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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
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画家分類四例

 首都ロワリエは大都会だ。大都会の住人というのは自分のポケットのなかの小銭を勘定するのに忙しいから、他人のことを気にしない。僕とアレットという生まれついての暗殺者二人組が郵便馬車に便乗して市内へ堂々と入ってきても誰も気にすることはない。十四歳の少年と少女が中の下クラスのアパートへ行き、家具つきの部屋を借りるために偽名を使っても、そこに三か月分の家賃が前払いされている限り、店子は観察の対象にならない。都会ではみながみな、自分の商売に勤しんでいるんだから、他人の邪魔はするもんじゃないというわけだ。

 僕とアレットが借りた部屋は第二十一区のランルザック通り一一一番地にあった。そこはロワリエ中の場末街によくあるタイプの場所だった。表のランルザック通りから内側へ引っ込むアーチ状の建物があり、アーチの向こうはかなり広めの石敷きの中庭になっている。中庭というよりは小広場といったほうが正確だ。ただ、広場と違うのはガス灯がないことだ。さて、その小広場を建物や菜園が囲う。そこには白いんげん豆のシチューとアブサンを出す小料理屋があり、木の柵で囲われた菜園があり、それに放し飼いにされた鶏の群れがいて、いつも何らかの騒音に満たされていた。僕らが借りたのはジメルマン氏という酒浸りの老人が持っている建物の二階だった。小さな食堂と左右に分かれた小部屋が二つ、台所と洗面台、亜鉛引きの浴槽もある結構な部屋であり、食堂には何の絵も入っていない額縁が一つかかっていた。第二十一区では上等の部類に入る部屋だ。大家のジメルマン氏は一階に住んでいて、いつも中庭に面した窓をカーテンで閉め切っていた。彼が外に出るのはアブサンが切れたときであり、そんなときジメルマン氏はアルコールに食い尽くされた痩身の体を震わせながら中庭を斜めに突っ切って、小料理屋でアブサンを壜いっぱいに入れてもらう。ジメルマン氏の関心事はただこの緑色の、砂糖を入れると白く濁る酒のことに尽きていた。僕とアレットが目の前で共和国大統領の喉を掻き切っても彼の手元にアブサンで満たされたグラスがある限りは見向きもしないだろう。僕らの任務にこれ以上好都合な住処はないように思えた。ただ、ランルザック通り一一一番地の裏手にスチーム式の洗濯工場があることだけが難だった。この工場は四六時中蒸気を吹き上げていて、その白い雲が一一一番地の中庭に流れ込み、耐え難いほどに蒸し暑くなるのだ。洗濯工場は繁盛していて、ロワリエじゅうの洗濯物が馬車で集められて、スチーム洗濯釜に放り込まれていくらしく、しょっちゅう蒸気ホイッスルがやかましく鳴いていた。

 特に任務を受けているわけではないので、僕とアレットは部屋の額に入れる絵を何か探しに行こうと外に出た。堅気の家に絵の入っていない額縁がかかっているわけがない。このままでは不自然だというわけだ。そのつもりでの絵探しだったのだが、意外なことにアレットがひどく絵にこだわりだした。人の殺し方以外に彼女が関心を示すものがあったというのは驚きだ。放し飼いというのも存外悪くない。こうしてただ生きているだけで世の中や知り合いの意外な面が分かるのだから。

 それにしても、ロワリエという都市はとにかく絵描きが多い。ほんの三時間、安アパートを飾る絵を探し歩いただけでそれを思い知った。その後、僕はロワリエじゅうの絵描きたちを研究し分類してみることにした。

 まず絵描きは大きく二つのタイプに分けられる。成功したやつと成功しなかったやつ。成功したやつは画商がぺこぺこ頭を下げて絵を売らせて欲しいとお願いされるのに対し、成功しなかったやつは画商にぺこぺこ頭を下げて絵を売って欲しいと頼み込む。つまり、絵描き分類最大の指標は画商である。つまり、絵描きというのは、描こうとする対象物や芸術に対する態度、そして技術や線と色の取捨選択の巧緻ではなく、画商に対してどんなふうに接しているかによって成功したか否かが分かれてしまうのだ。

 ここで成功したタイプをさらに二つに分けてみる。驚くべきことに成功した絵描き――つまり画伯と崇め奉られる絵描きたちはみな欲求不満とコンプレックスの塊なのだ。まず肖像画で商業的成功をした画家。これは上流階級の寵児となり、サロンに取り上げられ、気だるげに微笑む貴族の奥方だとか法律書に手を置いて顔をしかめる大臣などを描いて法外な画料を荒稼ぎする。その成功はもちろん新聞で、そして画壇でもてはやされる。しかし、所詮、肖像画描きは肖像画描きに過ぎない。つまり、上流階級の御用絵師を気取ってみても、結局自分はパトロンの犬に過ぎないと気づく。画壇のお偉方も画家のコネに敬意を表しているのであって、その画家が作り出す使い古された手法で描かれた肖像画などこれっぽっちも評価するつもりはない。その使い古された手法で自分たちを実物よりも見栄えよく描いてくれるから気に入っているのだ。すると、肖像画で成功した画家は〈本物〉の芸術家に嫉妬と劣等感の入り混じったコンプレックスを抱く。

