捨てきれない思い出
それからコルジア人街でのお披露目までの一ヶ月、僕らはほとんどを地下で過ごした。アレット式殺人術鍛錬の開始から三日後、アンジェロが短剣を恐れなくなった。そして、本当に殺す気でアレットに襲いかかるだけの肝が出来上がった。まあ、あっという間にぶちのめされるのだけど。僕のほうは基礎訓練に徹底した。まず、短剣は突く動作よりも元の構えに戻る動作をはやくしなければいけない。突きというのは心臓や肝臓といった部位に致命傷を与えやすいが、傷口が小さい分、神経や筋肉が断絶されず、相手は最後の力を振り絞って反撃をしてくる。こっちは急所を捉えたと油断しているから、この最後の一撃を食らって相打ちになることが多い。だから、突くよりも戻る動作を素早く行えるようにならないといけない。それと首の骨と骨のあいだに的確に刃を突き刺すコツを授けた。耳のすぐ下に刺せば、骨のことを気にせず、左から右へ切り裂ける。アンジェロは着実に暗殺術を向上させていった。
地下暮らしで知り合いが増えた。アレットは夕食を食べてから鍛錬を行おうとしなかった。僕がなぜかとたずね、アンジェロが稽古をつけてほしいと頼んでも、アレットはうなずかなかった。そう、アレットは地下の世界を観察し、見たもの全てを自分のなかに取り込んでいこうとしていたのだ。
たいていはミシェルの演奏する店で夕食を取った(ミシェルは一定の楽団に所属していなかった――というより、地下世界には楽団という概念がなくて、料理屋の店主が店のそばにいる楽士をかき集めて、とにかく演奏させるのが、地下音楽の流儀だったのだ)。ミシェルは相変わらず洗濯板を、まるで一つの大都会がわめき散らしているかのようにギイギイポコポコジャンジャンバンバン鳴かせていた。彼女は作曲もしていた。フルーツ・ブランデー一杯で何でもするという元音楽教師の前で鼻唄を鳴らせば、その音を譜面に落としてくれる。彼女はいろいろな歌を作った。僕がいいなと思ったのは〈ポルトードマングのアイス売り〉で、これはコルネットとバイオリン(あるいはクラリネット)のアンサンブルに、金属の指ぬきで洗濯板を軽やかに擦って、氷を掻く音のリズムを添える代物だった。華やかな音色にはミシェルのポルトードマングへの思慕が溢れんばかりになっていた。彼女にとって、その都市の名はベランダから香り高い花の蔓がこぼれ落ちる常夏の市街地や緩やかな河下りの蒸気船のどんちゃんパーティを意味する。
アレットとミシェルを比べると、同じ少女とは思えない。違うのは肌の色ではない。片や美少年に暗殺術を叩き込み、片やロワリエを出て音楽的成功を夢見る。二人の人生を分けた、その分水嶺はどこなのだろうかと今でも考えることがある。分からないが、そこにあるのは間違いない。それが片や人殺し、片や音楽家へと道を引いたのだ。
ミシェルはこっちで一曲弾いて、次はあっちと言った具合に奔放な黒猫のごとく店をはしごしていた。そのたびに僕らもついてくるように手をふるのだ。既にビールを三杯ほど飲んで、ほろ酔いのミシェルは嵯国人の阿片窟で紫檀に弦を二本張った不思議な楽器とセッションし、いつもの牡蠣料理屋で再演不可能の即興曲を二つばかり演奏し、十字路で知り合いの楽士と偶然鉢合わせして、何曲かやった。楽士たちはみな僕らより二つ三つ年上の若者たちで、歩兵連隊兵舎からかっぱらったコルネットや果物箱でつくったギターなど逞しさを感じさせる楽器を思いっきり鳴らした。ただ、彼らは不注意にも帽子を逆さまにして、そばに置くことを忘れてしまった。そのため、通行人がコインを投げず、タダ働きになってしまったのだ。他の地下世界の住人と違って、目的を持った貯金を行っているミシェルはこのことにすっかり腹を立てて、少年たちのマヌケさ加減をなじった。
「このグズ! ド阿呆! てめえら、そろって馬鹿ばっかし!」
「んだと、売女! てめえはご立派な脳みそをお持ちなのかよ? 黙って股の毛じらみでもむしりとってりゃいいんだ!」
「ふにゃちん野郎!」
「淫売!」
暗殺術を少しずつ会得しつつあるアンジェロもこの手の言い合いには相変わらず赤面した。コルジア人ギャングにはルールがあって、それはポン引きやヒモを正式なメンバーに迎えないというものがあった。女に稼がせるような男は男じゃないというわけだ。その女性に関する独特の視点がアンジェロの女性免疫の無さに関係しているような気がした。
