王妃様のハロウィンパーティー1
時刻は午後三時を回ったところ。
今日も今日とて、王城の三階に位置する国王執務室では、百代目のヴィンセント国王ウルが忙しく書類にペンを走らせていた。
広い国王執務室は、窓辺にウルが座る立派な執務机、壁にはぎっしり本が詰まった作り付けの本棚が置かれている。
さらに部屋の真ん中には、大柄な守衛でもゆったりと寛いでお茶を飲める大きなソファーセットが――
「いや、なんで守衛が我が物顔で茶を飲んでいるんだよ」
ウルは書類から顔を上げ、ソファに座って悠々とカップを傾けている相手を睨んだ。
国王付きの守衛ケットは、鬼畜も逃げ出すと評判の面構えで主君を見返し、悪怯れるふうもなく言う。
「恐れながら、陛下。本日私は早番でございますので、午後三時で仕事は終わりです。働き方改革とかいうやつですよ」
「それは結構。仕事終わりに国王の部屋で勝手に茶を淹れて飲んで帰ろうという、その図々しさにはいっそ感心する。だがな、せめて俺の分の茶も淹れろ」
「はあ……」
「おい、心底面倒くさそうな顔をするな」
心底面倒くさそうながらも、ケットはポットを持ってソファから立ち上がった。
ところが、ふいにはっとした顔をしたかと思ったら、いきなりポットを放り出して扉に駆け寄る。
そして、ぎょっとするウルに説明することもなく、いきなりそれを開いた。
「――ウルッ! たいへん……たいへんじゃっ!!」
そのとたん、転がるように国王執務室に駆け込んできて叫んだのは、小さな小さな女の子。艶やかなブロンドの髪と、菫色の瞳をした、それはそれは愛くるしい王妃マイリである。
このちっちゃな王妃に代わってやたらと大きくて重い国王執務室の扉を開くのはケットの役目で、就業時間外でもそれは変わらないらしい。
「俺には茶を淹れるのさえ面倒くさそうな顔をしたくせに」
「恐れながら、陛下。愛くるしい妃殿下のために扉を開けて差し上げることと、野郎に茶を淹れてやることを同列に語られては困ります」
「お前……恐れながらって断ったら、何言ってもいいと思ってるだろ?」
「恐れながら」
などと、ウルがケットと軽口を叩き合っている隙に、マイリは執務机まで駆けてくる。
そうして、黒いオペラシューズを慌ただしく脱ぎ捨てると、椅子に腰掛けたウルの膝によじ登った。
これこの通り、根気強く言い聞かせることでようやく靴を脱いで膝に上がってくれるようになった彼女を見ると、ウルはちょっとした達成感を覚える。
そんな彼の緩みかけた頬を、マイリのちっちゃなふくふくの両手が挟み込み、むぎゅっと鼻頭同士がくっついた。
「あのな! あのな、ウル! たい、へん、なん、じゃっ!!」
「そうかそうか、大変なのか。そりゃ、大変だなー」
あいにく、マイリが大変だと騒いで本当に大変だった試しがないので、ウルは適当に相槌を打ちつつ彼女の両脇の下に手を入れて顔から引き剥がす。
すると、マイリはウルの膝の上に行儀良くおすわりをし、大真面目な顔をして続けた。
「ウル――はろうぃんじゃ」
「ほう、はろうぃん」
なんだそれはと片眉を上げるウルに、マイリはすかさず差し出された紅茶をふうふうしながら説明を始める。
ケットが嬉々として用意したミルクティーだ。
ちなみに、ウルにもついでに紅茶が淹れられた。あくまで、ついでである。
「はろうぃんというのはな、ソマリの前世にあったお祭りらしい。なんでも、よその国の故人をしのぶ風習じゃとか」
「なぜ、よその国の風習だと分かっているものをわざわざ行うんだ?」
「それにかこつけて騒ぎたいだけの連中が世にのさばっていたからだそうじゃ。ぱりぴ、はぜろ、と憎々しげに申しておった」
