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官僚生態学

 僕とアレットはフロックコートのお仕着せ姿でシュレーデルのもとに戻った。僕らは知らなかったが、これがこの小役人をひどく当惑させた。制服を手に入れてきたことはあっぱれだけど、手に入れた時間が短すぎた。シュレーデルの欠点でもあるのだけど、人が優秀な仕事をすると不安になるのだ。そいつが彼を、一日じゅう机にかじりつかせている仕事を横取りするのではないかと。彼は権力を愛したが、それは独裁者とか師団長のような狂ったものではなく、もっと手近な権力を愛した。ある種の書類の筆写を許可されるレベル、そして、何より書類を一から創りあげるレベルの権力。実はシュレーデルには新しい書類をつくる権限がなかった。彼は筆写係だった。同じ事務官房の役人が城の蜂蜜消費量に関する書類をつくり、謄本が欲しいと思ったら、シュレーデルにお呼びがかかる。シュレーデルは書類を受け取り、完璧な写しをつくる。これが彼の幸せの源、権力の一機能なのだ。しかし、そもそも官僚という生き物は創造性に満ちた生き物ではない。一から新しい書類をつくる彼らだって、知らず知らずのうちに書式とか形式といったものに縛られて、書類を作っている。特に以前似たような書類が存在すれば、前例主義の権化たる官僚たちはそこからはみ出ないよう、自身の全てをかけて、不滅の霊魂までかけて書類をつくる。もちろん、シュレーデルはそれが分かっている。彼は縛られ屋だった。規則に、形式に、前例に縛られたくてしょうがなかったのだ。僕は縛られ屋ではなかった。よく似ているが違う。僕には自分のことを考える脳みそがなかった。自分が縛られてるのか、ほっとかれているのかすら、よく分かっていなかった。

 ともあれ、僕とアレットは権力の一機能を担うための制服を手に入れ、身分を手に入れ、そしてこれが一番大事だけど、給料を払ってくれる上役を手に入れた。何にだってご褒美は必要なのだ。たとえ、〈紳士淑女館〉のベッドの上にロワリエ暮らしでため込んだ札束がごろごろ転がしてあったとしても、もらえる給料はもらわねばならない。縁日のくじ引きだって一等賞に豚の丸焼きを用意しないなら、誰が懐の銀貨でくじを買ってくれるのか。

 さて、役所に勤めることになった僕の最初の仕事はある書類を別の事務官房に届けることだった。この事務官房というやつは暗殺訓練施設以外のあらゆるところに存在した。二、三人程度の小部屋から、三百台のタイプライターが終わることのない発狂リズムを刻み続ける大都会的お役所まで、洗濯場で、石の広場で、川沿いの道で、雛壇の街で、まどろっこしい形式と本人直筆サインを求めて、ぎゃあぎゃあわめいていた。これでは犬の糞を踏んづけたと思って、片足立ちになって靴の裏を見たら事務官房がこびりついていた、なんてことが起きてもおかしくない。事務官房には通常、局長と呼ばれる老人がいた。これがそれぞれの事務官房で一番偉い人だ。開いたハサミみたいな形の白いヒゲに禿げ頭で、着ているフロックコートには局長の証であるきらきらした金属片が緑のリボンで胸にぶらさがっている。局長の仕事はハンコを押すことだ。彼は書類を写したり、つくったりしない。彼はハンコを押すことによって(ときどきサインで済まされることもあるが、これには法則性がない)、権力の一機能を担っているのだ。むろん、局長の一機能はシュレーデルや僕らの一機能とは比べ物にならないくらい大きい。座る椅子だって一番ふかふかしている。彼が怒鳴れば、それは神が怒鳴るのと同じであり、彼が発電すれば、それは神の裁きのいかずちである。この締まり屋の、怒りんぼの、常に便秘気味の腹をかかえた、不機嫌な生き物は満足すると言うことを知らない。胃腸の調子がひどくて、油まみれのイワシ一匹食べるのが精いっぱいのくたばり損ないは健康な胃腸を持っているという理由だけで他人を憎む。トイレでうなって、お尻のほうから体が丸ごと裂けるような痛みにぴいぴいになって、出てきたのはウサギの糞ひとつ、なんて日には大変だ。ハンコを押すことを拒み、健康な胃腸を持っている若い事務員たちを何時間も自分の机の前に立たせるという真似を平気でやる。因業じじいなのだ、局長というのは。でも、彼らに勝つのは簡単だ。トイレにいって、すっきり用を足せばいい。それだけできみは局長よりも幸福な生き物になれるのだ。

