6月15日103号室『起』
ー6月15日103号室『起』
「この本、とっても面白かったわ。」
少し口元を緩め、彼女はそう告げる。
「それはよかった。ハムレットとどちらがお好みでしたか?」
マクベスを受け取り私も少し嬉しそうにそう尋ねる。
「ハムレットも素敵だったけど、私はマクベスの方が好きね。」
「僕もです、今度はコクトーの作品でもお持ちしますよ。」
私は本を持ち直すとそう告げる
「それではまた、」
「また、」
彼女が階段を上がって行くのを一瞥すると踵を返す。彼女は隣人、このアパートの三階に住む女性だ。彼女がどんな人物なのかなどは正味、ほとんど知らない。ただ同じ本好きということもあり回廊でのすれ違いざまに会っては本の話をするようになり、今は互いに愛読書を貸し借りしている。こんな関係がかれこれ二年近く続いている。名前も知らない、別に恋仲というわけではない、ただ奇妙仲な隣人、でもそんな関係が私には堪らなくうれしいのだ。
街は黄昏、錦を嫌う夢想家は影を沿い街に伝染する。夕焼けでコンクリートの階段に私の影が焼きついたみたいだ。長く伸びるそれを忌々しく一瞥しドアノブに手を添える。
ー津々浦々の紺青を垂れ流して桎梏
嗚呼、弔いの狼煙を上げなければ……ー
西日の射す賃貸アパートの扉が錆色の音を立てゆっくりと開く。部屋から鬱屈が溢れたように初夏の熱気が私を包む。私はそれを振りほどくかのように部屋に入って行く。食べかけの朝食、冷蔵庫に入れ忘れた牛乳が異臭を放っている、私は小さなため息の後それをシンクに流しパックを折り捨てる。
小さなスタンドライトの灯りを点けて、机に無造作に嵩張った本を床へ降ろしノートパソコンを起動する。
ー6月15日、それは初夏とは言い難い熱日の暮れ、彼女は歩いていたー
カタカタとキーボードを叩く音が隣部屋の洗濯機の扇動音と呼応する。
ー茜刺し陰留まり、陽が吃もり夜と嘯く。堅牢な雑居ビルの要塞は宛ら街の卒塔婆の様に聳そびえ立ちこの街の西陽を煽るのだ……彼女は火照った顔で歪な刃を降り下ろす。鈍重で醜い悲鳴が地下道に響く。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!」
苦痛に顔を歪めて男はのたうつ男の赤黒い血が一糸纏わぬ彼女の体躯たいくに飛び散る。淡雪のように白い肌が男の血を余計に黒く魅せる。
「おおおま……おまえ……ななななんなんだよ、真熊の知り合いか……⁉︎おれが……芹那を寝取ったから……そうなんだろ……⁉︎」ー
なんだ、身に覚えがあるんじゃないか。……
ー「まくま?どなたのことかしら……」
彼女は笑顔でそう返す、細いくびれに薄汚い鉈の刃が擦り付いている。
「私が信じるのは作者だけ……私はただ作者に言われるまま、満たされるまま……貴方は満足させてくださらないの?」
彼女は体をくねらせ、恍惚と尋ねる。男はない左足を引き摺り必死に逃げようとする。彼女はそれを見ると少し残念そうな顔をし、男に近づく。
「ひっ……!やめろ!助けてくれ!死っ」
コンクリートを叩いたような金属音の後、鈍い悲鳴が上がり、男はピクピクと痙攣を繰り返しやがて完全に動かなくなった。ー
お前が悪いんだよ、勘。せめて、僕の物語の中で死んでくれ。
ブルーライトで照らされた顔は酷いものだっただろう。自分が友人を自分の物語の中でも殺す様をみて恍惚としている。私は自分がロクでもない人間だと改めて自負する。
……ありがとう
ーあぁ、西日が沈むー
……彼女で最期だ……
ー弔いの狼煙を上げなくちゃ……ー
小さい頃から本が好きだった。文字をなぞり情景を夢想する。それが楽しくてやまなかった。高校に入って自分でも物語を書くようになった。物語と言っても他愛のないものだ、自分の日々起こったことをそのままなぞり書き都合の悪いことを改変する。要するに自分の都合にいい自分の物語を作り上げていた。
