80.オーブンとクッキー
『アイル。オーブン作って。』
ニケが突然、研究室にやってきて日本語で唐突に言う。
『えっ、それ、去年の暮れにもそんな事言っていたけど、クッキー作るんだったら砂糖が必要じゃなかったっけ?』
『砂糖はいいの。それより、フワフワのパンが食べたい。』
この世界のパンは、パンというよりはナンに近い。
窯で焼くので、どうしてもそうなる。
ただ、オレとしては、小麦の風味がして、それなりに美味しいと思っているのだけど……。
『今のパンじゃダメなのか?』
『オーブンの事を考えてたら、フワフワのパンが食べたくなったの。
今のパンもそれなりに美味しいけど、フワフワのパンが食べたいわ。
バターロールも食べたいし、カリカリのフランスパンも良いし……。
デニッシュやイングリッシュマフィンも食べたいわ。』
「オーブン。オーブン。オーブン。オーブン。オーブンブン。」
最後は、踊り出している。
そもそもの話が良く分からないぞ。
落ち着かせてから事情を聞いてみた。
どうやら甜菜と思われる植物を見付けたらしい。
ただ、品種改良が必要で、それには時間が掛る。
領地で、継続的に品種改良をしてもらう必要がある。
そのために、魔法で作った砂糖を使ってクッキーを焼いて、奥様方の心を掴もうと考えたようだ。
クッキーを焼くには、オーブンが必要なのだが、オーブンが有ったらパンが焼ける。そう思ったら、先刻の状況になった。
事情を聞かないと、何が何だか全く分らないじゃないか。
オーブンを作るとなると、電気ヒーターが必要だな……。
『ニケ、それじゃ、ニクロム線のヒーターを作りたいから、ニクロムを作ってくれないか?』
『ん。良いけど、カンタルの方が原料が簡単に手に入るし、抵抗値も耐熱温度も高いわよ。』
『カンタルって?』
『ニクロム線と同じで、ヒータ用の電線の素材よ。ニクロムは文字通りニッケルとクロムの合金。カンタルはクロムと鉄の合金にアルミが少量混ったもの。』
『うん。それで良いから作ってくれないか。』
『厨房に持っていけば良いんだよね?』
『ああ。そうしてくれ。』
それから、オレは領主館の厨房に移動した。何か食べものに関することだと聞いて、俄かに助手さんと騎士さんが嬉しそうだ。
助手さん達と騎士さん達には、ニケのところから素材の運搬を手伝ってもらうように伝えて、厨房に移動する。
少し待っていると、ニケが助手さん達や騎士さん達を引き連れてやってくる。
皆の手には、金属やセラミックのブロックがあった。侍女さんの一人が、白い粉の入った瓶を持っている。
あれは、魔法で作った砂糖かな?随分と有るな。
ニケ達が持ってきたのは、ステンレスのブロック、カンタルのブロック、銅のブロック、酸化マグネシウム、フォレストライトのブロックだった。
ニケにどんな形のオーブンにするかを聞いた。ヒーターの場所、オーブンの容量、蓋の開閉の仕方などの詳細を詰めた。
厨房には、冷蔵庫があるので、そこから、電気を引いた。
竃の脇の空いている場所にステンレス製の台を作って、その上にオーブンを作った。
カンタル線は、ステンレスの鞘の中に収めて、酸化マグネシウムを絶縁材として詰めた。
「で、ニケは、パンの作り方は知っているのか?」
微妙にニケの目が泳いでいるな。
「確か、『ドライイースト』を使っているのを見たことがあるけれど、それは有るのか?」
さらに、ニケの目が泳ぐ。
「すると、肝心な『ドライイースト』が無い状態でパンが食べたいと?」
『あのね。この世界にも酵母があるのは判ってるのよ。
お酒があるんだから。
お酒も酵母が発酵して、アルコールを作るんだから。
でも、それがそのままパンを作るのに使えるとは限らないから、オーブンを使って実際にパンを作ってみないと分らないのよ。』
『ふーん。それで、このオーブンはどうするんだ?
