを乾燥させて、煮込んで、寒天を取り出す。心太が作れるけど、これも消化できない類のものだな。
日本人って、普通に消化できないものを、何で食料にしていたんだろう……?
そうこうしているうちに、アイルから顕微鏡の基本部分が出来たと連絡があった。
短焦点で、色収差の無いレンズの組合せを作るのに随分苦労したみたいだ。
うん。苦労は分る。私には一生掛けても作れないというのも分る。
その苦労を話したくてしかたが無さそうだったので、聞いてあげた。
ただ、「説明は、こっちの言葉にしてね。」と言ったら、絶望的な表情だった。
だって、私だけ聞いても、助手さんたちの為にならないじゃない。
倍率は、対物レンズで、×d10、×d20、×d60、×d100、×d200。接眼レンズで×d6、×d10、×d16になっている。最大5000倍か。
アイルに言わせると、最大倍率は流石に像がボケるらしい。まだ改良が必要みたいだけど、十分だよ。
一応機能としては、偏光顕微鏡、微分干渉顕微鏡の機能がある。
これだけのものを作るのに、それほど時間が掛ってないのがスゴいね。
私の方でも進化したものがある。量子ドット蛍光素材の変換効率が格段に上った。
アイルのLEDと組み合わせると、とんでもない明るさになった。
反射板を付けると、サーチライトとしても十分使えるようなしろものだ。
前に作った有機材料の紫外線吸収材料より多分寿命が長いと思うんだよね。
上手く結晶の中に組み込んだから、半永久的に使えるかもしれない。
接眼レンズで観察するだけじゃなく、スクリーンに像を映すこともできた。
これは便利だ。
さて、これで準備は整ったので、酵母を探しますか。
助手さんに、お酒を作っているところから、醪をもらってきて欲しいとお願いした。
助手さんたちには、疑問しかなかったみたいだ。
そういえば、この世界で、酒類の発酵は、どう思われているんだろう。
「えっ。お酒ですか?それは、酒の神様のニューソス様が食べ物を煮込んだ汁をお酒に変えてくださるんです。」とカリーナさんが言う。
助手さんたちは、皆頷いているので、そういう認識なんだ。
まあ、顕微鏡が無ければ、微生物なんて、知らないよな。
それから、暫くの間、食物と酵素と微生物の講義をした。
皆、信じ難い話だと言いながらも、私の話なので、多分本当の事だと思っているみたいだ。
やはり、話だけじゃなくて、実際のところを見せないとダメだよな。
ジオニギさんにお願いして、領主館の庭にある池からビーカーに水を取ってきてもらった。
うん。そこそこ濁っているな。何か居るかな。
ビーカーから、スポイトでガラス板の上に水滴を落してもらって、顕微鏡で見る。
私は身長が足らないので、スクリーンに写し出した。倍率は最低にしてある。
やっぱり、動いているヤツが居るね。
助手さんたちは、最初は、ただ眺めていただけだけど、段々と騒ついてくる。
「何か、動いてます!」とキキさん。
そのまま倍率を上げていくと、画面内を横切るように移動しているヤツが出てくる。
おっミジンコじゃないか。ゾウリムシも居るね。
「なっ、なんですか、コレ。」
「さっき、説明したように、これが微生物です。
かなり目が良くても見えないぐらい小さな生き物ですね。」
少し、水が乾いて、激しい動きができなくなったところで、ゾウリムシに焦点を当てて、拡大してみせる。
体の外にある繊毛が動いている。水が少なくなっているので、元気がないな。そのうち死んでしまうかな……。
「外側にある細かな毛が動いてます。」青くなりながら、ヨーランダさんが、呟く。
「私達の周りには、こんな微生物が沢山います。
実は、下水処理場の活性汚泥で、汚物を分解してくれているは微生物の細菌です。
枯れた植物や、死んだ動物が土に戻るのも、こういった細菌の働きです。
