つれないメイドの川上さん
「真緖里お嬢様、朝でございますよ」
川上さんがいつものように、そう言って私を起こしにきた。
いつもどおりのへの字口に、感情をけっして読ませない細っそい目。
レースのカーテン越しに窓からは、いい天気を知らせる笑顔みたいな朝日が射し込んでいる。
ぐずるフリをすると、川上さんは私の思惑どおり、近づいてきて、布団の上から手をかけた。優しく、優しく、私の身体をゆする。
「お嬢様、学校に遅刻しますよ。朝食も逃さずお召し上がりにならないと……」
私は川上さんの手をそっと握った。
「いつもありがとう、川上さん」
そう言いながら、ゆっくりと唇を彼女の手に近づける。
「お礼の口づけを受け取りなさい」
「起きましたね? 真緖里お嬢様」
川上さんの声がフッと笑う。顔は無表情だ。
「では、起こしましたからね? うふふ」
私の手をするりと振りほどいて、シャキシャキした歩き方で部屋から出ていった。
我が家の食事風景は、寂しい。
パパと妹と私の3人だけが、だだっ広い食堂で席を囲む。
会話もない。パパも妹も、いつも黙ってただテレビを見ている。
川上さんは他の部屋を掃除していて、食堂にはいない。
テーブル上には彼女の作ってくれた色とりどりの料理が並ぶ。パンの茶色、オムレツの黄色、ケチャップの赤、サラダの緑色、コーヒーにミルクにマンゴージュース。私たちは彼女の作ってくれた賑やかな朝食を、それはそれはとてもつまらなそうに食べる。
パパは47歳、私は17歳、妹は15歳。
32歳の川上さんはパパと私のちょうど中間で、ママのようとも、お姉ちゃんのようとも、どちらとも言えなかった。
朝食を済ませ、廊下に出ると川上さんが、洗濯籠を持って向こうから歩いてきた。
白いポロシャツにモスグリーンのエプロン姿。
川上さんは美人ではないけど、見ようによっては結構可愛い。でも、いつも服装が地味なのでイマイチパッとしないんだよな。
もっと可愛い格好をさせればたぶん似合うと思うんだけど、いつでも彼女は地味な、こう言って正しいのかどうかはわからないけど、家政婦らしい格好をしている。
それでいてあの高貴な言葉遣いは、たぶん家政婦の自覚がない。家政婦というより、メイドさんだよな。
彼女の脳内では、自分は家政婦というよりも、可愛いメイドになりきっているに違いないと私は思っている。
「お食事はお済みですか? 真緖里お嬢様」
細い目とへの字口で見事に柔らかい笑顔を作ることの出来るひとだ。
「ええ、美味しかったですわ」
私は川上さんの言葉遣いに乗せられ、嬢様口調になった。
「鴨のテリーヌが最高に美味しゅうございました。オレンジソースまで残さずパンに吸わせて頂きましてよ。川上さんのお料理は、本当に絶品ですわ。ずっとお家にいてちょうだいね、川上さん」
朝食に鴨のテリーヌなんてなかった。さすがに悪ノリが過ぎたか、川上さんがクスクスと笑い出した。
「貴族令嬢様、ふざけていると学校に遅れますよ」
妹が食堂の裏扉を開けて廊下に出てきた。
出てくるなり、べそをかいているような声で、言った。
「川上さん……。あのね、ママがいなくなっちゃったの」
中学三年生のくせに子供みたいな喋り方。
川上さんは一瞬、返答に困ったようだったけど、すぐにこう言った。
「小鳥お嬢様。まだ夢の中ですの? 奥様は7年も前に天国へお行きになって、今頃空から貴女がたを見守ってらっしゃいますよ?」
「ちがうの」
小鳥は川上さんのポロシャツの胸に飛び込んだ。
「川上さん、パパと結婚して! あたしのママになって!」
への字口をもっとへの字にして、困ったように、助けを求めるように彼女は私のほうを見た。
私は小鳥がなぜそんなことを言い出したのかわからなかったが、小鳥の気持ちには同感だった。
「小鳥遊!」
うす……石毛先生に後ろから呼び止められ、私は学校の廊下で足を止め、振り向いた。
何事だろう? 私、何もした覚えないけど……。叱られるのだろうか? と思っていると、石毛先生の顔が笑った。
「今回のテスト、かなりよかったな!」
たまたまだった。たまたまヤマを張ってたとこが出てくれただけだ。
でも私はそんなことは言わず、にっこり笑って「ありがとうございます」と言った。
すると石毛先生が気遣うように聞いてくる。
「小鳥遊は父子家庭だったよな? 家の手伝いをしながら勉強もしたのか?」
