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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
16/48

地下への誘い

 さて、アンジェロの訓練はいつから始めるのか? なんと、今夜からだと言ってきた。今夜、アンリの運転する車でランルザック通り一一一番地へアンジェロを連れて帰れというのだ。ただ空きっ腹のままではかわいそうだというので、ボレロは僕らにコルジア料理をふるまった。堅焼きパン、ウナギの稚魚のガーリックオイル煮、アーティチョークとチキンのソテー、葡萄ジュースの食事は実においしかった。そのうち、支部長とボレロがコルジア語で内輪の話を始めたので、僕らは帰ることにした。外ではアンリが待っていた。雨は上がっていたが、雲が星を隠しているは相変わらずで、コルジア人街は闇に沈んでいた。アンリの運転で来た道を戻り、腐りかけの骨をくわえた犬を轢きかけ、大洋に孤立した島々のような居酒屋の灯のそばを通り過ぎ、第二十一区へと帰ってきた。カービン銃を鞍の銃嚢に入れた騎馬憲兵がガス灯のある通りを巡回し、小さな銀行の鎧戸の前では国営工場の帽子をかぶった旋盤工たちが粗悪な酒をゲーゲーもどしていた。

 アンジェロは目を伏せて、座席に座っていた。ランルザック通り一一一番地で車を降りたときも、僕とアレットが家主のジメルマン氏に店子が増えることを教えて、向こう一ヶ月分の家賃を払っているときも、そして、僕らの家でアンジェロが使うことになるであろうナイフと同型のものを見せたときも目を伏せていた。

 そのとき、アンジェロの魂はどんなに震えていただろう? 表情らしいものがない自分と同い年の少年と少女から人殺しの技術を学ぶというのは、滅多にあることではない。いや、まず、ありえない。だから、むしろ困っているのは僕とアレットのほうだ。いったい、どうやって暗殺術の稽古をつけようか? ただ、取り押さえられた男の喉を切り裂くだけなら、別に問題ないのだけれど、アンジェロは普通の暗殺者が受ける訓練を課してほしいと言い出した。また、面倒なことを言うなあと思ったけど、アンジェロにしてみれば、自分が冷酷になればなるほど、父親に認められるわけで必死だったのだ。

 でも、訓練する場所は? カリキュラムはどう組んだらいいんだ? まさか素人のアンジェロを〈モンブラン・バレエ教室〉へ連れて行くわけにもいかない。僕らの暗殺術講座は初っ端から壁にぶち当たった。

 翌朝、僕とアレット、そしてアンジェロはとにかく場所を探すことにした。三人の子どもたちが殺し合いの特訓をしていても、誰にも見つからずに済む場所だ。公園の外れとかほっとかれた畑のなかとか。すると、困ったときはいつだってアレットはとにかく外に出て、街をうろつこうと勧めてくる。まるで、外を歩けば、全てをスマートに解決してくれる方法を書いたメモが空から降ってくるかもしれないと言いたげに。どのみち朝食もとらないといけない。朝靄のかかる十月のはやい時間、中央市場へつながる通りはみな鶏や野菜を持ち込む百姓たちの荷馬車でいっぱいになる。第二十一区の外れにも広大な田畑とピクルスを作る小屋がたくさんあった。高台へ登れば、まばらな枝垣と貧相な門で土地を区切った畑を何枚も見つけることができる。そのまわりには貧乏人の洗濯物がひっかかった建物を数軒ごとに壁で囲った居住区があった。あの手の居住区の人間はああやってまわりの畑を見えないようにして、自分たちは農民ではない、都市の住人、市民なのだと自分に言い聞かせていた。もちろん、第二区の邸宅街に住んでいる人々から見れば、どちらも貧乏人に過ぎない。銀行家や大臣、缶入り粉末ココアの販売で百万長者になった偉い人たちから見れば、二十一区もコルジア人街も大差はないのだ。

