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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
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海軍の都

 鋳鉄とガラスの屋根を持つ駅の構内にブレーキの金属音が鳴り響いた。住人の九割が海軍にまつわる仕事についている町、スーヴェルユについたのだ。もっと戦艦を造れとわめき散らす議員を毎期下院に五人送り続ける町であり、子どもたちのほぼ全てが将来は戦艦の艦長や小粋な駆逐艦乗りになりたがる町であり、国一番の海軍士官学校はあるのに、海軍大学はない――スーヴェルユの人々に言わせれば薄汚い政治取引によって、ロワリエにとられてしまったので、海軍大学の話はタブーにされている町。造船所と帆布工場と大砲工場と海兵隊の町。水兵用の酒場と一般人用の酒場が用意されている町(喧嘩の武器に使われないよう、水兵用の酒場では椅子はボルトで床に固定されている)。造られた軍艦の九割が実戦で使われることなく、スクラップになる町。

 ジュペ警視は早速戦艦を見に行こうと言って、軍港市街へ繰り出した。下り坂には進水式で割るシャンパンを専門にあつかう店や小さなモーターを積んだ戦艦の模型が飾られた玩具店が魚屋や八百屋に混じって、ごく自然に営業していた。チェスをしている二人の老人が握る駒はキングが戦艦、ルークが砲台、ポーンが水雷艇、クイーンは最近人気の足の速い巡洋戦艦になっていた。海兵団のキャンバス地のバッグを小粋に背負った水兵たちはそれだけで女の子たちの黄色い声を浴び、少年たちを海の冒険へと駆り立てた。少年たちは共和国の主力戦艦の主砲やボイラーの仕様を空で唱えることができた。戦艦は天地創めたる造物主の最高傑作であり、それを認めないやつは阿呆だという空気が町じゅうにみなぎっていた。

 ただ、今にして思うと、軍艦というのはピストルや短剣よりもずっと多くの人を殺せる武器だ。その武器のことを町を上げて誉めそやし、酔いしれるというのはどうだろう? もし、人口十万を下らない町の全ての住民が毒を塗った短剣と絞殺用のピアノ線を褒め称えていたら、ちょっとパアなんじゃないかなって思う。政府は十万人を収容できる精神病院用監獄を大急ぎで作らなければいけないだろう。

 ところが、軍艦はこうして褒め称えられても、少しも不自然ではない。人間は巨大な鉄の塊が動くというロマンに弱く、この軍艦狂の町もまた例外ではない。

 入り江には既に共和国海軍の主力戦艦『マニフィック』『マジェストゥ』『ルドゥタブル』『イレジスティーブル』『ルヴァンシュ』が雁首を揃えて、その威容を誇っていた。既に色とりどりの旗をかけ、七色の紙のリボンが救命ボートの吊るし金具や副砲の銃身に絡みついていた万艦飾のこれらの軍艦たちは青と紺に塗った塔のような煙突を伸ばし、まわりの海を見物の手漕ぎボートやモーター・ランチが行き来するのを許してやっていた。遊歩桟橋にはポップコーンやベイクド・ピーチを売る店があり、一クー銅貨を入れると三分間覗くことのできる有料望遠鏡には長蛇の列がくっついていて、いらつきとはやくかわれというがなり声が沸騰したココアの表面のようにポツポツと弾けていた。

「ちょっと待っててくれ」

 ジュペ警視は僕とアレットをカキ氷店の前に残していき、十分ほどしてから、嬉しそうな顔をして戻ってきた。ジュペ警視は僕らのために手漕ぎボートを一つ調達してくれたのだ。貸しボートはみな借りられていると思ったので、これにはちょっと驚いた。ひょっとしたらと思って、ボートの持ち主を見た。殴られた痕がないか見てみたが、青あざも噛み合わせが悪くなった顎もない。ジュペ警視は僕らのために、ごく普通にボートを貸して欲しいと交渉したのだ。そういえば、ジュペ警視は言っていた。殴られるだけのことをしたやつだけ殴るのだ、と。