 成功した画家の二つ目のタイプは真の芸術家。光や印象に対して、躍動する生命力をキャンバスに叩きつけるようにして世界を描いていく画家たちだ。サロンも画壇も文句なしに誉めるし、それなりに収入もいい。しかし、この手の画家は満足することを知らない。自分はたまたまうまい具合に新機軸を手に入れて、画壇の主役にのし上がったが、現在の作風を超えるさらなる進化ができるのか自信がない、つまり才能の枯渇を死ぬほど恐れている。そして、そのうち絵そのものをひどく恐れるようになりリキュールに溺れることでその恐怖を取り除こうとする。あるいはもっと簡単に、自分のこめかみにピストルの銃口を押しつけてバン!

 このように成功した画家たちは決して幸せになれない。では、成功しなかった画家たちは幸せか? とんでもない! 成功した連中よりもひどいことになっている。成功しようがしまいが不幸になるのが絵描きの宿命ならば、人間、幸せになりたいのなら、絵描きにだけはなってはいけない。

 さて、成功しなかったタイプの画家はやはり二つのタイプに分類される。描き散らし型と貯め込み型だ。

 貯め込み型というのは自分の才能を理解しない世間を憎悪しつつも、世間に認められることを渇望するタイプで、彼らから見れば、成功した画家は肖像画タイプだろうが破滅型の真の芸術家だろうが、嫉妬の対象に過ぎない。彼ら貯め込み型は近所の居酒屋にどっしり構えて香料で味をごまかした安ワインをあおっては成功者たちを滅茶苦茶にけなすが、誰も耳を傾けてくれない。あんたの言うとおりだ、大将! なんて威勢のいい声をかけるのは誰でもいいからゴマをすってタダ酒にありつこうとする手合いだ。こんな調子だから、貯め込み型は未公開作品とフラストレーションを溜め込んでいく。ちなみに貯め込み型は描き散らし型の絵描きたちのことはもはや相手にしない。そんなものはカスに過ぎないというのが貯め込み型の自論だ。貯め込み型は自分は早く生まれすぎた、まだ人類はおれという一つの芸術運動を理解できる段階にないのだ。そう夢想し、自分が死んだ後、家主が見つけた絵の数々が有名な画商なり画家なりの目にとまり、市井に埋もれた大変な才能を見出して驚き、そして、彼が貧窮のなかで死んでいったことを悲しむ。おれの名は死んでから上がるのだ。そうに決まってる――皮肉なことに貯め込み型は画家のなかで一番長生きをするタイプだ。長生きするゆえに大変な量の作品を残す。彼の今際の際に家主がやってきて、この作品をどうするんだとたずねられると、画家は全て焼いてくれと頼む。もちろん、この約束は果たされず、彼の死後、作品が世に出ることを見越しての発言だ。ただ、彼はちょっとかっこつけるつもりでそう言ったに過ぎない。ちなみに普段なら店子の言うことなどきいてやるつもりもない意地の悪い家主の大半がこんなときだけは、いや死に際のこんなときだからこそ店子の意思を尊重する。つまり、画家が死んだら、全部きっちり焼却炉に放り込んで焼いてやるのだ。一苦労する何の益もない仕事だが、仕方ない。約束は約束だ。死人の約束をやぶって祟られるのは面白くないというわけだ。

 さて、成功しなかった画家のもう一つは描き散らし型だ。これは文字通り描き散らす。とにかく生活費を稼がねばいけないということで、三流新聞の挿絵だの、即興似顔絵だの、下品な風刺画だの、とにかく描き散らす。描いて描いて描きまくる。先に述べた三タイプの画家たちのように芸術の奴隷となり悩み果てることのない唯一のタイプでもある。彼らの頭にあるのは芸術ではなく、家賃や酒屋の支払い期限であり、画材店へのツケであり、万が一借金を払えなかった際にぶちこまれる債務監獄の冷たい石床のことなのだ。そうならないために描き散らす。絵を安く手に入れようと思う人のほとんどがこの描き散らしタイプの世話になる。描き散らし型の絵描きは河岸通りや小広場、労働者街の安レストランや電話室、精神病院のまわりをうろついている。どこにでもいるのだ。家に帰って居間に敷いた絨毯をめくれば、そこに描き散らし型の絵描きがいることもあるだろう。彼ら描き散らし型はパンとスープの昼食をおごるだけで素早く風景画を描いてくれるのだから、実に手っ取り早い。決してうまくはないけれど、別に飾っても恥ずかしくないくらいの水準を彼らは持っている。

