1.背筋が凍る話
黒電話の着信音のような音が朝日がカーテンの隙間から差し込む部屋に鳴り響く。
音を発していたのは俺のスマホで、朝が来たことを俺に伝え、持ち主を起こすためにけたたましい音を鳴らしていたのだった。
しかしながら数分前にすでに起きていたため俺はすぐにスマホの電源を切って音を止め、軽く伸びをする。部屋の扉の上に取り付けられた時計は午前5時を示している。
愛用している中学時代のジャージに着替え、俺は毎朝のルーティンを消化するために扉を開けた。
突然だが、俺、坂本陽介は自分でいうのはなんだが特異な人生を送ってきたほうだと思う。
……特異な“人生”と括るのは少し違うかもしれない。別に俺の人生全てが他人に比べて特別だ、なんて言えるほど俺自身に人より優れた才能があるだとか、聖人のような性格をしているわけではない。
ただ、ここ数年……正確にはもう2年になるのだろうか、それだけの長かったような、短かったような間の出来事は、おそらく普通に生きていたら滅多なことでは経験できないようなことばっかり起こっていた気がする。
そうか、もう『あの事件』から2年になるのか。今でも腹の奥の方で蠢くこの黒々とした感情が消えない。怒りのような、悲しみのような、恐怖のような。おそらくそれら全てが複雑に混ざり合っているのだろう。当時からしばらく経ったいまですら自分の根底にこびりついて離れず、今も俺の心臓に突き刺さっていた。
そもそもとして、俺は普通の家に生まれ、妹と殴り合いの喧嘩をして怒られ、反抗期に差し掛かった中学時代に母親と口論をして育ったどこにでもいるような人間だ。
ただひとつだけ、人生で一番特別で、一般という言葉が服を着て生活しているような俺にとって他の何にも替えがたいものが、幼なじみである西館椿と鳳城蒼だった。
この2人は幼稚園で出会い、近くの小学校へ入学し、そのあと有名私立校へ進学した、かなり長い付き合いの友人だ。
俺の人生に沢山の思い出をくれ、この2年間を特異なものにした張本人だ。俺の人生を語る上でこの2人の存在は欠かせないだろう。まあそんな自分語りをする日は来ないのだろうが。
まず、西館椿──彼女は、生まれも育ちも勝ち組で、完璧といっていいほど周囲に恵まれていた。
母親譲りのの日本人形のような美しい、しかしキツくなく、見た人間に愛くるしさを感じさせる顔立ちに、父親譲りのサラサラとしたTHE大和撫子といった感じの黒髪で、美人というしかない容姿で、いつも周囲の目を引いていた。
しかし本人は自身の容姿を鼻にかけることはなく、誰にでも分け隔てなく笑顔を向け、困っている人を助けようとする、そんな人物だった。
さらに言うと頭も良く、いつも学力は学年のトップ層にいて、さらには新しい知識をつけるためだと図書館へ通う、まさに立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花だとか、完璧超人といった言葉の似合う、自慢の友人だった。ただし少しばかり天然なところがあったけど。
もう一人の友人である鳳城蒼もかなり顔が整っているたちで、この2人が並ぶと恐ろしいほど絵になっていて、中学の美術部の連中なんかはよくモデルになって欲しいと頼みに来ていたほどだ。
幼い頃に母親とひとつ年下だった弟を交通事故で亡くし、父親とふたりで暮らしていた。そのあたりには他にも色々複雑な話があり、幼い頃は俺たちと遊んだ後、帰りたくないと泣いていたものだった。中学に上がってからしばらくして、そんな様子を一切見せなくなってしまって、とても心配したことを覚えている。
よく名前とその整った容姿から女子と間違われていたけれども、れっきとした男であり、それを周囲に抗議し、それを俺が苦笑しながら窘め、一歩引いた場所で椿がコロコロと笑うというのが俺らの毎日だった。
──本当に、懐かしいな。あの頃は何もかもが楽しくて、1日が本当に短かった。あの頃のことを思い出すだけでも時間があっという間に過ぎて行くほどだ。
今だって、気づけば目的地に着いてしまった。
