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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
14/48

アンジェロ・チェザリーノ

 アンリはぼくらをコルジア人街へと連れてきた。暗殺術を仕込めといわれたその相手がよもやコルジア人とは! これは何かのブラックジョークなのかな? コルジア人。余所者には理解できない強烈かつ早口な方言。何世代も前に受けた侮辱に対する復讐の連綿たる系譜を短剣と二連式散弾銃で受け継ぐその生き様。料理には何にでもオリーブオイルをたっぷりかけないと気が済まず、マヨネーズのなかにニンニクが入っていないとそれだけでナイフを抜く危険な男たち。いつも身内に不幸があるから黒いスカーフと黒いドレスを着ている女たち。コルジア島は一応、リアンソア共和国の領土だけれども、実際は全くの外国だ。普通のリアンソア人なら笑い事で済まされることが、コルジア人では殺しの動機になる。誰かの妻を寝取れば、そいつとそいつの息子とそいつの孫、いれば曾孫玄孫まで殺す大義名分になる。どこの都市でもコルジア人はコルジア人同士でかたまって移民街を形成する。排他的なコミュニティが彼らのお好みで、そんなに余所者が嫌ならコルジア島から出なければいいと思うのだけど、コルジア島そのものがどうしようもないほど貧乏で食べるものもない有り様なのだ。

 そのコルジア人たちの移民街に僕らは雨の夜、自動車で乗りつけたわけだ。高級な自動車に余所者の少年と少女が乗っていて、運転手はずぶ濡れ。猜疑心のかたまりみたいなコルジア人には僕らはどう見えるだろう?

 コルジア人街にはまだガス灯がなく、真っ暗だった。居酒屋の戸口が前や後ろにぽつんぽつんとあって、それ以外の光は見えなかった。雨は暗闇のなかで激しく泥の道を打っていた。居酒屋の男たちは雨の当たらない部屋のなかからゆっくり道を通り過ぎる僕らに疑いの視線を向けていた。男はみなカラーのないシャツによれよれの黒の背広をつけ、コーデュロイのズボンをはいて、鳥打帽をかぶっていた。口髭の端を噛みながら、まるで山賊が獲物を物色するような目を向ける連中もいた。そういえば、コルジア島は山賊が出ることで有名な島だ。金持ちのボンボンが軽いつもりで遊びに行き、山賊に捕まって身代金を請求されたことがあった。父親が少しでも値切る素振りを見せると、ボンボンの切り落とされた耳が送られたそうだ。

 じゃあ、はやく通り過ぎてほしいもんだ。誘拐されたら大変だもんね。僕らのために身代金を用立てる人なんていないんだから。誘拐されたら、高級ハムみたいにじわじわ薄切りにされるに違いない。