 役所仕事というのは退屈しない仕事だ。なにせ届けた先々で精神錯乱の見本たる役人根性を特等席で眺められるからだ。どの官房にもシュレーデルのような人がいて、アップルパイの配給に関する書類が届いただけで、自分の後釜が決まり、追い出されるのだと勘違いする輩が多い。そういう連中のうち、第三〇一事務官房に勤めていたド・マロンという筆写係は窓の修理にまつわる書類を持ってきた僕を手招きして、引き出しのなかにしまったリヴォルヴァーを見せてくれた。普通のリヴォルヴァーは六発しか撃てないけど、これは大型で八発も撃てた。つまり、ふたり多く殺せるのだ。もし、あのゲジゲジ(これは第三〇一事務官房の局長のあだ名だ)が自分を追い出すのなら、そのときはこいつが火を噴くぜといい、勘違いした暗殺者みたいにクックックと笑い始めた。その直後、ド・マロンはそのゲジゲジに大声で名を呼ばれ、ド・マロンは慌てて引き出しに銃を隠すと、局長の目の前で直立不動の姿勢を取ったが、まるで棒でも飲み込んだみたいにまっすぐだった。

「ド・マロンくん。ちみは昨日頼んだ8B4-Ⅱ号の書類はまだ筆写しておらんのかね?」

「え? ですが、局長。局長から筆写を命じられた書類は8B4-Ⅲ号の書類でして、そちらならすでに終了して――」

「ド・マロンくん。わしが頼んだのは8B4-Ⅱ号じゃ」

「しかし、局長。わたくしは確かに8B4-Ⅲ号の筆写を局長から頼まれたんです」

「では、なにかね? ちみはこの第三〇一事務官房の局長たるわしが間違えを犯したと言いたいのかね? ん?」

「いえ、そうではなく、これは誤解に過ぎないということで」

「では、ちみはこの第三〇一事務官房の局長たるわしが誤解をしていたというのかね?」

「いえ、その――」

「では、はっきりしよう。ちみとこの第三〇一事務官房の局長たるわしのどちらかが間違いを犯した。どっちが間違ったのかね? ん?」

「それは、きょ――わたくしでございます」

「その通りじゃ。ちみは間違ったのじゃ。その責任を自分の上長にかぶせようとするとは最近の筆写係はなっとらんのじゃ。わしが若かったころ、筆写係は上長から一部の筆写を命じられたら、喜んで十部の筆写を行ったものじゃ。もしかしたら、上長がもっと必要にされるかもしれんという気遣いがあったのじゃ。それがちみときたら、筆写は一枚も仕上がっていない、その責任を上長になすりつけるわで、実になっておらん。それに――」

 僕は衝立で仕切られた小部屋のひとつでそのお説教をきいていた。これは間違いなく射殺が起こる。そう確信した。ド・マロンは自分の机に戻ると、あの普通のリヴォルヴァーよりも二発余分に撃てるリヴォルヴァーを引き出しから取り出して、局長の頭に八発撃ち込むだろう。そう思ったのだけど、ド・マロンは自分の机に戻ると、紙とインクを取り出して、8B4-Ⅱ号書類を作り出した。所詮、小役人は拳銃使いにはなれない。だが、そこに長生きの秘訣がある。もっともその人生の三分の二は陰険な局長の小言をきくことに費やされるのだが。

 第七九事務官房も個性的だった。礼拝堂の屋根のガーゴイルに睨み落されたこの事務室は需品係が全てを握っていた。官房のなかでも結構な地位にある役人が、この打ち上がった漁師の死体みたいに脹れた顔の男におべっかを使い、ペン先を恵んでもらうように受け取るのを見たのだ。需品係というものは本来、倉庫番であり、やってくる人間が適切な書類を持参すれば、黙ってワインなり靴なりを支給しなければいけない。ただ軍隊においては需品係は隊で一番古強者の軍曹が務めることになっている。場合によっては部隊の隊長にこの兵士にはこれくらいの給料を払ったほうがいいとアドヴァイスまでする。ちんこの毛も生えない(汚い言葉遣いは僕が軍隊で覚えたもののひとつだ)若造少尉も頭が上がらない。まあ、つまり第七九事務官房は軍隊なのだ。僕がある書類を持ってきたときもその需品係は下っ端の筆写係で一個分隊をつくり、官房の外周を行進させていた。局長ですら、この部下を呼ぶときは横柄に「きみ」ではなく、丁寧かつ甘ったるい声で「あなた」と呼ばなければ無視されるのだ。いったいどうしてひとりの需品係がここまで権力を持つに至ったのかは謎だ。権力全般に言えることだが、どうやってその権力が手に入ったのか、権力者自身が説明できないことが往々にしてある。あのイカれた師団長たちはゴキブリみたいな連中だったけど、何万人もの部下を自殺突撃に参加させられるほどの権力があった。あの白い口ひげの気取ったステッキを戦場で持ち続けた極道がどうして国じゅうの若者たちをあんなふうに死なせることを許されたのか、いまでもさっぱり分からない。

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