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3-4

「ふあぁ」

 午後イチの五限目の国語の授業中、桃香は俯きながら小さくあくびをした。

 教師に気付かれないように口に手を当てる。

 今日は苦手な漢文だ。まるで頭に入らない。漢文だけにちんぷんかんぷんだ。

 そんな授業についてこれない生徒にはお構いなしに、初老の男性教師は黒板に解読不能の呪文を書き連ねた。


 謬被文王載帰得 謬って文王に載せ得て帰られ

 一竿風月与心違 一竿の風月心と違う

 想君牧野鷹揚後 想う君が牧野鷹揚の後

 夢在磻渓旧釣磯 夢は磻渓の旧釣磯に在りしならんと


「えーこの漢詩は、佐藤一斎の『太公望垂釣図』と言って――」

 中国、周時代の太公望たいこうぼう呂尚ろしょうの心境を詠じた漢詩である。

 ある日、水辺のほとりで釣りをしていた太公望は、占いのお告げを受けた文王に見出される。そして車でその場を連れられ、文王の子である武王を補佐する使命を受けた。その後、武王は殷国を滅ぼし、補佐官の太公望は周王朝の建国の立役者として名を馳せたのだ。

 しかしながら、本当の太公望は単なる釣り好きなひとりの男。魚が釣れようが釣れまいが、じっと釣り糸を垂れて毎日を過ごしたい、というのが本音だったのである。

一竿いっかんとは釣り竿のこと。つまり一竿いっかん風月ふうげつとは、一本の釣り竿を友に、世のしがらみを忘れて自然を楽しみながら、毎日をのんびりと過ごすことを示しているのです。そんな王に仕えず自分らしく生きたいという気持ちの――」

 教師の講釈をうわの空で聞きながら、桃香が心の中で呟く。

 ――釣りが好きでたまらない、か。おにいちゃんも釣り好きだったよなぁ。前はよく、わたしとおにいちゃんと……あの人と……三人で。


 あれは確か四年前。桃香がまだ小学六年生の頃だ。

 まだ肌寒い季節の晴れた日曜日のこと。その日のデートコースは鷲羽山、桃矢の愛車でドライブだった。

「わあ、すごーい!」

 瀬戸大橋を一望できる展望台で、幼い頃の桃香が無邪気な声を上げる。

「本当に素敵な眺めね」

 長い黒髪を白く細い掌で押さえながら、薫も笑顔を浮かべている。

 倉敷市下津井にある鷲羽山展望台の頂上付近。澄み渡る青空の下、吹き上げる海風が社会人に成りたての青年と大小の女子の髪をなびかせる。

 桃矢と薫。その間には、ちょこんとちいさな妹の桃香。完全にお邪魔虫なシチュエーションだが、兄カップルの間では、そんな光景が当たり前のようになっていた。

 桃香のリクエストの鷲羽山ハイランドで目いっぱい遊んだ後、ここへと訪れ瀬戸海の美しいしまなみの景観を臨んでいたのだ。

「じゃあ、そろそろ最後のお楽しみと行こうか」

 桃矢が駐車場に停められた白いレクサスSCを指差す。学生時代からの愛車だ。

 トヨタのレクサスブランドの高級スポーツクーペ。後部座席は大人がまともに乗れるような広さではないのだが、当時女子児童でおまけに小柄な桃香は、いつも当然のように我がもの顔で陣取っていた。

 桃矢がいくらエリートサラリーマンとはいえ、社会人になりたての給料では到底手の出ない高級車だ。しかし桃矢の実家は、裕福で由緒ある家系の旧家。数年前に成人の祝いとして、両親に新車で購入してもらったのだ。

「えー、お楽しみなのはおにいちゃんだけじゃがあ。いっつもかおるさんとわたしをほっぽらかして、ひとりで夢中になっちゃって」

「まあ、もも。そういうなって。その間、また薫に恋バナでも聞いてもらっとりゃあええが。ていうか最近、ボーイフレンドの孝生こうせいくんとはどうなんだよ?」

「もー、だからあ。コウちゃんとは、そんなんじゃないんじゃってばっ!」

 いつもの兄妹喧嘩を見て、薫はくすくすと笑っていた。


 夕映えの瀬戸大橋の下の防波堤で、桃矢はメバリングに夢中になっていた。

 疑似餌ルアーを用いて軽量のロッドとウェアで表層のメバルを探り歩く。そんなスポーティーなスタイルのフィッシングゲームだ。

 メバルは春告魚はるつげうおと呼ばれ、春の訪れを告げる魚としても知られている。しかし。

「うー、寒いなあ。もう、おにいちゃんったら。さっきから、どんだけ粘っとるんよ」

 桃香が両腕を抱きしめる。

「まあ、いつもの事だし」とフォローしながらも、薫もコートの襟を立てる。

 明日は月曜日だというのに、もう何時間ロッドを振り続けているのだろうか。そろそろ常夜灯も灯り始めている。

 大好きな釣りになると、いつも女子ふたりをほったらかし。もしかしたら兄は自分が釣りに没頭したいが故に、いつもデートに桃香を連れて来ていたのかもしれない。

 そして先ほどは、お楽しみなのは兄だけだと揶揄していた桃香だったが、内心はその時間こそが、桃香の密かなお楽しみだった。

 大好きな兄を遠目に見ながら、女子同士水入らずでおしゃべりに花を咲かせる。

「それでねかおるさん、コウちゃんったらね」

 べったりの妹を、邪魔者扱いせずに接してくれた薫。

 あの頃のふたりは、本当の姉妹のように仲が良かった。

 薫には両親も兄弟も、親しい親戚すらも居ない。

 祖父母に育てられたそうなのだが、孫を大人になるまで立派に育て上げるという使命を果たした安堵感からか、薫が成人して間もなくふたりとも続けざまに他界してしまったのだ。