 しかし、アンリはコルジア人街を出るかわりに、さらに横町へと曲がっていった。追い剥ぎと誘拐魔がいるかもしれない危険な道だ。狭い道には石が敷かれていなくて、空っぽの屋台や手押し車が歩道を埋めていた。曲がり角の隅には馬糞や野菜屑、ネズミの死骸が山となっていた。そのゴミの山は腐敗の過程で危険なバクテリアを味方につけ、人間社会にチフスとコレラの恐怖をばら撒く機会を狙っていた。貸し馬車屋の厩舎の前ではワインの壜に蝋燭を立てて〈銀行〉をやっている連中がいた。僕らの車が近づくと、ふっと蝋燭が吹き消され、全てが闇のなかに沈んだ。僕らが通り過ぎてからだいぶ経ってまた明かりが灯され、カードを配り直した。突然、闇夜を切り裂くコルジア方言の女の金切り声が上がり、平手打ちの音、続いて、ガラスが割れて、椅子が道に落ちてきた。ガラスの割れた窓から明かりがポツンと闇夜のなかに浮かび上がり、男と女が取っ組み合っているらしい影が部屋の天井に映っていた。ゴム引きの雨合羽を着た騎馬警官がコトコト蹄を鳴らしながら、そばを通ったが、騒音のもとをちらりと見ることもなく、そのまま僕らの車とすれ違った。なんてうっとおしい夜だろう! 暗殺者は夜の闇のなかで静かに確実に標的を抹殺する、夜は暗殺者の第一の友である、でも、この日の夜は本当にうっとおしかった。行き先も分からず、よりによってコルジア人街へと連れて行かれるのだ。土砂降りの雨のなかを! しかも、特別任務と来たもんだ。僕らはその日まで組織に同盟相手がいることなんて知りもしなかったのに、突然、組織のお友達のために一肌脱げといわれ、ほとんど何も見えない移民街をうろつきまわっている。まるで野良犬だ。いや、僕らは犬以下だ。犬だったら、あのすまし顔の支部長の足に噛みついて、狂犬病の一つや二つうつしてやれる。狂犬病になると、喉が痛くなって水を飲めなくなるそうだ。でも、喉が激しく渇いて、痛い目を見てもいいからと、水を一口飲むのだが、その途端全身を火かき棒でぐちゃぐちゃにかき回されるような痛みが襲いかかる。そして、畜生、水なんて飲むものかと心に決めるのだけど、かわしようのない喉の激しい渇きに負けて、結局……。だから、犬は気が狂ってしまうのだ。水は飲みたいが、飲んだら死ぬほど痛い目に遭う。そう、ジレンマに苦しむ犬にはチャンスがある。自分の受けているのと同じ苦しみをそっくりそのまま他者に与えるというチャンスが。でも、僕らは? まだ自我のない僕らはどんなに無茶な要求を食らっても「はい、マスター」の一言で片づける。狂犬をうらやましがるなんて、まったく! もちろん市の衛生局に見つかれば犬たちは殺処分間違いなしだし、だいたい猟銃に弾を込めた短気な住人にその場で片づけられる可能性も高い。でも僕ら暗殺者稼業だっていつどんなふうに殺処分が待っているか分からない。きっと、お前たちは用済みだ、死ねと言われても、あのころの僕らは「はい、マスター」と返事して黙って従って死んでいくのだろう。ああ、啓蒙の火は遠くにゆらめく。だが、この車が目指しているのはそんな火ではない。しばらく、狭い路地を走っていたが、道幅が広がって舗装された街路に出た。すると車が止まった。アンリが運転席を降りて、後部座席のドアを開けるとそこはレストランの前だった。〈コルジアの星〉と正面のガラス窓に書いてある。レストランは既に閉店で椅子がみなテーブルの上にひっくり返して乗せてあった。厨房に通じる扉がバーカウンターの横にあり、ドアの下の端から光が漏れていた。ドアの前には見張りらしい中折れ帽をかぶった二人の男が座っていた。一人は若いが愚鈍そうな大男、もう一人は年かさで鼻の大きなあばた面の口髭男。どちらもカラーもネクタイもないままシャツとチョッキを着ている。ベルトに銃が挟んであるのが見え、バーカウンターの上には鉱夫用の頑丈な鉄のカンテラが置かれていた。

 ひょっとすると、僕らはコルジア人ギャング団の本拠地にいるのかもしれない。ギャングのことなら何でも網羅できる犯罪雑誌が唯一掲載できない謎めいたギャング団がコルジア人街にあるのだ。コルジア人はギャングからカタギまで口が固く、余所者はおろか同じコルジア人の身内同士ですら、あれこれしゃべったりしない。だから警察や新聞記者がいくら粘っても何も情報を引き出せない。ただ首領の名前はルイジ・ボレロという名で、現在の抗争ではどちらの側にもつかず、コルジア人街での賭博場と青果店、製氷工場、日雇い労働の仲介業を支配下において、ロワリエのコルジア人社会に王のごとく君臨しているということは漠然と知られていた。

 またギャングか! まさか組織の任務にまでギャングが絡むなんて! 長引く残暑、夜のいらつく自動車行、そしてコルジア人ギャング。今の僕らと立場を交換したいギャング愛好家は山ほどいるだろうに。

 アンリは外で待っている。運転席でずぶ濡れになりながら。一方、僕らはレストランを歩いている。僕らが厨房のほうへ近づいてくると、二人の見張りのうち、年かさのあばた面が手を上げて、僕らを立ち止まらせた。そして、立ち上がると、厨房のドアを開けて、なかにいる誰か――おそらくギャング団の首領ルイジ・ボレロへご注進に及んだのだろう。少しドアが開いただけで、悪事の匂いがしてきた。密輸と恐喝の相談がぷんぷん匂う。それにトランプをピシャリと叩きつける音や恐ろしく早口で話されるしゃがれたコルジア語が香ってくるのだ。見張りのうち、若いほうの男はずっとナイフを取り出して爪のあいだのゴミをほじくっていた。僕らはあれは絶対にやらない。たとえ刺さっていなくても、自分でも気づかない小さな傷からバイキンが入って、指が腐ることがある。だいたい、僕らはナイフなんてサンドイッチを切る以外に使わない「いい子」として暮らしているのだから、ナイフで爪の垢だの歯に挟まった食べかすだのをほじくったらカモフラージュの意味がない。それに僕らは阿呆ではあるけど、割りと高めの衛生観念を持ち合わせていた。その衛生観念から見ても、ナイフで爪や歯をほじくるのはなしだ。