「あ。家政婦さんがいますんで」
「ああ……。なるほどそういうことか」
うす毛先生は自分のボケを笑い飛ばすように、言った。
「今どき、派遣で家政婦サービスみたいなの、あるんだよな? なるほどなるほど。いや、家事もしながらあの点数が取れたのならよほど苦労したんだろうなと思ってな……」
「そんなに苦労しませんでした」
私は得意顔で言った。
「言うじゃないか! 頼もしいな! 次のテストでも天才っぷりを見せてくれよ? はっはっは」
私に対して心配するところも褒めるところもないとわかると、うす毛先生は手を振って歩いていった。
先生はわかってないな。
パパは川上さんを専属で雇ってるんだよ。
人嫌いの偏屈者で、他人を生活環境内に入れたくないパパが、入れ替わり立ち替わりやってくる派遣の家政婦さんなんか、雇うわけない。
そんなパパが、7年以上も川上さんを雇い続けている。
パパは何も言わないけど、これには絶対、ロマンチックな理由があるのだ。あるに違いないのだ。
私はそう決めつけていた。
「すみません……」
川上さんがパパに頭を下げた。必要以上に申しわけなさそうに。
その横には、いつの間にか大人っぽくなっていた洸樹くんが立っている。
川上さんによく似た細い目で無表情に立っていたが、私と視線が合うと、人懐っこい笑顔をくれた。
「ゆっくりしていきなさい」
そう言うとパパは、代議士の制服『紺スーツ』を羽織り、出掛けていった。日曜日でも政治家は仕事を休まないのだ。まあ、家にいないほうが、私たちはいいけど。
私が川上さんに「ドラクエをやったことがない」と言ったことがあったのだった。すると彼女の一人息子の洸樹くんが、私のために持ってきて、教えてくれると言い出したのだった。
それで今朝は川上さん一人じゃなくて、二人で家にやってきたのだ。もちろん洸樹くんは仕事にではなく、遊びにきたのだが。
「ユルユルしたゲームなんだね」
私はコントローラーを操作しながら、洸樹くんに言った。
「やってれば面白くなりますよ」
洸樹くんはワクワクするような口調で、冒険者の私を見守っていた。
「ゲーム、しないんですか?」
その問いに、私は正直に答えた。
「するけど、偏ってるよ。外人の女の人を剣で斬り殺して、はらわたとか一人でほじくるのが好き」
「残酷なのが好きなの?」
「どうだろ? ストレス溜まってるのかもね」
笑いながら彼の顔を振り向くと、少しだけときめいてしまった。6つも年下の小学生のくせに、どこか余裕のある表情が憎らしい。川上さんに似ているその顔が微笑むと、思わずハグとかしたくなった。
妹がリビングに入ってきた。ソファーに並んで座っている私たちを見ると、珍しく話しかけてくる。
「仲良くやってるねー。洸樹くん、あたしのこと、覚えてる?」
「お久しぶりです、小鳥お嬢様」
洸樹くんはおどけた口調で挨拶した。
「大きくなったねー。4年振り? 前に会った時は確か……小学校低学年だったっけ」
「あんたが今の洸樹くんぐらいの時だったよね」
小鳥と言葉を交わすのは半年振りぐらいな気がした。
いつからだろう、妹と会話をしなくなったのは。特に仲が悪いという自覚もなく、それぞれに自分の世界が出来た頃から、共通の話題がなくなった。それをべつに問題だとも思っていなかった。
川上さんがいつもの白いポロシャツにモスグリーンのエプロン姿でリビングに入ってきた。への字口を少し微笑ませて、私たちを嬉しそうに見つめた。
「私は買い物に行ってくるから、3人で遊んでてね」
さすがに息子がいる前では、いつものメイド口調が消えるようだ。
「ねぇ、洸樹くん」
小鳥が川上さんのほうを見ながら、洸樹くんに話しかけた。
「姉弟、欲しくない? 一人っ子って寂しくない?」
「えっ? 小鳥お嬢様と真緖里お嬢様がぼくのお姉ちゃんになってくれるのですか?」
「うちのパパとあなたのママが結婚したら、あたしたち姉弟になれるよ? それって、かなりよくない?」
「こら、小鳥。川上さん、困ってるよ」
私はドラクエをやりながらそうたしなめたが、私もそれはかなりよい話だよなと思っていた。
「うん! ぼく、お嬢様たちの弟になりたいです!」
「わー、嬉しい! そうなったら小鳥ちゃんって呼んでね!」