着いたのは墓地で、今は早朝なのでほとんど人がいない。大抵の人間は用がなければ近づかないこともあって、ひとりになりたい時などはここの、ある墓の前までよく来たりする。
しかしながら、今日……というよりは朝はその限りではない。俺は毎朝この時間、ここを訪ねて線香をあげ、墓の主に話しかけてから学校へ行くのだ。
そして、今日は墓の主の2周忌。今日は彼女が好きだった花を花束にして持ってきた。俺はそれを墓前にそっと供え、いつものように語りかける。
「──おはよう。早いもんであれから2年経ったよ。蒼については、正直警察も俺もなんの手がかりも掴めてないのが、すごく歯痒いよ。 ……ごめんな、あいつの疑いを晴らしてやれなくて。分かってる、俺は絶対に蒼がそんなことするなんて思ってないし、何よりあいつは椿のこと、誰より大切にしてたと思う。 ……あー、これぐらいしか話せなくてごめん、って言ったら怒るんだろうな。……今日のために色々話すこととかあったら良かったんだけど」
俺は、目の前にある墓に向かって語りかけた。これが毎朝の、俺のいちばん大事な日課だ。きちんと最近あったこと、楽しかったこと、嫌なこと、それから──あの事件についての報告を、毎日ここで行っている。
「──うん。今日も学校、頑張ってくるよ。それじゃ、行ってきます。……椿」
そして、墓に刻まれた、『西館椿』の字に軽く礼をして、俺は墓地を出た。
ちょうど今日から2年前である9月25日、俺たちの学校では学園祭があった。毎年多くの保護者や生徒たちの友人が参加し、有名な私立校だけあってか出店や各クラスの出し物はかなり凝っていた。
その中でも生徒の部活動発表はかなりの人気で、吹奏楽や合唱部、オーケストラ部なのど全国大会へ行くような部活の演奏のときは、ホールから人が溢れて立ち見すらもできないことがあるほどだった。
俺たち幼馴染三人はそのどれにも所属しておらず、(蒼は身体能力が高かったため、よく運動部に戦力として駆り出されていたのだが)2バンドしか存在しない軽音楽部に入部していて、3人で学園祭で演奏したものだった。
正直言って強豪の部活の発表よりは見てくれていた人は少なかったが、2人が学校中で有名だったこともあり、大成功という結果で幕を閉じた……ところまでは良かったんだ。
その後、
「せっかくだし、部室で打ち上げとかしない? もうひとグループが部室の使用権譲ってくれたし、お母さんがたくさんお菓子とジュース差し入れてくれたし! 2人の好きなお菓子もあるよ!」
と椿が提案し、もともと椿に惚れていた蒼はもちろん、楽しそうだと思った俺も賛成した。
今思うと、止めておくべきだったのだ。もしくは、別の場所でやっても良かった。別の日にしてもいい。今言っても仕方のないことだなんてことは理解してはいるのだが。
このとき事前に蒼から、「椿に告白したいから、いい感じのときに席を外して欲しい」との旨を聞いていて、やっとくっつくのか、お互い好きあってんのに進展しないの見てモヤモヤすんのも今日でおしまいかぁ。せっかくだし、クラッカーでも鳴らして祝ってやるかなどと思い、コンビニまで行ってクラッカーを買った。
──その時のことは今でも忘れない。いや、忘れられない、と言った方が正しいのかもしれない。
学校へ戻った俺は2人にバレないようそっと部室の扉を開け、中に入ったが、人の気配が感じられなかった。
そこですでに嫌な予感……というより、嫌な空気感を感じとっていたのかもしれない。そのことを訝しく思いながら歩みを進めて、大きな音響機器の裏に回り込んだ。
──今にして思えば、この時点で2人が部屋を出て行ったと考えて、部室の外へ探しに行くべきだったのだ。もしくは、蒼に無理を言ってでも部室のどこか隠れられる場所で、告白を見守るべきだった。そうすれば、こんなことにはならなかったはずなのだから。
しかしその時の俺はそんなこと考えもせず、ただ呑気に幼馴染2人を祝福するため、部屋の奥に足を進めてしまった。
──その日のことを、俺はずっとこの2年間、後悔し続ける。