 ずんぐりした年かさの男が顔を見せ、ついてこいと顎でしゃくった。僕らは厨房に通された。火の消えた石炭レンジの窯がえぐられた眼窩のごとく開かれていて、L字型のカウンターの上にはショールに包まれたパン生地が溶岩を切り出して作ったまな板の上に寝かされていた。ゆで卵は小さな鉢に盛ってあり、切られたサラミは銅の鍋でパチパチ油を跳ねていた。床には平らな豆を入れた袋がだらしなく口を開けている。緑に塗った木製の棚には赤ワインの丸い壜が冷たい水で塗らした縄に包まれて並んでいた。葡萄の皮を漬けて、荒っぽいコクと濃い紫の色を出したコルジア人のワインだ(ずっと後になってこれを飲む機会に恵まれたのだけど、まあひどく喉の焼けるワインだった)。天井の梁からは様々なソーセージ――豚の血入りの真っ黒で寸胴なやつ、ひょろっとした鷹の爪入りソーセージ、そしてみんな大好きガーリック・ソーセージがぶら下がっていた。そして、ランプの下、厨房の真ん中に大きなテーブルを置き、中折れ帽にカラーもネクタイもないシャツを着て黒の背広に身を包む五人の男がコルジア方言をまくしたてながら、使い古しのトランプでルールの分からない、たぶんコルジア人しか知らないゲームをしていた。しかし、みな同じ格好だ。何かの主義思想、あるいは信仰信条なり神さまとの約束があってのことなのか知らないけど、コルジア人の男はみなカラーのないシャツに黒い背広を着ている。帽子は中折れ帽か鳥打帽か山高帽の三つ。しかも黒いのだけど、ろくにブラシもかけないのか、埃で白っぽく見える部分がある。それが何を表しているかといえば、つまり、コルジア人ギャングたちは悪事をなすこと以外にはひどく無関心であるということだ。自分の容姿も気にしない。さて、そのコルジア人ギャングのテーブルにはパン切りナイフが垂直に突き刺さっていたり、チーズの屑が散らばっていたりしていて、賭け金とした出されたコインや紙幣が山札のまわりに積んであった。カードのやり取りはめちゃくちゃで切り札がエースだと思ったら、スペードのジャックになったりと目まぐるしいゲームだ。一方、L字型カウンターのなかに窮屈そうに座っていたレストランのコックが立ち上がり、男たちのテーブルに切ったパンと生ハムの皿を置いて、空のグラスにワインを注いでやっていた。

 レストランの裏口が開き、中折れ帽と黒のよれよれの背広を着たずんぐりした年寄りが重そうな紙袋を抱えて、現われた。〈調達屋〉と仲間内で呼ばれている老人だ。〈調達屋〉はテーブルでカードをしている五人のギャングを見ると、目を細めて、悪ガキをしかるような調子で何か短い文句を鋭く、舌打ちと一緒にピシリと放った。男たちの一人が両の掌を上に向けて、肩をすくめ、時計の針を指差し何か言おうとしたが、〈調達屋〉は首をふって、紙袋の中身を金とカードが散らばったテーブルにぶちまけた。危険な金属がギラギラときらめいた。それは数丁の銃だった。回転式もあれば、自動拳銃もあるし、黒いのもあれば、ピカピカのニッケルメッキの銃もあった。一番大きいのは銃身と銃床を切り落とした二連式の散弾銃だった。五人のギャングはカードをテーブルに伏せると、老人がぶちまけた銃から気に入ったものを手に取り、きちんと弾が込められていることを確認すると、裏口から雨の降る外へ出て行った。五人のギャングたちに今夜、出入りか強盗に行くつもりらしい(実際は強盗だった。給与支払日の前日の時計工場を襲って、夜勤の警備員を縛り上げて、金庫を破り、用意してあった時計職人たちの給料八千レアンを強奪したと新聞に載った)。

