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リュジスの昨日  作者: 実茂 譲
首都ロワリエ
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闇ボクシング

 ギャング雑誌はご丁寧にも、闇ボクシングが行われている番地とそこへの入り方と料金、なかの料理屋で食べられる牡蠣のオーブン焼きがとてもおいしいことを教えてくれた。どうして、ここまではっきりとギャングの所在地が分かっているのに、警官は何もしないのだろうと思ったが、まあ、賄賂を相当もらっているのだろう。僕らの知っているジュペ警視は膂力と倫理に関して極めて珍しい例外だったのだ。みんながみんなジュペ警視みたいにきれいな警官人生を送っているわけではない。あるギャングの頭領が「サツのガキどもが高等学校まで卒業できたのはおれたちが学費を払ってやったからだぜ」とうそぶいているが、あながち嘘でもないのかもしれない。

 さて、問題の闇ボクシング場は第二十一区の西の外れ、ニヴェル通りの一四番地にあった。そこのアパートに囲まれた小さな中庭には鶏小屋と靴直しのボロ屋があり、壁から張り出した部分がアパートへの入口階段になっていた。その脇の陰に問題の闇ボクシング場への入口がある。赤いペンキが浮き上がって剥げている鉄製の頑丈な扉だ。小さな丸い覗き窓があり、その下には四角形に切った大きな引き戸がある。こちらから扉を開けるための取っ手のようなものは一切ついていない。僕とアレットは雑誌を開いてみた。とんとん、とん、とん、とんとん、と叩けば、覗き窓が開く。そして、警察ではないと分かると、今度は引き戸が開かれて、大きな手が出てくるから一レアン札を置く。そうすると、扉が開き、なかに案内される。雑誌の通りにやると、扉は開いた。扉番――いかにも腕っ節が強そうな禿頭の大男は僕らが通れるように廊下の端に寄った。僕らを見ても、少しも変に見なかったところから推測すると、子どもがここに来るのはそう珍しいことではないのかもしれない。出入り口のそばは小さな部屋になっていて、テーブルと腰掛けがあり、テーブルの上には食べかけの堅焼きパンと縄で縛ったワインの大瓶、それに集めた一レアン札がくしゃくしゃになってスープ鉢のなかに貯めてあった。扉番はまた扉を閉めて鍵をかけると、椅子に座って、手に持っていた本――小学校で使う簡単な絵入り詩集を読み始めた。階段は下に続いていて、獣脂蝋燭を入れたランタンが壁からかかっていた。階段を降り切った踊り場には派手な赤更紗が仕切りドアのようにかかっていて、煙草とラム酒のしつこく甘ったるい匂いを含んだ靄がうっすら滲んでいた。その臭いをかいだだけで僕はこんなところに来なければよかったと思い始めた。まあ、今さら言ってもしょうがない。更紗の覆いの向こう側へと行ってみて、驚いた。〈モンブラン・バレエ教室〉の地下にある秘密の訓練所と全く同じ空間が広がっていた。低い天井、薄暗く黄色に濁った灯、山羊の頭を持った天使像、何十本という蝋燭が溶けて一つの塊になっている壁龕、みんな同じだ。いったい異端者たちは広場でまとめて火炙りにされる前にいくつ地下礼拝堂をつくったのだろう? この分じゃ、肉屋、魚屋、八百屋、公園、ホテル、騎兵隊の厩舎、都市清掃局、警察署、正統派教会の大聖堂の地下に異端の神殿があっても不思議ではない。地面を引っ剥がせば、そこいらじゅうが穴倉だらけだ。