「よく分からんが、前世のソマリがそのぱりぴとやらを敵視していたことだけは分かった」
はろうぃん――ハロウィンの夜にはあの世とこの世の境がなくなり、死者の魂が家族の元に帰るのだが、それに便乗してやってくる悪霊達を脅かして追い返すために、人々は仮装をしたり魔除けの火を焚いたりして過ごすのだという。
ところが、いつしかそんな宗教的な意味合いよりも、単にお祭りとして楽しまれるものになっていったのだとか。
とはいえ、そもそもヴィンセント王国にはそんな風習はないため、いまいちウルの反応は薄い。
それに焦れたマイリが、彼の膝の上で立ち上がった。
そうして、ピョンピョン跳ねながら言い募る。
とっさにケットが彼女の手からカップを取り上げてくれなかったら、ウルも執務机の上の書類もミルクティーまみれになっているところだった。
「なあ、ウル! わらわ達もはろうぃんをやろう? 仮装と魔よけの火で悪霊を追いはらいつつ、死者のたましいを呼ぼう?」
「いや、待て待て。死者の魂って……‥お前、いったい誰を呼ぶ気だ?」
ちっちゃな踵に腿を踏みしめられるのは、地味に痛い。
顔を顰めるウルに、マイリは興奮を抑え切れない様子で言った。
「そんなの、決まっておろう! 歴代の国王――わらわがかつて契約を結んだ、おぬしの先祖達じゃ。みーんな呼んで、ぱーっと楽しくさわごうぞ!」
「おいおいおい……本気で言ってるのか……?」
魔界はあるし悪魔も実在する世界観ながら、ウルは正直幽霊なんてものの存在は信じてはいない。
だから、そのハロウィンとやらのために死者の魂が帰ってくるなどとは思えないのだが……
「歴代の国王、か……」
ふいにウルの足元で、んあーんとダミ声が上がった。
マイリにくっついてやってきた、猫型悪魔の欠伸の声だ。
ドンロ、と先代ヴィンセント国王の名を付けられた存在の、その父そっくりの灰色の瞳を見たとたん――ウルは、マイリの提案を馬鹿馬鹿しいなどと言えなくなってしまった。
それに、マイリが言い出したら聞かないのはいやというほど知っている。
もしもウルが首を縦に振らずとも、きっとこの可愛らしい王妃にために、侍女頭も侍従長も二つ返事でハロウィンとやらの準備を整えてしまうだろう。
そんなふうに、いろいろと心の中で言い訳をしながら……
「仕方ないな。四歳児の願いも聞いてやれない甲斐性なしだと思われるのも癪だ」
結局ウルは、マイリの望みを叶えてやるのである。
新月間近の欠けゆく三日月が上ったこの夜。
特別なんの謂れもない日にもかかわらず、王城では国王夫妻による私的なパーティーが開かれる。
会場となる大広間のあちこちに、カボチャをくり抜いて作ったランタンが置かれた。
幼い王妃直筆の可愛らしい招待状を受け取った客達は、思い思いの仮装をして大広間に集まり、ハロウィンという馴染みのない催しの飾り付けを物珍しそうに眺めている。
カチカチと規則正しく音を立てる柱時計の短針は、七と八の間を指していた。
「今宵はお招きいただきありがとうございます」
そんな中、マイリのちっちゃな手を恭しく取って、その花びらにような爪の先にキスをしたのは、真っ黒いマントを羽織った壮年の男性だった。
スコット・フェルデン――ヴィンセント王国の現宰相にしてフェルデン公爵家の当主、つまり……
「ごきげんよう、じーじ」
「ごきげんよう、私の可愛いマイリ」
周囲の戸惑いも反対もどこ吹く風で、わずか三歳の孫娘を国王の妃として差し出すことを最終的に決めた人物。ウルの幼馴染ロッツの父親で、前国王の無二の友でもあった。