楽士たちと喧嘩別れした後、僕はミシェルにたずねた。
「妹たちはどうしたの?」
「あの子たちはできるだけステージに立たせないようにしてる。演奏するのは人手がいるときだけ。だって、あたしの演奏する場所、客がみんないかれてるもん。危ない目にはあわせられないよ。さあ、次は〈シャルパンティエ〉だ」
〈シャルパンティエ〉は海老のフライのサンドイッチと卵を練りこんだ黄色いヌードル入りのチキン・スープを出すレストランだった。地下世界の歓楽街では最高級に属するレストランで、内装は戦列艦の内部のように板張りになっていて、ハンモックや真水桶、本物の大砲が砲門に据えつけられ、描かれた海原に浮かぶ敵艦に向けられていた。たぶん〈シャルパンティエ〉という人は海賊か提督か、あるいはそのどちらかだったのだろう。ただ、それに文句があるわけではない。メニューは豊富だし、コックの腕も良かった(コックは地上の最高級ホテルでコックをしていたが、炒めた玉ねぎにつけた牛肉にどのソースを使うかでコック長と言い争いになって、相手を刺してしまい、地下に逃げたのだ)。ミシェルはうまい具合に〈シャルパンティエ〉に雇われ、フィドル弾き相手に海賊もびっくりの調子を刻んだ。
十曲ぶっ通しで演奏したミシェルが戻ってくると、〈シャルパンティエ〉の白人店主からラム酒が一杯ふるまわれた。僕らはサンドイッチに噛みついていた。
「そのめちゃくちゃな音楽はどこで覚えたの?」
「さあ。物心ついたときにはもう洗濯板をガリガリこすってた。みんなそうなんだよ。気づいたら楽器とめぐり合って、相思相愛。こいつで稼ごうって気になってたわけ。あんたら、お坊っちゃんお嬢ちゃんにだって、そういうのがあると思うよ。土地に金をつぎ込むとか、刺繍とか」
「そうかな?」
「そうだって。あんたたちにだって、きっとこれって思えるものにめぐり合えるさ。そんなものないと思ってるなら、それはまだめぐり合ってないだけの話。そういや、その後、銃は手に入れた?」
「ううん。手に入れてないよ」
「ホント? まあ、無しで済むなら、それでいいけどさ。ところで、そっちの白ナマズ、一言もしゃべんないけど、なんかの病気?」
アンジェロのことだった。その日もみっちりしごかれて、話す元気がないのだった。サンドイッチだって食べるために小さな口を目いっぱい開けようとするのだけど歯が立たず、仕方なくパンをめくって、一つずつ海老のフライをかじり、パンを千切っていた。
ミシェルは元気になるドリンクをおごるといって、カウンターのほうへ引返していった。ミシェルが棚の一番上の壜の並びを指差した。それは薄い真四角の小さなガラス壜に緑、茶、黄色、マホガニー色といった具合のソースがたっぷり入っていて、コルク栓には一から九まで数字が焼印されていた。ミシェルは九が焼印された緑色のソースの壜を選び、小銭を置いて生卵の黄身を落としたグラスを持って去ろうとすると、店主が念を押すように言ってきた。
「三滴以上は入れるな。刺激が強すぎるからな。絶対に三滴以上は入れるなよ」
ミシェルは大さじ一杯入れた。そして、アンジェロの鼻をつまむと、口を開けさせ、緑のソースが絡んだ黄身をするんと流し込んだ。人間が蒸気機関車のような叫び声を上げるのを初めてきいた。店主が大声で「だから、三滴以上入れるなって言ったんだ!」と怒鳴っていた。アンジェロは椅子から転がり落ちて、仰向けに引っくり返り、目をパッチリ見開いたまま小刻みに痙攣していた。あのときはそれなりに慌てたけれど、今、思い出すと笑える話だ。僕の人生はどちらかといえば、辛いことのほうが多かったけど、いや辛いことばかりでいいことなんてほとんどなかったけど、そんななかでも笑えることや不思議なことが少しだけど存在した。いくつかは僕にまだきちんとした感情と物事を捉える勘が身についてないうちに起きた出来事で、冷たい無感情な僕はそれに気づかなかった。でも、今の僕はこうして思い出すだけで、何だかあのときに、それも今の状態の僕のままであのときに戻ったような気分になる。船に似せた内装のレストランで天使のような美少年がすぐそばで仰向けにぶっ倒れ、黒人の少女が世界で一番赤い舌をペロッと出して、茶目っ気のある顔をしていて……。悲しい出来事も多かったけど、それでも過去を捨てきれないのはそういう思い出のせいだろう。これは僕だけの話ではなく、ほとんどの人がそうだと思う。




