6月16日302号室『承』
ー6月16日302号室『承』
かいろぐ風がベランダに漂う洗剤の薫りを運んでくる。湿茹だる朝、張り付いた下着に嫌悪感を覚える。それらを脱ぎ捨てまだ冷たいシャワーで汗を流す。今日の講義は休もう。そう心で嘯き口元を緩める。
筆舌に尽し難く殺風景な六畳間に嵩張った本の山を背もたれにパソコンに手を伸ばす。頰に髪の毛が張り付き雫が滴る。ポットのスイッチを押しティーパックを硝子のティーポットの中に押し込む。
「まるで誰かの綴る三文小説の一ページみたい……」
そう呟きひとり失笑する。パンにバターを塗りトースターに入れると、カチンと音を立てポットが沸騰の合図を告げる。ティーポットにお湯を注ぎ、茶葉が開くのを窓から射す忙しない午前の光帯を眺めながら待つのだ。
やがてお茶が色を濃く出し、杏の薫りが部屋に漂う。彼女はそれを啜りながらトーストを口へ運ぶ。
不意に時計を一瞥する、11時。もう昼食だ。
ー「あなたも食べる?」
彼女は椅子越しに振り向きそう尋ねる。尋ねられた女性は覆われた口元を必死に動かし何かを言おうとしている。手足を縛られて六畳間に転がっているそれは怯えきった目で彼女を見る。彼女はそれに近寄ると徐に口元を覆っている布を外す。
「あっ……あなた……一体なんのつもりなの⁉︎こんなこと犯罪よ⁉︎」
縛られた女性は怯えきった声を震わせ必死に叫ぶ。
「えぇ、勿論ですこと。」
彼女は口元を緩めそう返す。彼女はアプリコットティーを口に含むとそれを彼女の口に流し込む。
「あなた、エミール=ゾラの『ナナ』ってご存知?」
彼女は本の山を漁りながら尋ねる。女性は必死に首を横に振る。
「あなたみたいな娘が主人公の小説よ、悪意なく自由奔放に遍く男を虜にし弄ぶ……あぁ、勘違いしないで、別にそれが悪いことだとは私も思っていないから。」
彼女は笑顔を崩すことなく淡々と語る。
「だっ……だって……私が愛想振り撒けば男の人はみんな……」
「うんうん、だから私もそこは別に悪いと思ってないわ。」
「じゃあ何でこんなことを!」
縛られた女性が必死に叫ぶのを聞いて彼女はくすりと笑うと
「理由は特に無いわ、強いて言えば梗概通りだから。」
彼女は淡々と語る
「ナナの主人公、アンナ・クーポーの最期を教えてあげましょうか?」
怯えきった女性の口唇に指を絡めて恍惚と尋ね、続ける。
「誰よりも美しかった彼女は晩年、病に侵されるの。醜く痩せ衰えた彼女は結局誰にも知られる事なく死んでいくのよ。」ー
須臾たる間隙に糸が垂れる。鉄の茸に真鍮の涙が垂れる。五臓と六腑に六十五刹那の激情が垂れる。なんとわかりやすいものか、私はそれらに属さない。これこそが世界の限界であり、世界と自我の区分である。
誰もいない、廃れた神社で夏風を待つ漫ろ。あぁ、早く弔いの狼煙をあげなくちゃ……