警視の借りもの
世間一般のイメージを壊すようで恐縮だけど、氷のように冷たく感情を一切表さない暗殺者というのは怜悧な生き物に見えるかも知れない。ただ、実際、その手の暗殺者たちには何にも詰まっていない。何にも詰まっていないから無表情なのだ。怒りなり諦めなりが強くなれば、それは顔に出る。
〈モンブラン・バレエ教室〉で行なわれる秘密のクロスボウ集中合宿が終わり、ランルザック通り一一一番地へ戻ると、そこは恐怖と暴力に支配されていた。内務大臣が吹き飛んだ影響でロワリエ市内全域の警察による締め付けが厳しくなったのだ。そして、第二十一区には悪名高きパトリス・ジュペ警視率いるパトロール隊が針槐の警棒で共和国憲法よりももっと強力な法――野生の法を作り上げていた。それはジャングルのゴリラたちの法であった。
ジュペ警視はゴリラが華奢な女学生に見えるほどのでかい体をしていて、「21」の分署番号が打たれた製帽のひさしの下では藪にらみの目が常にチンピラを探して油断無く光り、その大きな鼻は犯罪の臭いを嗅ぎ分けようとくんくん鳴っていた。ごわごわした口髭と二つに分かれた大きな顎鬚にはもう白いものが混じっていたのに、署の若い警官にも負けないほどのエネルギーが詰まっていた。一度、サーカスの怪力男と力比べをしたことがあった――鋳鉄製の街灯を折り曲げるというものだ。怪力男が半分まで折り曲げたのに対し、ジュペ警視は街灯のてっぺんのランプが地面にくっつくまでへしまげた。無口な警視は目と警棒で物を伝え、どんな要求も相手に承諾させることができた。「二十四時間以内に街から消えろ」とか「ここでヤクを売るんじゃねえ」とか。もし、誰をぶちのめせばいいのかはっきりわかっていれば、太陽を西から昇らせることだって可能だったろう。何十人もの犠牲者の血で黒ずんだ愛用の警棒を彼は曲芸師のようにくるくる回しながら巡回をする。何か悪さをしているときに彼の目にとまったら、ご愁傷様。
内務大臣爆殺事件の後、第二十一区では街じゅうのチンピラや革命家予備軍の貧乏学生、煽動的な労働者がめちゃくちゃに殴られた。ジュペ警視の恐怖統治が始まった三日後、革命家の一人がその支配に挑戦した。ジュペ警視を二連発ピストルで撃ったのだ。二十二口径の弾丸は二発ともジュペ警視の胸にめり込んだが、そんなことはおかまいなしにジュペ警視はその革命家の襟首をつかむと高々と空に持ち上げてから舗道に叩きつけ、内臓が破裂して死ぬまで踏みつけた。ジュペ警視はそのまま自分の足で近所の酒場に行くと、一番きつい火酒を一瓶頼み、麻酔代わりにそれを飲み、残りを消毒のつもりで傷にかけながら、熱したナイフで弾丸を穿り出した。死ぬほど痛かったはずだったが、ジュペ警視は無表情に淡々と声を上げることもなかったという。もし、ジュペ警視が原始時代に生まれていれば、きっと立派な大王になれたことだろう。そして、この現代の、進歩の時代においても、自分の胸から自分の手で弾丸を穿り出せる男にはそれ相応の権威がついてくる。ジュペ警視には副署長の地位が与えられた。彼はもっと多くの警官を自分のパトロール隊に組み込み、より強烈な締め付けを行なった。余所の区で暴徒たちに対応しきれない事態が発生すると、警察用の自動車がジュペ警視を当の現場へ連れて行く。そして、警棒の嵐が街に秩序をもたらすのだ。
ジュペ警視の恐怖政治が始まってから一月と経たないとき、僕はランルザック通り一一一番地の入口で特に何もせず、背中を壁に預けて、夕暮れ空を見上げていた。まるでロワリエの西半分に火でもつけたような真っ赤な夕暮れが空にある雲を一つ残らず真っ赤に染め上げていた。組織の城で夕暮れを見ると、それはオレンジ色をしていて、クランベリーアップルワインみたいにかわいらしい光を振り撒いたものだ。でも、ランルザック一一一番地では夕暮れはいつも真っ赤だ。たぶん工場の煤けた煙が関係しているのだろう。
そのとき、ジュペ警視がやってきた。裏の洗濯工場につながっている路地から、ぬっと姿を現したのだ。僕の視界のほとんどを遮ってしまうほどの巨体だ。
「やあ、坊主」ジュペ警視が言った。「すまんが、熱い湯をはった洗面器を持ってきてくれんか?」
そうたずねる警視の左手に血が伝い降りていた。左腕の袖が裂けて、煤けた夕暮れ色の切り傷が見えている。きっと傷をつけた命知らずは百倍ひどい目にあわされたに違いない。
僕はうなずくと、入口の建物にある門番小屋へと警視を案内した。門番の婆さんはジュペ警視の姿を見て、驚いた。だけど、ジュペ警視がとても丁寧な態度でお湯をはった洗面器を所望すると、婆さんも落ち着いて、シチューを煮るために焚いていた火にヤカンをかけて、お湯をはった洗面器をジュペ警視が肘を置いているテーブルに置いた。ジュペ警視はまず外套、次にチョッキを脱いで、左袖を引きちぎると、ちぎった袖をお湯につけて、それで傷をごしごし拭き始めた。何度か拭き、洗面器が血で真っ赤になったころになると、右手で懐から包帯を取り出して、右手だけで器用にくるくる傷に巻いてしまった。
その様子を見ていた僕にジュペ警視はぼそぼそつぶやくように言った。
「おれみたいな仕事をしていると、人の性は悪だと思いたくなる。実際、そう思ってる同僚は大勢知っているし、それも仕方ないことだとは思うさ。だが、おれにはどうも人の性が悪だとは思えないんだよ。生まれて間もない赤ん坊のどこに悪が存在するんだ? あんな天使みたいな存在に。結局、環境が人を駄目にしちまうのさ」