土壌に窒素エレメントが増えるのも、細菌の働きですね。」
なんとなく、皆、さっき私が話た事が腑に落ちたみたいだ。
なんか、女性の助手さんたちは、少し青い顔をしている。
虫も苦手だったりして……。
「それで、いいお酒は、神様が手助けしてくれているかもしれないですけど、デンプンや糖分を分解して、アルコールを作っているのは、「酵母」という微生物なんです。
酵母は、とても役に立つ微生物ですから、これからそれを調べたいと思います。」
それから、助手さん達は、酒造りをしている工房へ出向いて、醪を貰ってきてくれた。
6つの工房から、20種類の酒の醪を得ることができた。
この世界の酒は、大麦の麦芽を発酵させたビールのような酒と、ベリーを潰した液を発酵させたワインみたいな酒が主だ。
濾過も十分にしていないので、濁った酒だ。日本酒で言えばドブロクみたいなものを飲んでいる。
蒸留酒とか、あまり強い酒は無いみたいだ。
シャーレのまま、オートクレーブで無菌化処理をしたグルコース培地に、醪に水を加えたものを塗り付け、常温で放置して培養する。
翌日、培地に出来たコロニーを個別分離して、再度培養する。
そうやって、単一種になったコロニーにある酵母菌を観察した。
中には、酵母菌じゃないのも居たけど、それは無視だ。無視。
酵母菌の拡大映像を見ても、女性の助手さんは怯えてはいなかった。
見掛けが可愛いからかな?
見ているうちに、発芽して、分離する様子も見えた。
絵が上手く、私のチームの絵画担当のヨーランダさんも、ゾウリムシでは青くなっていたけど、酵母菌は大丈夫なようで、その姿を書き取ってくれるぐらいだった。
酒の醪の他にも、果物の皮の部分を薄い砂糖水に浸けて、発酵させる実験も実施していた。
こちらも、菌の培養と分離を行なった。
新たな酵母菌を見付けることができた。
そうやって、分離と培養を繰り返して、38種類の酵母を見出した。
それぞれ、酵母1号、酵母2号……と名前を付けた。
ふふふ。やっとパン酵母の探索だよ。
長い戦いだった……。
アイルに頼んで、石英の円筒形の容器を作ってもらった。
その中に、パン生地を入れて、人肌の温度で湯煎する。
膨らんだパン生地のサイズをd6分毎に記録する。
生地の膨らみ具合は、酵母13号、18号、26号が良かった。
発泡酒の原料酵母の2種類と、果物の表面から採れた酵母だった。
あとは、この3種類で実際にパンを作って味の良いのを選ぼう。
3種類の酵母を厨房に持ち込んで、厨房担当の侍女さんたちにパンを作ってもらう。
ケーキ作りの時に使った型を用意してもらったら、厨房に緊張が走った。
いや、今日は、ケーキじゃないよ。
小麦粉と、砂糖とバターとそれぞれの酵母を混ぜて、よく捏ねる。
四半時ほど寝かせて。
空気を抜いて、ケーキ作りのときに使った型に入れて、二次発酵させる。
ふふふ。膨らんできた。
あとは、200℃にしたオーブンで、d7分ほど焼いた。
芳ばしい香りが、厨房に満ちる。
うーん。前世で良く嗅いだ、パンが焼ける匂いだ……。
オーブンから出してもらって、型からパンを抜く。
ふっくらと焼き上がっている。
さて、試食会だね。
3種類の酵母のどれが良いだろう。
厨房担当侍女さんや、助手さん、私、何故かここに居るアイルとカイロスさんの分を切り分けた。
どれも美味しかった。フワフワのパンだ。
微妙に香りが違うんだけど、誰も、甲乙付けられなかったので、日を変えて、3種類を順番に夕食に出してもらうことをお願いした。
お父さんたちに選んでもらっても良いな。
その日から、ナンのようなパンは、フワフワパンに変更になった。
お父さんたちも、気に入ってくれたみたいだ。
今度はバターロールを作ってもらおうかな。