 空きっ腹を抱えた僕らはじめっとした二棟続きの長屋が並ぶ労働者街を歩いていた。石切り場や靴工場、鉄工所へ向かう労働者たちが長屋のドアから次々と現れた。つぶれた帽子と古新聞を詰めた木靴を履いた不機嫌な男たちは鎧戸と洗濯物にまとわりつかれた通りをのそのそと歩いていく。全員がナイフを持ち歩いてるが、それは昼飯のパンを長くもたせるためにかなり薄く切るときに使うものであって、人を刺したりするものではない。そのナイフが気に入らない上司の喉仏をえぐるのは一年に一度あるかないかだ。そうした物騒な事件は決まって、国営労働作業場の石切り場で起こるのだけど、というのも、この石切り場は重労働を課すくせに給料は一日一レアン二十クーとえらく低く、ここで働くのは他の場所で雇われない懲役帰りや流刑地から戻ってきた男たちだったからだ。ただ労働者街には一日一レアンでこき使われた人間でも利用できるコーヒーの立ち飲み場があり、安物の葉巻を売る店もある。葉巻を見て、僕はいいことを思いついた。ロワリエの安葉巻は地下の葉巻工場で孤児たちが一本百分の一クーで作っている。ロワリエの地下は迷路のようになっていて、建物の半地下の扉や地下の通り抜け通路の横に開いた穴からロワリエの地下世界へとゆくことができる。そこには地下に暮らす人々の料理屋や洗濯屋、木賃宿、賭場、阿片窟、それに家禽置き場がある。お金さえ出せば、何もきかずに地下室を貸す地下家主たちの存在もきいたことがある。都市伝説だと一顧だにしない人もいれば、実際に行ったことがあると証言する人間もいる。しかし、ロワリエという街では金持ちはみな地上に住む。少しでも多くの給金を稼ぎ、ばれないように会社の備品を盗んで、金物店に売りつけることを考えている「普通の人々」は地下世界などに必要のないものだと冷たく切り捨てていて、地下世界に興味を持つ市民は珍しいものに目がない好事家くらいのものだ。

「でも、どうやってそんな地下の入口を見つけるの?」アレットがたずねた。

 それも考えてあった。説明する前に話を脱線させよう。ロワリエは大都市で百万人くらいの人口を誇る。が、そのなかには結構な数の外国人が住んでいる。コルジア人、植民地から連れてこられた黒人、その他にも東の彼方から強制労働のために連れてこられた黄色い顔にアーモンド形の目をした嵯国人たち。この黒人と嵯国人というのが、ミソだ。当時のロワリエ市長は懐古主義的な人間で、あまり大きな声では言えないが、共和国の前の王政時代を懐かしむような人物だった。シャニヨンという老人でもうじき七十になる、リューマチと腰の痛みに、目の霞みといった具合のこの老いぼれ没落貴族は自分では見たことのない百年以上前のロワリエの景色を懐かしんだ。それがロマンチックだというのだ。見たこともない景色を懐かしみロマンチックだなんて言うのは、居もしない恋人の服を頭のなかで一枚ずつ脱がせて乳繰り合う頭のいかれたやつのすることだ。そして、頭のいかれたシャニヨン市長はコルジア人や黒人、嵯国人が彼のロワリエに住むことに腹を立てていた。コルジア人はギリギリ我慢するとしても、嵯国人と黒人は除けてやろうと悪巧みをしていたらしい。市長に言わせれば、これは一種の文化戦争であり(また戦争なんて言葉を軽々しく使う)、敵がロワリエの文化を侵すならば、こちらも文化を攻撃するべきだとのたもうた。そして、攻撃対象に選ばれたのが、黒人の音楽と嵯国人の劇だった。ロワリエ市内で黒人音楽と嵯国劇をすることを禁じる法令が出された。

 ここまで言えばわかるだろう。黒人は音楽なしに暮らせないし、嵯国人は祖国の様式にのっとった劇がなくなると切なくなって死んでしまう。そんなわけで黒人の楽士と嵯国人の役者たちは文字通り地下に潜った。というのも、地下の世界に住む人々は偏屈な世捨て人が多い。世間に認められない画家や彫刻家、太陽の光は致死性の皮膚病をもたらすと信じて脅えきった健康マニアなど地面でうまくやっていけなかった人たちだ。そこに黒人音楽をきかせる酒場と嵯国人の劇場がつくられることになったわけだ。

 だから、地下世界を探すには耳を澄ませればいい。黒人独特のはちゃめちゃな音楽や嵯国人の劇で鳴らされる銅鑼の音を探すのだ。その音が地面から聞こえるところに地下世界があり、そのそばに出入り口がある。

 アレットは僕の言うことを澄ましてきいていたが、実際は地下世界を見たくてしょうがなかっただろう。僕らは朝食をとることも忘れて、庶民街の中庭や放置された工事現場、石が凹んだ道で四つん這いになり、片耳を地面にくっつけた。昼ごろになると、さすがにお腹が空いてきた。竜騎兵の兜をかざったパン屋でカタリーナ・チーズと薄切りの冷肉を挟んだサンドイッチを買って食べると、また地下世界への入口を探して、二十一区を彷徨った。ところが、なかなか出くわさない。聞こえてくるのは屋台の物売りの怒鳴るような呼び声や工場の機械が呻る音、馬の蹄の音、木立から鳩の飛び立つ音、汽車の汽笛の甲高いわめき声、手押し車が不ぞろいの石の道を進む音。