 さて、闇ボクシング場に使われた異端者の礼拝堂には見物人が大勢いた。大部屋の一角が区切られて、簡単な料理を出す店を作っていて、それ以外はボクシング場だった。紐で四角形に囲まれたリングのなかでボクサーが二人、素手で殴りあうというひどく原始的なお楽しみが開催されようとしていた。戦うボクサーは〈雄牛〉と〈大砲〉と呼ばれていた。どちらも体重は百キロを軽く超えていただろう。ボクサーを見た限り、彼らに求められているのは技術や俊敏さではなく、パンチの強さと何度ぶちのめされても平気で立ち上がれるだけの頑強さだった。〈雄牛〉は文字通り雄牛のようにがっしりとしたボクサーで、黒くてもじゃもじゃした髪の毛、つぶれた鼻、分厚い唇をしていて、目は爛々と燃えている。〈大砲〉はどんなやつでも一発でダウンさせられる破壊力のあるパンチが期待されていて、頭をつるつるに剃り、口髭を油でひねっていた。勝負は〈雄牛〉のタフさが勝つか、〈大砲〉の破壊力が勝つかが焦点になっていた。賭けはもちろん行われていて、小柄なギャング団員が集めたお金を山高帽のなかに入れていた。異端宗教の祭壇のある位置には黒板がかけてあって白シャツを着た二人の男が賭け率をチョークで書きつけては消して、新しいオッズを書きつけていた。

 しかし、いくら広い地下の大部屋といっても、百人近い男たちがぎっしり集まって、ぎゅうぎゅう詰めになっていては空気は悪いし、蒸し暑い。ああ、やっぱり来なきゃよかったと思う一方、アレットはこうした人間のごみごみしたものを注意深く観察している。後で分かったことだけど、アレットは観察マニアだった。この巨大な都市生活の様々な横顔を目的もなく観察するのが好きなのだ。そして、僕はそうとも知らず、アレットに付き合ってあちこちを見てまわった。

 まあ、確かに観察するといろいろ面白いものが見つかった。まず描き散らし型の絵描きが三人見つかった。どうやら、彼らは殴りあう〈雄牛〉と〈大砲〉をささっと描いて、見物人に売りつけるつもりらしい。一番売り上げた絵描きは描いた絵を四つ折りにして、これはここで闇ボクシングを行っている証拠になる絵だから、絶対に警察に見せてはいけないと秘密結社めいた念押しをすることで、ギャング愛好家たちの気を惹いた。何だかいけないことをしているようなそんな感じを与えたわけだ。背徳のわくわくってやつ。もちろんそんな絵に背徳など欠片もない。描き散らし型の絵描きが描いた二人の巨漢の殴りあう絵なんか、世の中が一万回引っくり返ったって犯罪の証拠なんかにならないし、そんなもの証拠として法廷に提出すれば、検事はいい笑いものだ。でも、そんなことは知らず、ワルの世界を覗き見にきたギャング愛好家はゴクリと生唾を飲んで絵を受け取る。この茶番劇のおかげでその絵描きは一晩に十五レアン儲けた。入口で一レアン払って、鉛筆はせいぜい十クーの安物。ところが、先生、料理屋のある一角で牡蠣一つに二十クー、赤ワイン一杯に三十クー、それに自分でも三レアン賭けて――といった具合に誘惑に負けて、気がついたらスッテンテンになっている。描き散らし型の絵描きの哀しさはそれ自体喜劇だ。

 それにやけに気取ったギャング愛好家が二人、その二人は法科と文学科の学生らしく、芸術の話をするような口ぶりでギャングについての持論をぶつけていた。

「ぼくが思うにね、あの扉番は絵入りの小学生詩集など読むべきじゃないんだ」文学科学生が気取ったアクセントで言った。

「じゃあ、何を読むべきなんだ?」法科学生は法律を学ぶものにありがちなぶっきらぼうで投げ槍でいて、相手の言葉を漏らさず拾って、後で矛盾することを言ってきたら、思い切り負かしてやろうとするこせこせしたところをひた隠しにしながらたずねた。「わいせつ雑誌とか?」