ただ、絵空事で世界を渡るには高校生という限られた世界ですらままならず、所詮、夢想家は夢想の中に生きるしかなかったのだ。私は物語の中にもう一つの現実を築き、その世界に耽溺した。それが逃避などと云うことは語るに及ばず、それでも私の思い通りに進むその世界を抜け出すことができなかった。
今日も私は物語を改変した。壇城勘、私の数少ない友人だった男だ。本の虫で他人と関わるのがあまり得意ではなかった私に彼は気さくに話しかけてくれた。元々彼はそういう部類の人間なのだ、誰とでも仲良くなれるクラスに一人はいる、そんな人種。便利だとは思ったが、羨ましいと思ったことはない、それが諦観だと知っているから。彼との友好関係は思いの外長く大学に入ってからつい先日までで三年になる。そんな彼と私との関係を済し崩しにしたのは私と恋仲にあった彼女、万丈芹那の存在だった。彼女との出会いも大学に入った三年前になる。当時、勘の誘いで入ったテニスサークルで彼女と知り合った。彼女は良くも悪くも純粋で、勘と同じくこんな私にも隔てなく接してくれた。しかし、無論私にはテニスなど出来るはずもなく、お遊びのサークルだとわかっていたが三日と続かなかった。サークルを抜けても彼女は私を様々なイベントに誘ってくれた。キャンプに肝試し、海水浴に観光旅行……正味、私はどのイベントにも乗り気ではなかった。それでも彼女がいると考えると不思議と足が向いた。
……やがて彼女と性うようになる、私が、はたまた彼女がいつからそんなことを考えて触れ合っていたかは未だにわからない、それでも軋むベッドの上で彼女の喘ぎに耽溺し何度も達した。一度、何故私とこんなことをするのか、尋ねたことがある。すると彼女は不思議そうな顔をして
「男女の仲でなら当たり前でしょ?」
と答える。これは彼女の純粋さか、否そうと思い込むことしか出来なかった。そんな曖昧な関係が続きそして先日、ついにほつれた。
初めは小さな違和感だった。元々多かった訳ではないが、彼女と会う機会がさらに減りそして二週間前彼女からの連絡がパタリと途絶えた。大学でも会わない、彼女に何かあったのではないかと私は数少ない人脈を頼りに彼女の近況を尋ね、そして絶句した。彼女は今勘とそういう関係らしい。その時思い出した。ここは私の思い通りにいく世界ではなかったことを……考えてみれば近頃勘から距離を置かれていると薄々感じていた。芹那とそういう仲になっていたのなら合点がいく。心の中沸々と煮えたぎる黒い感情を憶えた。しかしそれがとても烏滸がましいものだということ、何よりそれらが私を裏切った彼らではなく彼らを疑うことが出来なかった私に向けられていた。そうだ、恐らく彼らに悪意は無い。芹那にとってみれば男女で性うのは至極当たり前のことなのだ。勘にしても、私にとって勘は数少ない友人かもしれないが、勘にしてみれば、私は無数に存在する換えの効く友人の一人なのだ。
だから、彼らを恨むことは出来ない……と言いたいが、私も感情を持つ人間だ、人形ではない。僕の手に余る鬱屈と憤慨の行き先を私は私に尋ねる、そして私はそれらを物語りそうの世界で昇華することにしたのだった。私の理想の現実の中でなら彼らに復讐することが許される。だれが止めようかこの世界私のものなのだから。
画面の向こう、文字の羅列で勘を殺したことに無性に愁いを憶えた。自分の弱さ、愚かさに苛まれる。しかし、その感触すら愛おしい。恐らく私は狂っているのだろう。しかし、そんなものは倒錯の範疇だ。
私はゆっくり立ち上がるとぼんやり時計を眺める。針はてっぺんを越え、先程までの興奮を押し留めるように夜の静けさが一斉に吸い付く。私は溜め息一つ溢すと冷蔵庫を開き、飲料水を口に含み褥に就くのだった。