はしゃぐ二人を尻目に、私はテレビ画面から目を外すと、いたずらっぽい目をして川上さんに聞いた。
「川上さんは、うちのパパのことを、どう思ってらっしゃいますの?」
「かっ……、からかわないでくださいよ、真緖里お嬢様」
川上さんはそう言って横を向き、明らかに頬を紅くした。
「旦那様には心から感謝しております。母子家庭のわたくしを気遣ってくださり、長年ずっと面倒を見ていただきました。ですけどね……、わたくしは家政婦。そんな感情をもっては……いけないのです」
私は確信した。
川上さんは、パパのことが大好きだ。
川上さんが買い物に出て行くと、私たちは3人で話し合った。
「川上さんとパパが結婚してくれたら、絶対に家の中が明るくなるよね」
私の言葉に小鳥がうなずいた。
「なんかさ、子供の頃みたいに、お姉ちゃんとも遊べるようになる気がする」
「洸樹くんと3人で魚釣り行こうよ」
「わっ。魚釣り、ぼく、上手ですよ?」
「よーし、教えてもらうよ?」
「任せてください!」
かわいい。
こんなかわいい弟、欲しいと思った。
「なんかうちってさ……、小鳥遊家って、女のほうが多いのに『父系家族』みたいだと思わん?」
私がそう言うと、小鳥が深くうなずいた。
「パパがアレだからね。まるで昭和の頑固親父」
「でも川上さんが嫁になってくれたら柔らかくなってくれそう」
「パパの笑顔なんてキモいけど、見たいよね」
「うちのお母さんの目が開いて、キラキラしちゃったりしたら、キモいですよね」
洸樹くんのその言葉に、私も妹も、川上さんのあの糸のような目が開いて星を浮かべるのを想像して、大声を出して笑ってしまった。
「でも、パパは川上さんのこと、どう思ってるんだろう」
私が言うと、小鳥が初耳なことを教えてくれた。
「パパはもう川上さんに気持ちは伝えてるらしいよ。それを川上さんが固く断わってるんだって」
「ねえ、パパ」
珍しくパパと二人きりでカフェに入った時、新聞を広げるパパに私は聞いてみた。
「なんで再婚しないの?」
パパは読んでいる新聞紙の上から目だけ出して、私をうるさそうに見た。
「母親が欲しいのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃ、なんだ」
「小鳥から聞いたよ? 大企業の社長令嬢とか、色んなところから縁談持ちかけられてたって」
「……小鳥がなんでそんなこと知ってるんだ」
「さぁ……。あの子、耳が早いから」
パパは新聞紙を閉じると姿勢を正し、私に向き合ってくれた。
「おまえも知っているだろう? パパは政治家のくせに、一人が好きだ。他人を家に入れることが好きじゃない」
「川上さんのことが好きなんでしょ?」
単刀直入に攻撃した。
いつも偉そうにばっかりしているパパがうろたえて、恋する中学生みたいに鼻の頭を掻いて、少し顔を紅くした。
「これも小鳥から聞いたよ?」
私は身を乗り出す勢いでパパに迫った。
「川上さんにプロポーズしたことがあったんだって? 一度つれなくされたぐらいで諦めちゃだめだよ。押せっ、押していこう!」
「……玲子さんは、長くうちの家政婦をやってくれている。だから私も心を許したというか……そんな気分になってしまっただけなんだよ」
パパが言い訳をした。
「しつこくそんな話を持ち出して、彼女に辞められてしまうと困る。おまえたちが高校を卒業したらと考えていた。家政婦に辞められるとおまえらに迷惑をかけるからな」
「私の見立てでは、川上さんもパパのことが好きだよ。当たって砕けようよ。ダメだっても、川上さんが出て行っちゃっても、私も小鳥ももう家事のできる年だしさ、大丈夫だよ。もう一度、プロポーズしよう!」
「れ……、玲子さんが……家を出て行く……だと?」
凄く嫌な想像をしてしまったようだった。パパの泣きそうな顔なんて初めて見た。
「そんなの耐えられない!」
うつむいて悲しそうにしているパパを前に、私は紅茶を手に、年上の恋人をフッた女子高生みたいな絵になってしまって、相当ばつが悪かった。
夜、小鳥が私の部屋をノックした。
「お姉ちゃん……、一緒に寝ていい?」
小鳥が小学生の頃以来だった。私は微笑むと、ベッドの隣を空け、ぽんぽんと布団を叩いて手招きした。
「あたし……、ママの記憶があんまりないの」
小鳥からそんな話を聞くのは初めてだった。