「それを警棒で何とかするんですか?」
門番の婆さんは僕が警視に反論するのと見ると、血相を変えて隣の部屋に逃げて錠を閉めてしまった。警視がめちゃくちゃに怒ると思ったらしい。僕も言ってから少々後悔した。ナイフは一本、腰の後ろに差しているが、毒は塗っていないし、体格が違いすぎた。正直、この警視を殺せる確率は五つに一つといったところだった。
しかし、それも杞憂に終わった。ジュペ警視は恥ずかしそうに笑いながら、
「なるほど、お前さんは世の中の仕組みってやつを知ってるわけか?」
と、いって僕の髪の毛をくしゃくしゃにしようと手を伸ばしたが、何か思いとどまることがあったのか、伸ばしかけた右手を元の位置――ベルトに親指をひっかけるようにした。
「お前さんみたいな賢い男の髪を子どもにするようにかきまわすのはお前にとっても面白くないだろう」警視は首を横に倒して、軽くポキポキ鳴らした。「たぶん、おれに関する噂は誰かをぶちのめしたとかそんなところだろう。事実だから、まあ、反論はしないさ。だが、別にこっちも好きでぶん殴ってるわけじゃない。殴る必要のあるやつしか殴らん」
「チンピラとか革命家とかですか」
「いや、それだけじゃない。この世界を駄目にするやつ全てを殴るんだ。おれたちのほとんどが気づいていないがな、おれたちの世界はあっちで隠れて震えているような年寄りたちから受け継いだ。だが、それはおれたちのもんじゃないんだ。世界はな、お前さんみたいな未来の世代からの借り物なんだ。だから、おれは借りたものを若い連中の手に返すときはできるだけきれいにして返したい。だから、おれは警棒で人をぶん殴るんだ。この世界を傷つけるやつ全てを」
この意外性は僕の興味を引いた。ただ国家の治安維持機構の一部品として人を殴っていたと思っていたのだけれど、実際には彼にも彼なりの殴るための哲学があった。そして、彼自身はそれをたくさんの人に伝えようとはしない。彼が興味があるのは世界がきちんと次の世代へ受け継がれていくことだけだったのだ。
僕とジュペ警視の付き合いが始まった。そしてのちにアレットも加わり、何度か話していくうちに打ち解けて、ジュペ警視がうちで食事をするようになった。僕とアレットはいつも交代で簡単な食事を作っていたが、独り者のジュペ警視は安レストランでとりあえず何でもいいから食べるといった具合に食事をとっていた。
僕らのアパートのあの小さな食堂でジュペ警視が大きな体を目いっぱい縮ませようと努力して席に着いている姿はかなり笑えたものだったろう(あの当時の僕らは笑うことはなかったが)。その日の食事当番アレットで献立はパン、スープ、それにナスとタラのグラタン。ジュペ警視が僕らのアパートを訪れるときはかならず制服でやってきた。警視はアレットに対して、とても紳士だった。彼女の作る料理を誉め讃えるのだけれど、それも大袈裟にするのではなく、本当に心から美味しいと思っていることを伝えるために控え目な調子の声で言うのだった。アレットはその称讃に対して、ただ一言「どうも」と言うにとどめていた。僕はアレットがひどく内気なんですと警視に説明した。まさか感情の欠落した暗殺者なんですと、いうわけにはいかない。
警視には僕とアレットは腹違いの兄弟で親は名は明かせないが、それなりに地位のある人物であり、僕らはその人の養育費で暮らしていると説明した。警視はまったく世の中は不公平だといわんばかりのやり方で肩をすくめた。ジュペ警視は結婚していたが、妻はまだ若い時分に流行り病にやられて死んでしまっていた。子どもが欲しかったが、子宝には恵まれず結婚生活が終わってしまったのだった。ジュペ警視は再婚するつもりはないようだった。
「もう、おれと結婚したがる女はいないよ」
「どうして?」アレットがたずねた。
「おれが棍棒屋だからさ。お嬢さん」
警視はそう言って、葡萄ジュースを少し飲んだ(彼は自分の胸から弾丸を穿り出すとき以外は一滴も酒を飲まなかった)。口にこそ出さないが、彼は棍棒屋として今ある世界をもっとマシな世界にして次の世代に引き継がせるために結婚を諦めていた。
ジュペ警視が帰った後、僕とアレットは諦めることについていろいろと話した。口を切ったのはアレットだった。
「普通の女の子になるのを諦めないといけない」
「暗殺者は嫌かい?」
「いえ。だって、組織は私たちにいろいろなことを教えてくれた。でも、ときどき、ふと思う。私たちがもし別なふうに生まれていたら、全く別の生き方をしていたんだって」
「環境のせいだって言いたいの?」
「私たちが警視くらいの歳になったとき、あなたはどうやって若い世代に世界を渡す?」
「難しい質問をしてくるね」
「今夜は謎かけで暇をつぶしたい気分なの」
「ふうん」
「で? どうやって渡す?」
「よくもせず、悪くもせず、ただ渡すよ。これで十分?」
このときはまだ知る由もないが、僕らは最悪な形で世界を引き渡される。大砲と爆弾、死者を満載した汽車、黒枠で縁取られた戦死通告と嘘を書き続ける新聞。一つ、幸いなことがあるとするなら、ジュペ警視はそれを見ずに済んだことくらいだ。
なぜなら、そのときにはもう彼は生きていなかったからだ。