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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
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警視の死

 三日間糠雨が続いて、ロワリエのあちこちで安普請の建物が腐り始めていた。建築業者は許可申請のときには堅い木材を使うといいながら、いざ作る段になると平気でボール紙を使う。その手の建物は長持ちしないし、その手の建物に住む人間も長生きはできない。ジュペ警視が死んだ日、午後一時にドヤ街で粗末な三階建てアパートが崩れて、住民が下敷きになった。瓦礫が幾重にも重なって、なかの人々を助ける術がないように思えたそのとき、ジュペ警視がやってきた。そして、瓦礫の一番下を握り締めると、顔を真っ赤にし血管を腕といわず顔といわず、あらゆるところに浮き立たせて、ついに積み重なった三階分の瓦礫を持ち上げた。そのおかげで二十六歳の女工と五歳の男の子が助かった。二人が外へ無事運び出されると、ジュペ警視はゆっくり下ろして、手を離した。ただ、そのとき胸が変なふうに痛んだらしく、少し顔をしかめて、胸に手を当てた。が、痛みも取れると、ジュペ警視はさほど気にせず、パトロールに戻った。そして、ある木賃宿が脱獄囚をかくまっているというタレコミを元に、木賃宿をめちゃくちゃにぶち壊して、せまい長持ちに隠れていた脱獄囚を引きずり出した。そこまではいつものジュペ警視らしかった。

 警察署に帰ると、逮捕した脱獄囚と木賃宿の親爺を留置所係の警官に引き渡した。すると、また胸が痛み出したらしく、顔をしかめた。すると、突然ジュペ警視は何もない宙空を睨んで、「虫が飛んでないか?」と言った。そして、ジュペ警視にしか見えない虫を追っ払おうとするかのごとく、手を振り上げた瞬間、ジュペ警視の巨体が仰向けに倒れた。まるで大木が倒れたような大きな音がした。驚いたまわりの人々は警官も陳情者も逮捕されたばかりの犯罪者も倒れたジュペ警視のそばに駆け寄った。だが、ごく自然に開かれた目にはもう命の炎は消えていて、ジュペ警視は軽くしかめた顔のまま死んでいた。

 ジュペ警視の葬式は第二十一区の語り草になる盛大なものとなった。区長が葬儀のために特別予算を使い、ロワリエじゅうの警官たちが紺の制服に喪章をつけて参加した。ガラス張りの葬送馬車のなかで棺におさまった制服姿のジュペ警視は愛用の棍棒と一緒にゆっくりとかつてパトロールした道を進んでいった。もちろん、僕とアレットもその葬儀の様子を見に行った。その葬儀には警官や物見高い市民以外に、多数の犯罪者も参加していた。天敵の死を喜び祝杯をあげるのかと思っていたけれど、なんと犯罪者たちは本気でジュペ警視の死を悼んでいた。泥棒、追い剥ぎ、ポン引き、娼婦、故買屋の大物、ギャング団の頭領といった人々が、だ。でも、少し考えれば納得がいった。ジュペ警視はなるほど暴力で犯罪者を容赦なく叩き潰すこと幾多もあり、大勢の犯罪者が彼の棍棒の餌食になっていた。しかし、ジュペ警視は賄賂を要求せず、点数稼ぎのために人をしょっぴくこともしなかったし、最後に娘に会いたいから逮捕を一日待ってくれと頼まれれば、そして、相手がきちんと約束を守ると思えば、実際に待ってくれることもあった。職務中に犯罪者を殴り殺すことはあったが、それは相手がジュペ警視の命を狙ったときに限られた。そうでないときは殺したりせず、半殺しでやめることができた。ジュペ警視は暴力を完璧に制御できる――つまり、僕らのような人間だったのだ。それにジュペ警視の象徴は針槐の棍棒だけではない。きちんとした天秤も持ち合わせていた。相手が札付きの悪でも、シロだと思えば、釈放した。ロワリエじゅうの悪党たちは自分たちが生きるために盗むのと同様に、ジュペ警視は生きるためにしょっぴくのだと理解していた。それにパトリス・ジュペ警視ほどの人物はもう二度と現れないだろうとも思っていた。ジュペ警視の葬式は一人の辣腕警官がこの世を去ったと同時に、一つの時代を代表するものもまた去っていた象徴的な出来事だった。ジュペ警視の後任はありふれた警官で賄賂も取ったし、ジュペ警視ほどの怪力の持ち主でもなく、第二十一区は他の街区同様、ほどよく悪徳に浸っていくことになった。

 ジュペ警視がこうして亡くなったことは本人にとっても良かったと僕は思う。なぜなら、僕らは最悪の時代を継承させられた。戦争の時代を。それを知れば、ジュペ警視はきっと悲しんだだろう。

 心が空っぽのはずの僕とアレットはもうジュペ警視がうちの食堂で窮屈そうに座りながら、グラタンや鱒のムニエルを褒めてくれることがないのだと思うと、改めて空っぽとはどういうことなのかを思い知った。ジュペ警視の死はこれから何度か訪れる、僕という存在の一区切りなのだ。

 とはいっても、僕らはまだ馬鹿な無味乾燥型暗殺者だったから、定期的に〈モンブラン・バレエ教室〉の地下訓練所で顎の下から爪先指先までぴったりと覆った黒の夜間戦闘服を身につけて、短剣と素手による格闘術の稽古をしていたわけだ。ほんとに馬鹿だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 明るい海と巨大な軍艦。人々のお祭り騒ぎと陽光から一転。糠雨降る薄暗い場面へと変わり、警視の最期。好きなキャラさんでしたので哀しいですが、戦争の時代を目の当たりにしなかったのは幸いかもしれませ…
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