そんな彼の仮装は、魔王らしい。
黒々とした髪に真っ黒いマントと黒ずくめな格好の中では、マイリとお揃いの菫色の瞳はどこか禍々しくさえ見えた。
若かりし頃、うっかり魔界に迷い込んで魔王の右腕として働いた経験がある、などと噂される彼がすると全然笑えない。
その美しく年齢を重ねた優しげな顔に向かって、マイリは満面の笑みを浮かべて宣った。
「じーじはあいかわらず、腹に一物ありそうなうさんくさい面をしておるのう」
「はっはっは、マイリには敵いませんなぁ」
そんな祖父と孫娘のやりとりを少し離れた場所から眺めて、ウルは顔を引き攣らせる。
一方、彼の向かいでにこにこしているのは、こちらは魔女の仮装らしいフェルデン公爵夫人バーミラ。
大きなとんがり帽子を被った貴婦人は、ウルにも笑顔を向けて口を開いた。
「まあまあ、陛下ったら……随分可愛らしいワンちゃんですこと」
「いや、これは犬ではなくて……」
ウルは肩を竦めてフェルデン公爵夫人の言葉を訂正しようとしたが、そこにすかさずマイリの声が飛ぶ。
「ウル! わらわのイヌ! ばーばを連れてこっちへおいで!」
「あらあら、ワンちゃん。呼ばれておりますわ」
「マイリ、違うだろう? 犬じゃなくてオオカミさんだと言ったよなぁ!?」
魔王と魔女というお揃いの仮装をしたフェルデン公爵夫妻に対し、国王夫妻はマイリが赤い頭巾を被った女の子、ウルに至ってはオオカミの格好をしている。
今宵の衣装を、王妃専属のお針子ソマリに丸投げした結果であった。
マイリのそれは、まるで絵本から抜け出してきたかのような文句なしの愛らしさだ。
赤いワンピースとお揃いのケープの裾をたっぷりのレースで飾り、白いタイツを履いた足元は先がころんと丸い飴色の靴。
腕に提げた籐のかごにはお菓子がたくさん入っていて、マイリはそれを気前よく招待客に配っていた。
それに比べてウルなんて、ふさふさの三角形の耳が付いたカチューシャを頭に載せられ、しっぽを模した飾りをベルトに引っ掛けただけ。明らかに手抜きだった。
とはいえ、ウルはさして仮装を楽しみたいわけではないので構わない。
問題なのは、同じ世界観らしいロッツとケットの格好である。
前者は猟師、後者は赤い頭巾子ちゃんの祖母だった。
「陛下を銃で撃ち殺す役だと聞いたので立候補しました」
「陛下の腹を掻っ捌く役だと聞いたので立候補しました」
「お前達、俺に対する殺意が高すぎるぞ。謀反か? 謀反なのか?」
ウルはうんざりと顔を顰めて幼馴染と守衛を睨む。
ところが、次に現れた人物と顔を合わせたとたん、彼らなんて可愛いものだと思わずにはいられなくなった。
「ごきげんよう――イヌ」
「お、おう……」
犬耳を着けた国王の前に、修道女の格好をした若い女性が立つ。
いかにも清廉とした姿とは裏腹に、まるで呪い殺しそうな凄まじい目でウルを睨むのは、マイリの母アシェラである。
小脇に聖典みたいに書物を抱えていると思ったが、よくよく見ればそれは、いつぞやマイリがはまっていた『世界の拷問具大全集』だった。
さりげなく栞を挟んでいるのは、マイリが試してみたいとはしゃいでいた、ワニのペンチのページ。
それに気付いたとたん、悪霊が逃げ出す前に、ウルの方がしっぽを巻いて逃げ出したい気分になった。
アシェラは隣国ヒンメル王国の貴族出身で、王立学校ではウルとも机を並べて学んだ仲だ。
しかし、娘をわずか三歳で召し上げられてしまったことから、この世で最もウルを恨んでいる人間となった。
とはいえ、そんなことはお構いなしなのがマイリである。
まさに一触即発の様相を呈していたウルと母の間に割り込んで、弾んだ声で言う。
