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翌日、麻里亜は意識を取り戻した。
奇跡的に一命を取り留めたのだ。懸念されていた低酸素脳症による脳への障害といった後遺症も、まったく見られないとの事である。
主治医は「絶命しなかった事よりも、むしろそちらの方が奇跡なんです」と保護者である母親の朱里亜に説明をした。
朱里亜は男を告発した。
男は岡山県警に身柄を拘束され、幼児虐待と脅迫と殺人未遂の容疑で現在取り調べ中だ。各種全国ニュースにも実名報道された。おそらく実刑は免れないだろうとの見解である。
母親自身も、自ら出頭した。
男は自分の娘に対し、日常的な暴力的虐待を繰り返していた。それを黙って見て見ぬ振りをしていた自分も、同罪なのだと罪を認めた。並びに生活保護の不正受給も行っていたと自白した。こちらも現在、取り調べ中だ。
麻里亜は保護観察対象者となり、退院後はしばらく児童養護施設に預けられることとなった。
警察の取り調べに対し母親は「しっかり罪を償って、心を入れ替え社会復帰し、必ず娘を迎えに行く」と、反省の態度を色濃く見せた。
◇
倉敷美観地区は年末で賑わっていた。
昼下がりの河川敷の木製ベンチ。そこで黒猫マホは、白猫ハナと並んで腰掛けている。互いに飼い主に憑依した、少年少女の姿で。
真冬だというのに、大好物のデニムソフトをぺろぺろと舐め回す少年。青色をしたラムネ味のソフトクリームだ。
隣の少女に少年が言う。
「聖母マリアで、三田麻里亜か。ちょっとキラキラネーム入ってるけど、あのドキュンのギャルママが付けたにしては、粋な名前じゃんか。まりあちゃん、せっかく生き延びれたんだからさ。将来は優しくてあったかい、聖母系のママになれるといいね」
「ええ」
視線を川の向こう岸に投げたまま、素っ気ない口調で少女が答える。
彼女の方は、デニムタピオカを手にしている。ソフト同様、こちらもソーダ味だ。
ふたりの間には、もうひとり座れそうなスペース。微妙な距離感だ。
「でさあ、ハナ」
少年姿のマホが、おずおずと上目使いで話し掛ける。
「あの例の破って捨てた誓約書。あれって、どうせフェイクなんだろ?」
自分がオーナーを勤める店の雇われ店主は、以前『特約契約書』という偽造文書を用いて、客の無理な願いを叶えたのだとマホは説明した。
昨年の中森親子の件のことである。
中森は冥土の土産に『亡くなった妻を、冥界から呼び戻してほしい』と願った。
しかし、それは人の寿命を操るのと同様、冥界の法で禁忌と定められている。
ある特殊な例外を除き、一度成仏した人間の現世への蘇りは、決して許されないのだ。たとえ幽霊としてであろうとも。
「だから今回のあれも、全部お芝居なんだよね?」
最初から麻里亜は助かる運命だった。しかしクズな母親を懲らしめて、厳しくお灸をすえてやろうとハナがひと芝居打った。そんなオチなのだろうと、マホはしつこく問い質した。
そういう事なら納得が行く。すべてが芝居なら、お神への背徳行為にはならないからだ。
「ねえ、そうなんだろ?」
ハナはストローでタピオカドリンクを啜りながら、ポケットからスマホを取り出した。
ロックを解除し、画面をマホに見せる。
冥界アプリ『死亡予定者リスト』だ。倉敷市の欄には『三田麻里亜(享年五歳)死亡予定日:二〇XX年十二月二十六日』と書かれてある。今日から四日前の日付だ。
「ゲッ、マジかよ!」
以前、マホ自身も同じアプリで確認したままの状態。そこから神による日程変更等の更新が、あったわけではないようだ。
「ってってててて事は……」
「ええ、あの誓約書は本物よ」
マホが、ごくりと生唾を飲み込む。
ハナは神の定めし運命に背いて、本物の聖なる誓約書を自らの手で引き裂き契約の破棄をした。
更には自らの魔術を用いて、神に無断で幼い麻里亜の命を救ったのだ。
「まったく、なにやってんだよ。それって背徳行為の反逆罪じゃんか。冥界監査でウエにバレたら、クビどころじゃ済まされないんだぞ!」
「でしょうね」
まるで他人事の白猫少女だ。
「でしょうね、じゃないっーのっ!」
真っ赤な顔をしてマホが怒鳴る。
横に座る同業者の少女のことが、心配でしょうがない様子だ。
しかし当の本人は、至って涼し気な顔である。
昨年から突如、美観地区に現れた謎の白猫ハナ。
冥界の案内士法で規定されている人間の伝道師を雇わずに、違法すれすれのグレーな営業行為を続けている。
それに加えて神をも恐れぬ、掟破りの背徳行為。今回の更なる暴挙だ。
人の寿命を変えてはならない。
死者を冥界から現世に連れ戻してはいけない。
それが最高神が定めし、冥界道先案内士法の規律。
天使や死神の、鉄の掟だというのに。
「ハナ……おまえ一体、なに考えてるんだよ」
(次話へ)
原題『引き裂かれた聖書【BIBLE】』
☆あとがき
今回は以前、別作品のミステリーに登場した母娘にゲスト出演して貰いました。