 僕らに絵を売ったのは描き散らし型の絵描きでデスパレイ通りの地下鉄入口のすぐそばに店を広げていた。ガダンヌという三十も終わりが見えてきたくらいの年頃だったが、頭には耳のそばの癖毛を除いて、髪が一切残っていなかった。そのくせ下顎のラインが鬚だらけだった。口髭こそないものの揉み上げから顎に至るまで癖のある鬚が覆っていて、その鬚は胸の大半を覆い隠してしまうほど大きな顎鬚だった。まるで髪の毛になる予定だった材料を全部顎鬚に投入してしまったような顔は大きく作りすぎたトイレとか、さじ加減を間違えたスープといった不成功の風情を感じさせた。ガダンヌは描き散らし型の絵描きだから事実、成功者ではない。顔の印象は彼の社会における地位を如実に表しているわけだ。

 ところで、彼はこうして路上にいるだけで二重の危険を冒していた。まず、路上での販売は規制があり、あらかじめ届けて許可証を交付されなければいけないのだが、それに必要な書類が非常にややこしいので法律関係の代書人に頼まなければいけない。彼ら代書人は厚顔にも書類一枚に二十五レアンを要求するが、居酒屋〈槍騎兵〉にいけば五レアンで偽造許可証が手に入った。なら、二十五レアン払うのは馬鹿のやることだ。ということで、絵描きに限らず露店商はみな偽造許可証を持っている。もう一つの危険はガダンヌが私設馬券屋の集金を手伝っていたことだった。私設馬券屋の胴元たちはロワリエじゅうの賭客から賭け金と賭け札を効率よく集めるのに、ロワリエじゅうにごまんといる絵描きたちを使っていた。賭け客が絵を見に来るふりをして、オードリュースの森にある国営競馬場のレースに賭けるのだ。こうしてガダンヌら木っ端画家は小遣い稼ぎをしていたわけだが、公営競馬にタダ乗りして馬券を売るノミ行為はもちろん犯罪だ。現場を押さえられたら、だいたい百五十から二百レアンの罰金を課される。そして、罰金なんて払えるだけの金があれば、描き散らし型の絵描きなどにはなっていないわけなので、結局、ブタ箱にぶち込まれるのだった。政府は僕らのような職業的暗殺者による暗殺は迷宮入りにして放置するが、私設馬券屋の摘発は徹底的にやる。制服警官の他に憲兵と大蔵省の財務監査官とおとり捜査のための私服刑事まで投入するのだ。そりゃそうだ。僕ら暗殺者が仕事をすれば、この世から変態が一人消えるだけだが、私設馬券屋が一晩営業すれば、それだけ公営競馬場の儲けが横取りされるのだ。政府は多額の出資をして競馬場を作り、施設維持のためにも金を使い、宣伝やら特別なイベントやらにも大枚を投じていた。それを競馬場維持のために一クーだって身銭を切らなかった私設馬券屋が横から賭客をかっさらっていくのだから、これはもうどうあっても撲滅しなければいけない。

 しかし、ガダンヌくらい路上画家としての経験が長いと、露店商管理官や私服刑事を一目で見抜くことができるので、少しでも風向きが怪しいと思えば、すぐにずらかった。このことでガダンヌは同業者たちから尊敬を受けていた。絵の巧さではなく、人を見分ける目の良さによって。ガダンヌのおかげでアーティチョーク売りやブラシ売りたちも早めに切り上げて偽造許可証で挙げられることはなかったし、賭け屋の胴元たちも安心してノミ行為に専念できた。

 さて、肝心の絵なのだが、僕らが、というよりアレットが選んだのは猫が人間のように二本足で立ち、〈間接税支払い受付〉と看板が下がった小窓で紙幣を二、三枚、渋々と税吏に渡している絵だった。僕にはアレットの趣味は分からないが、彼女はこの絵を非常に気に入ったので、まあ、よしとした。それにその絵は正直なところ、ガダンヌが売っている絵のなかでは一番マシなものだった。他の絵はみな下手くそな静物画で、題材も羽根をむしった鶏だのオレンジ色に錆びた蹄鉄だのろくなものじゃなかった。

 妙な話だが、ガダンヌと僕の因縁はこれで終わらない。彼はのちにもっとタチの悪い絵を描くためにとんでもないことをしでかすようになる。

 まあ、それは後の話だ。

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