 見事な夕焼けが巨大な泡の城のような雲を真っ赤に染め上げて夏の再来のような夕映えの景色を見せるころには僕らは第二十一区の北を走るイザベル通りにいた。足は棒のようで、僕は地下世界をあきらめて、〈モンブラン・バレエ教室〉でアンジェロを訓練することを提案したが、アレットは組織の構成員以外を訓練所にいれることはできないといい、頑固に地下世界の捜索続行を主張した。都市の新たな側面を見たいという欲望はまだアレットのなかで確かな形はとっていないが、それでも無意識にアレットの言動や態度が都市と社会の観察のために使われている。そんなこと僕はおろか多感なアンジェロだって気づかない。一方、僕らのお腹は歩き回ったせいでいつもよりもひどく空いていた。イザベル通りは王政時代は王侯貴族の別荘地として知られていたが、今の世の中になると、貴族が没落し、邸宅はみな商人の手に渡った。最初の三十年は住んでいたが、あちこちが古びてスレート屋根から雨漏りがして改修を必要とするようになると、商人たちは邸宅の維持費を出すかわりに庭園に粗末な小屋を作りまくり、邸宅のなかも舞踏室やサロンの広間を薄いモミ材の板や衝立で区切って、各館二百くらいの小部屋に分けて貧乏人向けの木賃宿にしてしまった。これが大成功すると、イザベル通りの地主たちはみな右へならえで自分の手持ちの邸宅を切り刻んで、小出しに貸して金を取った。住人は日雇い労働者やヒモ、売春婦、物乞い、チンピラ、未亡人とその子どもたちといった具合で、そうした小部屋のなかには密造酒の蒸留所や売春宿、一クー出せば屑肉と臓物スープがもらえるスープ窟になったものもあった。庭にひしめいている安普請のボール紙小屋が道へ迫り出して、僕らはいつの間にか貧民街の迷路へと迷い込んでいた。風が吹くたびにギシギシなる小屋のあいだには両肩が壁に擦れるほど狭い道がいくつも走っていて、薄暗い穴倉のような小屋から呻き声や肺病みの咳、パチパチと爆ぜる油の音が聞こえてくる。臭いはひどいもので汚物と皮脂と時おり市の衛生職員が無差別にばらまく石灰酸の臭いに満ちている。僕らは少しでも広い場所に出ようとあちこち歩いてようやくイザベル通りの混雑から解放された。そこは小さな丘だった。門は壊れていて、なかは背丈ほどの雑草がぼうぼうに生えていた。入ってみて、アンジェロが墓石にぶつかって転がりかけて、そこが墓地であることがわかった。樹々に囲まれた黒い陰のなかには教会があるようだった。蔓草に締め上げられ最後の一滴まで搾られたその石造りの教会は床が取っ払ってあって、地下のワイン貯蔵庫へかなり頑丈な樫づくりの梯子がかけてあった。おそらくイザベル通りの住人がワインとお金になりそうな石の棺をかっぱらった跡だろう。その暗がりの大穴から銅鑼の遠鳴りが聞こえなければ、そのまま回れ右して二度とイザベル通りには来なかったところだ。銅鑼の音に気づいたのはアレットだった。

「リュジス」アレットが言った。「銅鑼の音よ」

「みたいだね」いくら夜目が利くとは言っても、星一つない地下の通路を歩けるほど目がいいわけではない。「でも、この手の道には追い剥ぎがいるもんじゃないかな?」

「別に殺せば済む話でしょ?」

「十人くらいで待ち伏せてるかも」

「数をたのみに待ち伏せするやつなんて、二人も殺せば怖気づいて逃げていくわ。行きましょう、リュジス」

 おかしい。アレットの都市観察を始める際のレトリックはいつだって謎だ。僕は冷静な暗殺者の考え方で、この手のトンネルは敬遠すべきだと主張すると、アレットはより冷静でさらに冷酷でもある暗殺者のロジックで僕を論破する。ところがアレットの動機は暗殺者にはらしくない、秘められた欲求によるものなのだ。人を、都市を、世界のルールを観察したいという欲求。組織が要求する冷酷で暗殺以外には何の関心も持たない暗殺者としては僕よりもアレットのほうがそう見えるし、そうきこえることを口にしているのに、いつの間にか人間らしさ、つまり何かを欲しがるということをアレットは叶えてしまっているのだ。これは大自然の采配が下した大いなる謎の一つだ。

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