「どんなひとだったっけ?」
「家にあんまりいないひとだったよ」
私は出来るだけ正確に答えてあげた。
「いつも外で遊び回ってた。ママの社交性がパパの仕事を助けてたみたい。家事はばあちゃんがいっつもやってくれてた。でも、二人とも、一緒に……」
ママとばあちゃんを乗せた自動車が谷底へ落ちていくイメージが暗闇の中に浮かんだ。
あまり家にいないママだったけど、あのひとがいた頃は家の中が明るかった。
よく人が出入りしていて、私たちもばあちゃんに懐いていた。
「小鳥……」
私は妹の顔をまっすぐ見た。
「パパと川上さんをくっつけよう」
「どうやって?」
「パパにもう一度プロポーズさせるんだよ」
「だから、どうやって?」
私は悪代官のようにニヤリと笑った。
「私に策がある」
「真緖里お嬢様、朝でございますよ」
川上さんがいつものように、そう言って私を起こしにきた。
いつもどおりのへの字口に、感情をけっして読ませない細っそい目。
レースのカーテン越しに窓からは、あまり天気がよくないことを知らせる弱い朝日が陰を作っている。
私はむっくりと起き上がると、ニッタリと笑った。
さぁ、お着替えタイムの始まりだ。
食堂へ行くと、もうパパと小鳥は席についている。朝のバラエティー番組をつまらなそうに見つめていた。
「おはよう」
そう言いながら私が入って行くと、パパがいつものように感情のない声で、偉そうな「おはよう」を言った。
「おはよう、お姉ちゃん」
小鳥は笑いを噛み殺していた。
私の後から遅れて川上さんが入ってきた。
とてももじもじしながら、しかしきっと心の中はノリノリだ。
私が教えておいたセリフを、恥ずかしそうに、しかし合格点の可愛い言い方で、パパに言った。
「おはようございます、御主人様……」
パパが持っていた新聞紙をテーブルにパサリと落とした。口がぽかんと開いている。目がうるうると動いている。
黒と白のワンピースドレスと、お揃いのフリルがたっぷりついた白いカチューシャ──私と小鳥が用意した可愛いメイド服を身に包んだ川上玲子ちゃんは、頬を紅くしながら入ってくると、私のリクエストどおりの料理を作りはじめた。
料理をする彼女の姿を、パパが食卓の椅子から呆然とした表情で、何度も振り返っていた。
オムレツの準備はもうしてあったし、冷やご飯もある。あとはそれでチキンライスを作り、卵をフライパンに広げ、それでチキンライスを包んで、ケチャップでアレを書くだけだ。
メイドの川上玲子ちゃんは手早く3人ぶんのオムライスを作ると、食卓に運んできた。私の言いつけどおり、私と小鳥のにはケチャップがかけてある。パパのぶんだけにはかけてない。
パパの隣にくっつくように立つと、手に持ったケチャップを構え、「失礼します」と言った。
シナリオ通りだ。とろけるような赤い文字で可愛いねこの絵を描いた。そして、その周りに、ハートマークをいっぱい散りばめた。
「……では、美味しくなる呪文をかけさせていただきますね」
とても恥ずかしそうに、しかしノリノリの動きで、指でハートマークを作る。
「美味しくなぁ〜れ、萌え萌え……キュンっ!」
「玲子さん!」
パパがメイドの川上玲子ちゃんの手を、両手で包んだ。
「これはどういうことだ!?」
「あっ……! お気に召しませんでしたか? 御主人様……」
これはシナリオにない、彼女のアドリブだ。
「わたくし……、御主人様のお気に入るようにと……」
細い目を潤ませ、頬を紅潮させる彼女に、パパがやられた。
「気に入った!」
パパがパパじゃないようだった。まるで恋する王子だ。
「君を私の妻にしたい! 前に言った通りだ! ……どうか、受け入れてくれないか?」
「わたくし……メイドの身分ですよ?」
「構わない! 私が側に一緒にいてほしい女性は貴女しかいないんだ!」
「御主人様……」
川上さんの細い目が開き、キラキラと星を浮かべた。
「よろしくお願いします」
「キャーーッ!」
私と妹が立ち上がり、手を取り合って喜んだ。
思ったとおりだった。川上さんはメイド服を着せるととんでもなく可愛かった。パパを狂わせるほどに。
これから我が小鳥遊家では、毎日メイド服を着た新しいママが見られることだろう。
新しい弟も出来るし、私も小鳥も安心して大学進学出来る。
家族の空気がなんだかのびのびしはじめたように感じた。