 男たちがいなくなると、コックがレストランのほうへ姿を消した。僕らの視線は裏口ドアのすぐ脇にある厨房の奥に向いた。そこはトランプのテーブルの向こうで、アーチ型に切った入口があり、その仕切り部屋に白いテーブルクロスを敷いた席があった。二人の男が座っていた。一人はあのハンサムなロワリエ支部長だ。先に行くなら、僕らを誘えばいいのに。まあ、いいさ。そして、もう一人の男は他の男たちと同じでカラーなしのシャツに黒の背広、多少模様があるスカーフを首に結んでいる。小柄で身長は百六十センチもない。青白い小さな顔に尖った鷲鼻が生えていて、口髭は両端がだらしなく顎のほうへ垂れ下がっていた。どうやらこの小柄な男がコルジア人ギャングの首領ルイジ・ボレロのようだった。人を小馬鹿にしたような笑みをいつも浮かべていることを除けば、他のコルジア人と大差がない。そう、コルジア人ギャングたちは他のギャングのように身ぎれいに自分を飾らない。カタギのコルジア人とギャングのコルジア人を見分けるコツは結局、コルジア人にならなければ分からない。しかし、カタギかギャングかでその内容は大きく変わる。事実、ロワリエのコルジア人社会はこの鷲鼻の小男のものだった。この小男、ルイジ・ボレロはロワリエに住むコルジア人を完全にポケットに入れてしまっていた。このときはまだ知らなかったけど、後になって分かったこととして、コルジア人ギャングのずる賢さは他のギャングの比ではない。よくぞここまで陰謀やら謀略やらを考え出せるものだと感心してしまうほどの卑怯な技を見せてくれる。このギャング戦争だって、どちらにも加担せず、安全なコルジア人街に引きこもって、両者共倒れになるところでおいしいところを全てかっさらってやろうとしていたのだ。このルイジ・ボレロという男は。全てを経験した今にして思えば、あのいかれた将軍たちがこのボレロの十分の一でいいからずる賢かったら、あんな馬鹿げた要塞目がけての正面突撃などせず、奇襲をするとか、飛行機から爆弾を落とすとか、いろいろな搦め手を使って、人命の損失を少なく抑えることができたはずだ。まあ、無いものはねだってもしょうがない。

 さて、十月の夜、レストラン〈コルジアの星〉の厨房に戻る。うちの支部長とボレロが並んで座っていると、なかなか面白い。たぶん、観察者アレットはそう思っていたはずだ。支部長は背が高くて、顔立ちが整った美男で髪がさらりと長い。表情は冷たく、着ているものはまあ黒の背広だけれど、コルジア人の着るもののようによれてはいない。きちんとした燕尾服だ。それに対してボレロのほうは小柄で尖った鷲鼻が印象的で決して美男とは言えない。その顔は何か面白い悪巧みが思いついたような笑みを常に浮かべていて、組織の二人の暗殺者――僕とアレットのことをニヤニヤ笑いながらねめつけていた。

 支部長が手招きをしたので、僕らはそのアーチ型の小部屋へ歩いていった。すると、これまで死角になっていて見えなかった席に一人座っていたのが見えた。それはとても美しく華奢で可憐で儚げな神の造形物だった。人間という生き物が神に愛されているかどうかの議論が起こったら、この造形物を見ればいい。よほどの愛がなければ、こんな美しいものを造ることはできないだろう。ここで僕が造形物という気取った表現を使ったのは、その造形物くんが美少年なのか美少女なのか分からなかったからだ。着ているものは黒の背広だけれど、きちんとラウンドカラーをつけ、黒いネクタイをしている。でも、ひょっとすると男装の美少女かも知れない。というのも、この造形物くんはそのブロンドの髪を編んで後ろに垂らしていたからだ。そのブロンドの髪も僕みたいに色が薄くなりすぎて白髪みたいな銀色になっているわけではなく、明るい琥珀色のきちんとしたブロンドだ。

 これが十年後にロワリエの暗黒街を支配することになる伝説的なギャング、〈魔王〉のアンジェロ・チェザリーノとの出会いだった。このときはまだ虫も殺せぬ十四歳の天使のような容貌の優しい少年だが、これが大化けすることになる。それはまあ、後の話だ。

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