「いいや。彼は何も読まない。なぜなら字が読めないからだ」

「あいつは字が読める。こないだなんかガルヌランの『辻馬車』を読んでいた」

「だめだ、だめだ! どうしてギャングの用心棒が科学主義文学の先鋭を読んだりするんだ!」まるで科学主義文学を読んでいいのは文学科の学生だけなのだと言わんばかりの剣幕で言った。「それじゃ、この闇ボクシング場の世界が台無しだ。たった一人の用心棒が字が読めるばかりにこの空間が台無しになるんだぜ、きみ。考えてもみろよ」

 ギャングを愛でるのも驚きなら、それに審美眼があるというのも驚きだ。学生というのは決闘か女の子をくどくかするくらいしか能が無い連中だ。このなかから、将軍や政治家や偉大な文学者が現われるのは全くもって奇妙な手品だ。それに学生の決闘なんて、僕らに言わせれば、ちゃんちゃらおかしい。怪我をしないように剣の先っぽを丸めて、オマケにごてごてと防具をつけて、鞭みたいに細い剣で引っぱたきあって、最後はお互いを抱擁し、赦し合って終わり。何を赦したのかというと、まあ、酔っ払って吐いた暴言とか、女の取り合いとか。なんせ大学には決闘クラブなるものがあるくらいだ。気のせいかもしれないけれど、決闘好きの学生は妙に民族主義者が多い。しょっちゅうカッとなっては決闘だと意気込むけど、三つ数えて振り向いて撃つピストルによる決闘が始まろうとすると、顔を蒼くし、尻尾を股のあいだにはさみ込んで学監にご注進するような手合いだ。

 まあ、彼らの話は余計な脱線だ。ボクシングに戻ろう。

 僕とアレットは気取り屋たちから離れて、部屋の隅のオイスター・バーにいき、パン粉とバターソースをのせて焼いた熱々の牡蠣を食べた(たぶんこの地下室で唯一価値のあるものだ)。そのうち賭けが締め切られ、試合が始まり、殴り合いが始まった。

「いけ、そこだ! 耳を食いちぎってやれ!」

「守るな、攻めろ、足を使うな、フックをお見舞いしろ!」

 墓に埋葬されたジュペ警視が息を吹き返し、棺おけの蓋を蹴破って、かぶせられた土を強引に押し上げて、墓から這い出て、ここに現れでもしたら、全てを棍棒で叩き伏せるだろう。絵描きも学生もギャング団もみんなボコボコだ。もちろん〈雄牛〉と〈大砲〉も殴られる。確かに二人とも立派なヘビー級ボクサーだが、ジュペ警視と比べれば、ホワイトアスパラガスみたいなものだ。ジュペ警視は棍棒よりも素手のほうが恐ろしい一撃を見舞うと言われているから、さぞ物凄いパンチが見られるだろう。

 さて、興業主はどこにいるのだろう? このギャング団の頭領トマ・アントワーヌは隣の部屋で銭勘定をしていた。こめかみに禿残ったもじゃもじゃした白い髪につぶれた鼻、ごま塩の無精鬚に包まれた大きな顎は歪んでしまっていて噛み合わせが悪く、どうも右目に問題を抱えているのか、ときどき不自然な瞬きをした。自分もかつてはボクサーだったのだろう。そして、失明するか、パンチドランカーになるか、八十五ラウンドぶっ続けで殴り合って死ぬかする前にボクサーから足を洗い、ギャングの世界にその洗いたての足を突っ込んだわけだ。

 さて、その日の試合は六十八ラウンドまで続き、〈大砲〉が拳が床をこするくらいに大ぶりの強烈なアッパーを〈雄牛〉の顎に見舞って決着がついた。払い戻しが行われ、ギャング団員たちは客をせっつき帰らせる。

 外に出て、ランルザック通り一一一番地へ戻ると、アレットは疲れたとこぼした。それは僕も同じだ。でも、僕はあの空気の悪さとがなり立てる大人たちの大騒ぎにうんざりして疲れたのに対し、アレットは様々なものを観察し自分のなかに取り込んだことで疲れていた。都市と社会の遊歩観察者アレット・デュパールの誕生だ。もちろん、あの当時はそんなこと分からなかった。でも、まあ、おいおい分かってくる。

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