「母よ、わらわのイヌは愛らしかろう? じょうずに〝おて〟もできるんじゃぞ?」
「いや、だから、犬ではないと……ふぐっ」
反射的に、先程のフェルデン公爵夫人の時と同様に訂正しようとしたウルだったが、その口は『世界の拷問具大全集』を押し当てられることによって塞がれた。
ちなみにこの表紙、人皮である。
曲がりなりにもこの国の最高権力者の口を強引に塞いだ王妃の母は、ウルに代わって、まるで聖女のような微笑みを浮かべて口を開いた。
「まあ、マイリちゃん。ちゃんと犬畜生の躾ができて偉いわぁ。ママにも、このイヌが上手にお手をするところを見せてくださるかしら?」
「うむ、よいぞ! 母よ、よーく見ておれ! ――ウル、おて!」
「……」
マイリの期待の眼差しと、これを裏切ったら貴様目に物見せてやると言わんばかりのアシェラの形相に負けてお手をしてしまったことは、黒歴史としてウルの心に深く刻まれた。
今宵のハロウィンパーティーには、王妃の親族であるフェルデン公爵一家の他にも、日頃マイリに仕えている侍女や侍従、その責任者である侍女頭や侍従長も招かれた。
さらに、マイリの胃袋を掴んでいる高齢の料理長の姿もあったが、彼に殺人鬼の仮装――血糊のついたナタを持せた者は罪深い。これ以降、食卓に上った肉が本当に動物の肉なのかどうか、ちょっと食べるのを躊躇してしまうだろう。
ともあれ、ここ数日忙しくて仕事にかかりっきりだったウルは、招待状どころか誰を招くのかまでも全てマイリに任せていた。
そのため、会場の中に思いがけない人物を見つけて、彼はぎょっとする。
「おいおい、なんだって大司祭なんか呼んだんだ? あいつ、お前のじーさんの天敵だぞ」
「安心せい。じーじはコリンのような小物、歯牙にも掛けぬわ」
そうコソコソと言い交わすウルとマイリの視線の先にいたのは、なぜ自分が招かれたのだろうと戸惑い顔の大司祭コリン・ウォーレー。
その隣には彼の末息子で、寝ぼけ顔の司書の姿もあった。
二人とも司祭の正装に加えて、大きなカボチャの被り物をしている。
彼らウォーレー家はフェルデン公爵家とは犬猿の仲として有名で、特に現当主である大司祭コリンは、マイリが王妃となったことが面白くないらしい。
そのため、あれやこれやといちゃもんをつけてはそれを排斥しようとしてきたのだが、当のマイリは平然とした顔で続けた。
「コリンはな、いいやつだぞ。わらわが先代のネコを器にしていた頃、あやつには旨いものをたらふく食わせてもらったからの」
「へえ……」
「〝ネコちゃあん、かぁわいいでちゅねー、でゅふふ〟と、にこにこしておったな」
「それは聞きたくなかった」
そうこうしているうちに招待客が揃ったのか、出入り口の扉が閉じられた。
それを見届けたウルは、やれやれとばかりにワインを呷ろうとする。
ところがそんな彼の口を、しばし待て、とマイリのちっちゃなふくふくの手が塞いだ。
訝しい顔をするウルに、マイリはふふんと得意げに胸を張る。
「おぬしのために、今宵はさぷらいずげすとを呼んでおる」
「さぷらいず……なんだって?」
「イヌにもわかりやすくいうと、特別なおきゃくさま、じゃ」
「お気遣いありがとうよ」
自称異世界転生者であるソマリの影響で、異世界語にはまっているらしいマイリ。
そんなちっちゃな王妃の合図によって、鬼畜面の老婆、もとい赤い頭巾子ちゃんの祖母の格好をしたケットが、出入り口の扉ではなく控室の開く。
そうして現れた人物に、ウルは目を丸くした。
「……母上」
マイリがウルのために用意した〝さぷらいずげすと〟とは、隠居先にいるはずの彼の母だった。