付いてきた侍女さん達や助手さん達は、やたらに期待しているみたいだぞ。』
『いいの。まずは、元々の目的だったクッキーを焼くから。』
そう言うと、ニケは、クッキーの下拵えを厨房侍女さんに指示していく。
クッキーには、アーモンドやクルミを砕いたものなんかも入れている。
あいかわらず、自分で作らないのに、指示だけは上手い。
残ったステンレスで、型抜きを作らされた。
大量に作ったクッキーの元を170℃ぐらいに加熱したオーブンで焼き始める。
厨房の中は、甘い匂いで溢れた。
何回目か焼き上がったところで、匂いに連られて、オレの両親とユリアおばさん達が厨房に顔を出してきた。
「なんか、いい匂いがするじゃないか?また、ニケの新作か?」
「あっ。アウドおじさん。これはクッキーと言うのよ。
夕食の後に出すから期待していてね。
そして、このクッキーを作るのに必要な作物の相談があるのよ。」
「そうか。楽しみにしているぞ。その前に1つだけで良いので、試食させてもらえないか?」
父さんが一つに手を出すと、母さんやユリアおばさんも手を出す。
父さんたちは、口に含んだとたん目を剥いた。
「なんだ、これは!ニケ。夕食後でなくて良いから説明してくれ。」
確かに甘いお菓子の類いは、この世界には無いよな。食べたことがない。
バターと砂糖で味付けられたクッキーは、ものすごいインパクトが有ったみたいだ。
沢山の焼き上がったクッキーとともに、ニケは、執務室に連行されていった。
何故か、オレも巻き込まれた。
グルムおじさんと、収穫担当のブリートさんも呼ばれた。ブリートさんとは、執務室で会う事が多いかもしれない。
グルムおじさんも、ブリートさんもクッキーを食べて目を剥いた。
みんな、こんな顔になるんだな。
「それで、ニケ。このクッキーというものに必要な作物というのは何だ?」
「えーと、色々説明しなきゃなんないんだけど……。」
それからニケは、砂糖の説明をする。
持ってきた白い砂糖を皆に渡す。
「これは、随分と甘いな。これを小麦と練って焼くとクッキーになるのか?」
「ええ。そうよ。ただ、これは魔法で作ったので、今は、魔法を使わないと手に入れられないの。
ただ、これを沢山含むと思われる植物が見付かったのよ。」
そして、助手さんが、持参していた蕪のような植物を皆に見せる。
「これは、豚飼草じゃないですか?」とブリートさん。
「ん。何だ、その豚飼草というのは?」と父さん。
「これは、豚の飼料として使われている草です。豚が好んで食べるので、そんな名前が付いているんですよ。
あちこちで育てられていて、普通に良く見る草です。」とブリートさんが説明する。
「そう、そしてね、この根っこのところにこの砂糖が沢山含まれているのよ。」
「ブリートは、そんな話を聞いたことがあるか?」
「いえ、初耳です。大体、この草はある程度育つと、豚に飼料として与えてしまうので。
種を取る場合には、大きく育てますが、根の部分がどうとかは聞いたことが無いですね。」
「それでね、今のままだと、砂糖はあまり穫れないのよ。
砂糖を穫るのに、適した土壌を調べたり、品種を選択してより沢山砂糖が穫れる植物に改良できないか調べたりしないとならないのよ。」
「そうすると、この砂糖をたくさん得ることが出来るようになるという事ですか?」
とグルムおじさん。
「そうよ。そうしたら、砂糖や砂糖を使った食品が、アトラス領の特産品になるわ。」
それからは、何時もの通りだ。父さんとグルムおじさん、ブリートさんで、具体的な方法が決まった。
担当の文官さんを決めて、領主館の敷地の一角に農業試験場のようなもの設置して品種改良と育成条件の調査をする事になった。
終ったと思ったら、ニケが追加で話を始めた。
「あとね。ゴムの木も見付けたの。」
「えっ。ゴム?」
これはオレが反応してしまった。
ゴムの木があったんだ。
「ん。何だ、そのゴムというのは?」
「今度は、アイルが説明して。」
こっちに振られてしまった。
仕方が無いので、ゴムというのはどういったものか説明した。そして機械の構成部材として、とても重要だということを説明した。
「すると、その木を育てれば、そのゴムというものも取れるのか?」と父さん。
「ええ。そして、これもアトラス領の特産物になるでしょうし、ゴムを使った道具も他領に売れる商品になるかもしれないですね。」
「こうやって聞いていると、植物の調査もした方が良いのではないでしょうか。」とブリートさん。
「もう、大分調べたんですよ。ヨーランダさん。あれを出してちょうだい。」
とニケが応えた。
「これは、このあたりにある植物を調べたものです。」
ニケの助手さんが、紙の束を出してきた。
その紙束には、植物の絵と名前、樹液の用途などが簡単に書かれてあった。
「砂糖を探すのに、植物を調べていったんです。
折角なので、調べた植物を絵に描いて纏めていきました。
これまでd700種類ぐらい調べてあります。
これは、その一部です。」
「その作業でゴムの木も見付かったのよ。
えぇと、ゴムの木は、これだわ。
もう砂糖が得られる植物は見付かったから、この資料を充実させる作業は、今後、領にお願いしたいわ。
私達は他にすることもあるから。」
「この資料は、凄いですね。紙はこんな風にも使えるんですか。」とブリートさんが感心している。
「すると、そのゴムの木も育成条件を調べた方が良いのか?」とグルムおじさんが聞いた。
「それは分らないけど、いろいろ、その植物について調べるのは大切だと思うわね。」とニケが応える。
結局、先刻の農業試験場でゴムの木や、他の有用植物についても研究することになった。
ニケ達が作った図鑑のような資料もその試験場で拡充していくことになった。
この図鑑は、後日、本の形で纏められて、この世界史上初の紙で出来た専門書になった。領地経営に積極的な領主はこぞって入手したがったらしい。