そこには、首が一直線に斬られ、胴体との間から紅い絨毯を晒した椿の死体が、だらりと力なく横たわっていたのだった。
それからのことは、あまりよく覚えていない。結局俺はその場で気を失い、見回りの先生が来るまで目を覚さなかったそうだ。
病院は1日で退院できたが、むしろそのあとの警察の取り調べが長かった。
なんでも椿の遺体はかなり鋭利な刃物で一刀両断されていて、それだけの力が中学2年の少女にあるとは流石に思えず、自殺の線はない、とのことだった。つまり、誰かがあの部室に侵入し、凶器で椿を殺した、ということだ。もしくは──、
更に問題なのがそのあとから蒼が失踪したことで、そのことを話してくれた警察の人は申し訳無さそうにしながら俺にこう伝えてくれた。
「現場に凶器が残っていないこと、蒼君がかなり身体能力が高く、力が強かったこと、その後失踪していること……。 これらの情報と、最後に椿ちゃんと一緒にいたのが蒼君であることから、僕たちは蒼君が怪しいとして捜査している。 けど……」
「……は? ッ蒼は絶対そんなことしない! する理由もない!」
先述の通り蒼は椿に惚れていて、椿も蒼のことを本当に大切に想っていたし、人からの好意を無碍にするような人間じゃない。だから蒼の告白がどんな風に転んだとしても2人なら大丈夫だと俺は思っていた。
俺が噛みつくように反論すると、警察の人は安心したように笑った。
「そうだよね。もちろん、外部班の可能性の方が大きい。僕たちも近く防犯カメラを調べたり、不審な人物がいなかったか聞き込みをしてる。ただ、失踪していることからも蒼君の身が心配でもある。だから今は、1番蒼君を捜すのに力を割いてるって感じかな。 ……だからこそ、君が何か知っているといいと思ったんだけど……。 その様子だと、なにも知らなさそうだね。とりあえずは、この近辺を隈なく探してみることになる」
「え、と……? ありがとうございます……?」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。これが僕たちの仕事だからね。でも、君には一応、どんなことがあってもいいように覚悟をしておいて欲しい。 ……大切な友人を一気に2人も失った君に言うのは酷な話だろうけど、頼んだよ」
俺は何も言わず頷いた。正直中学生とはいえ、この時の俺は今見ても子供でしかなかったし、できることなんてそれくらいしかなかった。それは今も変わっていないのかも知れないが。
だからせめて、この目の前にいる真っすぐに見つめてくれる大人を信頼しようと思ったのだ。
それから、カウンセリングを受け、一応自宅療養ということになって、その後何も事件について進展がないまま高校生になってしまった。……が、俺が何も進まないのがもどかしかったこともあって、筋トレを始めた。いつかあの事件の犯人に出会っても、何もできないのは嫌だと思ったからだった。
そして地域の見回りのボランティアにも参加した。これで犯人に繋がるなにかや、蒼の居場所が見つからないか期待したのだが、現実はそうは上手くいかないらしく、もとより治安のよいこの街では本来の仕事である落ちているゴミを拾う位しかすることがないのであった。
かくいう今も、登校を兼ねた見回りの途中だ。いつも通っているこの並木道は、よく近所にある俺たちの母校である小学校があることもあって、重点的に見回りができるようなルートを使い登校していた。今も目の前にある信号の前で、その小学校の生徒であろう5人の小学3年生ぐらいだろうか、それくらいの背の男女が楽しそうに話をしていた。
(──俺たちも昔はこんな感じだったか。 こいつらには是非とも元気に育って欲しいものだ)
今日で椿が亡くなってから2年経って感傷に浸っていたというのもあったのだろう。俺は無意識に彼らと俺たち3人を重ねていた。
よく見ると、小学生たちは4人が仲良く話していて、ひとりが後ろでぼうっと遠くの方を見ているようだ。
(うわ、すごい分かる……。俺も二人が他の人と話してたとき、こんな感じだったな……。いや、別にコミュ障ってわけじゃないが!)