「だから昔から弟か妹が欲しかったの。ももちゃんみたいに人懐っこくて可愛い子がね」と薫はいつも笑って言っていた。

 薫の祖父母は資産家だったので、金銭的には何不自由のない環境で育った。さりとて家業をしていた訳でもないので、薫が後を継ぐ必要もない。

 背負うものがない分、長男の嫁として彼の実家をしっかりと守りたい。薫はいつも桃矢にそう言っていた。ところが。

「その気持ちは嬉しいんじゃけど、俺は跡取りにはなれないんだ」

 桃香は以前、行きつけのカフェのメイドに、自分の兄は家を継ぎたくても継げない体なのだと話した。それは意識不明の植物状態だからという意味ではなかった。

 桃矢は元々、体質的に家業を継げない体だったのだ。

 その体質のせいで由緒ある家業の跡取りになれないことに、桃矢自身も強いコンプレックスを抱いていた。

 桃矢はその理由を、体質にまつわる事を、薫にはけっして話さなかった。

 当時幼かった桃香も両親の会話などで、兄の体質の事に薄々は勘付いていた。

 しかし両親から「これは家族だけの秘密じゃけえ、絶対に人には言わないように。たとえそれが、お前たちの恋人や婚約者であっても」と、何度も厳しく言われ続けていた。

 以来、桃香は今現在に至るまで、頑なにその言い付けを守っている。

 桃矢のカミングアウトに「そうなんだ……」とだけ薫は答えた。

 もしかして彼は、体質的に子供が出来にくい体なのだろうか。

 薫の顔には密かにそう書かれていた。

 しかしその後も薫の口から、その理由を問い質されることはなかった。

 兄の詳しい事情に、薫はずっと触れないでくれていたのだ。

 ただ薫は、桃香とふたりきりになると何時もこう言っていた。

「たとえ何があっても。私がももちゃんのお兄さんの傍に、ずっといることに変わりはないから。もちろん、ももちゃんの傍もね」


 夕映えの瀬戸大橋の下でも、薫は幼い桃香に向かって笑顔で言っていた。

 あの時の薫のはにかんだ顔が、今でも桃香の脳裏に焼き付いて離れない。

 ――あの優しかったかおるさんが、どうしてあんな冷たい人に?

 心に鬼が憑りついてしまったのだろうか。悪魔の呪いに掛かってしまったのだろうか。

 あの頃は子供だったから、よく分からなかったけど。

 ――最初から玉の輿だけが目的だったんじゃろおか。

 もし兄との間に子供が産まれなければ、妻である薫の財産の取り分は大幅に増える。

 子供ができにくい理由は夫側にあるのだから、嫁の薫が夫の一族に責められることもない筈だ。しんどい子育ても、しなくてよい。

 特に子供が欲しいわけでもなく、お金目当てだけの結婚なら、そっちの方がむしろ好都合だったのかもしれない。 

 結局、薫はうちの財産狙いで兄とは交際していたのだろう。裕福な家に嫁いで楽をしたかっただけなのだろう。

 その夢が叶わなくなりそうだから、きっと兄を見捨てたのだ。それが手のひら返しの真相なんだ。

 ――人間なんて、結局そんなもん……なん?

 人の心の中の奥底は、裏の顔である魂は。どろどろとした欲望でうごめいている。

 人の魂って怖い。なのに由緒ある家業の跡取り娘なんて大役が自分なんかに務まるのだろうか。

「えー、それで江戸時代末期の官需である佐藤一斎は――」

 苦手な漢文の授業を聞き流しながら、桃香は益々と憂鬱になった。



 翌日。

 学校帰りの桃香は、その日もひとりで美観地区へと寄り道をした。

 最近姉のように慕っている望美に、色々と相談に乗ってもらおうという魂胆だ。

「こんにちは!」

 いつものように元気よく藍染帆布の暖簾を潜る。

 すると目の前には、背の高い藍染着流しの白髪店主の姿があった。

「これは桃香さん、いらっしゃいませ。本日もありがとうございます」

「こんにちは、店長さん」と言いながら桃香が店内を見渡す。

「あれ、望美さんは?」

「メイドの逢沢でしたら、本日は休暇を取っております」

「そうなんだ……」

 がっかりとした様子の桃香は「いつものジュースください」と言うと、とぼとぼとカウンター席に向かった。今日は遠慮モードだ。


 しばらくして店主の真幌が、店の奥からお盆を手に現れる。

「はい、いつのもピーチジュースです」

 真幌は続けて、和紙のテーブルクロスの上になにやら細長いものを置く。

「これは?」

「当店からのサービスです。桃香さんには、いつもご贔屓にして頂いておりますので」

 釣り竿の先の部分のように、長細い乾燥した植物の茎。長さは二十センチぐらいだろうか。

 どうやらドライハーブのようだ。桃香は手につまんで匂いを嗅いだ。

「わあ、爽やかで素敵な香りじゃわあ。ねえ店長さん、これってなんて名前なんですか?」

 真幌はにっこりと笑って答えた。

「魔法のハーブです」


【参考サイト】

髭鬚髯散人之廬

大業成すも満たされぬ太公望の心の隙とは?=南洲翁も信奉した佐藤一斎

http://rienmei.blog20.fc2.com/blog-entry-504.html?sp


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