 漕ぎ手は言わずもがなのジュペ警視だった。オールが水に差し込まれ、ぐいと動くたびに明るい緑のガラスのように透けてみる海水に泡を巻き込んだ渦がくるくるまわってボートが大きく水面を滑った。ジュペ警視のボートはまるで魚雷のように一直線に軍艦の横列へと突っ込んでいった。戦艦はどれも胴が膨らんでいて、巨大だった。こんなに大量の鉄が浮かぶ理屈がどうしても理解できない。ただ、スーヴェルユの人々が戦艦や装甲巡洋艦を自慢する心理も分かる気がした。これらの軍艦が敵の海岸へ総攻撃をかければ、それだけで歴史的な大事件だ。そんな大事件を引き起こせるものが手元にある、というのはよい感じに権力欲を満たし、自尊心をくすぐってくれる。もちろん、スーヴェルユの一般市民にこの戦艦の群れに命令する権限のあるものはいない。でも、それでもいいのだ。自分たちの入り江には世界でも一、二を争う強力な艦隊があるだけで満足なのだから。

 青や黄や緑の手漕ぎボートに混じって、パラソルを差した美しい少女がボートから『ルドゥタブル』の右舷に立つ水兵たちに手を振ると、水兵たちがわあっと沸き立ち、口笛をひゅうひゅう吹いていた。そうかと思うと、赤いニスで仕上げた木造のスチーム・ランチが『マニフィック』の左舷に現れた。その艫につけられた金メッキのポールには由緒正しい貴族の紋章を染めた旗がかかっていて、その貴族の若い当主らしいのがいかにも遊び着を着こなして、ほっそりとした紙巻煙草を一服つけていた。その横にはおそらく妹であろう、白い泡のようなドレスを着た美女がいて、勇敢な水兵さんたちのために、と言って、脂を刺した高級ハムとサクランボのパイが入ったバスケットを差し出した。すぐに舷側からロープが飛び、バスケットに結びつけられると、あっという間にバスケットは戦艦へ引っぱり上げられた。九百人近い水兵たちのなかにせいぜい十人前しかないハムとパイを放り込むことの危険について、彼女は知っておくべきだったのかもしれない。水兵たちはまるで子どもみたいにお互いを殴って、蹴って、海に突き落として、ハムとパイを奪い合った。

 こうした面白おかしい元気いっぱいの水兵のうち九割は艦とともに海の藻屑になった。『マニフィック』『マジェストゥ』『ルドゥタブル』『イレジスティーブル』『ルヴァンシュ』のうち戦争を生き残れたのは『マジェストゥ』だけだった。他は砲弾の雨のなか、敵の戦艦を道連れにして沈んでいった。もっとも、主力戦艦を失ったことは検閲され新聞に載らなかったし、そもそも僕は新聞が手に入らない塹壕にいたから、こうしたことは全て戦後に知った。

「わからない」アレットが率直な感想を漏らした。「どうしてこんなに大きな船が必要なの?」

「戦艦ってのは」ジュペ警視が言った。「なんだ、結局使わなかったじゃないかと呆れられるためにつくるんだ」

 それで後世の人間は僕らのことを馬鹿じゃないかと思う。使わないものにおそろしい大金をかけたことを。でも、『マニフィック』『マジェストゥ』『ルドゥタブル』『イレジスティーブル』『ルヴァンシュ』の五隻はその常道を外れた。その主砲は何度も火を吹き、人間を船や建物ごと吹き飛ばしたのだ。

 でも、それはもっと先の話だ。今はまだ平和でスーヴェルユの海は歓声に満ちていた。海軍の士官たちはかっこつけて銀のシガレットケースから煙草を取り出して物憂げな顔をしたり、偏頭痛持ちの艦長が不機嫌な顔をして司令部のケースメントから見物人を睨んだり、水兵たちがどさくさに紛れて人気のない兵曹を袋づめにして海に放り込んだりしていた。こわもて刑事の漕ぐエメラルドのような水の渦のなかで瑠璃色の小魚が楽しそうにくるくるまわっていた。どこを見ても、幸福が約束されているようだった。僕らのような職業的暗殺者や棍棒屋と恐れられる警官にすら、それが約束されているように見えた。

 その日の夕方の汽車で僕らはロワリエに帰った。素晴らしい薔薇色の夕焼けが田舎を赤く染め上げた。溜め池は磨き上げられたガラスのようで、薄くたなびく赤い雲や東の並木の上にかかり始めた白い月を空からきれいに映し取っていた。

 組織からの臨時の仕事はなかった。僕らは相変わらず、感情の乏しい馬鹿な暗殺者だったけど、それでもその日の出来事にまんざらでもない気を起こさせた。もし、ジュペ警視が長生きしていれば、僕はもっとはやく組織から逃げたかもしれない。

 ジュペ警視が死んだのはスーヴェルユの小旅行から帰って三日後のことだった。

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