そんな風に言い訳のようなものをしていたからだろうか、それとも何か、今までの人生の様々なことにバチが当たったのかも知れない。俺は交差点を物凄い勢いで逆走してくる車に気付いた。
(これ、こっち来てないか!? 子どもたち……は、気づいてない!?)
スピードがある分曲がることが難しそうなうえ、運転手がハンドルをきっている様子がない。俺は思わず下唇を噛んだ。背筋が凍るとはこういう感覚のことを言うのだろうか。
怖い。震えが止まらない。死が、椿の死に様が今になって俺の足を竦ませる。あれだけ椿の死を悲しんで、いざ自分が死にそうになったらこうなのか。
──死ぬって、どんなもの何だろうか。きっと痛いだろう。痛くて痛くて、考えるだけで苦しそうだ。
(──椿も、痛かっただろうな)
なにせ首と胴体が離れるのだ。痛みは一瞬だったかもしれないけど、きっとすごく痛いに違いない。
……それに、刃物を向けられ、自分は死ぬのだと理解した瞬間は──どれだけ怖かっただろう。
そこまで考えてしまうともう駄目だ。一気に脳内がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくなってゆく。
『あの日』、あの瞬間と同じような、絶望とも恐怖ともいえるような、ある種の諦観が俺を襲って足に力が入らなくなっていく。
ふと、自分の足元にいる子どもたちが目に入った。酷く目を見開いた中に、何故かあの日の俺の姿を見た。
(ああ、この子たちは、だめだ)
(こんなのを、他の人が、こんな小さなものが知ってしまったら、だめだろ)
そこからは、あまり多くのことは考えられていなかった気がする。ただ、もう2度と、あんな風に死んでしまう子どもが居なくなってほしい。俺が動くことで助けられるのなら。それだけだった。
頬を思い切り叩く。痛みで頭の中がスッキリ……とはいかないが、幾分かはましになった。
「君たち! とりあえず右の方に走って!……えーっと、よくわからないだろうけど! 早く!」
「え……?」
(そうだよな、これくらいの歳だと固まっちゃうよな! 仕方ない、こうなったら!)
「あとで謝るから! ごめん!」
ひと言断りを入れ足にぐっと力を入れる。震えは相変わらず止まってはくれないらしい。でも、そんなことを言い訳にできる状況じゃない。
「おっらッ!」
まず2人を両腕に抱え、全力ダッシュする。抱える、というよりは引きずる感じになってしまったが、怪我していたら謝る他ない。それはあとで出来ればいい。
とりあえず車の進行ルートからある程度離れたところで彼らを放し、次の2人へ走る。地面を蹴る中で滑って転ぶようにもう2人を引っ掴む。ここでこけたらいけない。死にものぐるいで足を立て、その衝撃で転がるようにして距離をだした。
前の2人と同じように反対方向に放り、残すはあとひとり。一番後ろにいた子だ。
そこまで、俺は車の方を見ることは出来なかった。ただでさえ頭がいっぱいで、ある意味で車のことが頭からすっぽり抜けていた。
いや、抜けていたというよりは、怖くて無意識に忘れるようにしていたというべきか……。
とにかく、もうすでに目の前までに迫っていた車に気づかなかった。
「は、」
やばい。やばいやばいやばい。
急に周りの景色がゆっくり流れ始め、幼かった頃の景色がフラッシュバックしてくる。
(いや、これあれだろ! 走馬灯!)
しかし突っ込んでも状況が変わるわけがない。走馬灯だということが分かっても何が出来るかって言われても何も出来ることはない。このまま俺はもうひとりの子どもと一緒に車に轢かれて死ぬのだろう。遺された子どもたちは椿と蒼を失くした俺のように泣くだろう。一生かけても治らない傷を負うのだろう。
(でも! ……それは、駄目だろ!)
心の中で叫んだときだった。
誰かに背中を思い切り押された。それは、暖かくて、どこか懐かしいのに知らない、でも決して俺に振り返らせないほど強く、泣きたくなる優しさに満ちていた。
振り向きたい衝動に駆られる。しかしそれを振り切って、俺は最後のひとりに向かって手を伸ばした。
最後にグシャ、という嫌な音と、何かが肩にぶつかったような感覚だけを残して、俺の意識は途切れてしまった。