玉出商店の妄想劇場④ 笑顔を見せて
いつもの。モデル複数。有馬記念記念w
内緒にしている趣味がある。
なんとなくだけど言うにはばかる、そんな趣味だ。毎週末になると自転車で三十分ばかりの競馬場に行く。そこでレースを観るより、パドック……レース前の馬と騎手の下見場所……で、ぼうっと過ごす。
たまに馬券は買うけれど、配当が低い鉄板レースばかり。それでも週末競馬は楽しい。売店で競馬新聞を買うと、気持ちがたかぶってくる。
紙カップのコーヒーで手のひらを温めながら、パドックのベンチに腰かける。大きなレース開催日でない限り、座れないことなんかない。
わたしはいつもの通り、ぼんやりと騎手を乗せた馬がてくてく歩くところを見ていた。当然のことだが、パドックは屋外。いわゆる吹きっさらし、である。
季節を肌身で感じられるところも、競走馬がここへ現れる直前に周りがケモノの臭いがたちこめるのも、現地に来ている醍醐味だろう。
椅子に腰かけていたギャラリーがバラバラと柵沿いに移動するのもいい。
撮影に専念する人、馬体をしげしげと眺めて予想の参考にする人、色んな姿の競馬ファンが目を楽しませてくれる。
かくいうわたしは、馬体とか見ても全然わからない。好きな騎手を間近に見ることができて、うれしいな、程度なんだけど。
「むー。あの人、今日は調子悪そうだなあ」
右手に広げた競馬新聞を眺めながら、ぽりぽりと鼻の頭を掻いた。そして左手でコーヒーを口に運んだ、その時。
「あれっ? た、玉出さん……?」
聞き覚えある男性の声に、ぎょっとした。
こっ、このヘリウムガスを肺腑の奥まで力一杯、吸い込んだような声の主は……! まっ、まさか。
思わず見遣ると、めちゃくちゃ小顔の男がいる。彼は仔リスみたいな小さな目をぱちぱちさせて、にこにこ笑っているではないか。
きれいに整った眉といい、贅肉の一切ない輪郭に奥二重の目といい、小さめの薄い唇といい。
やっぱり営業の倉岡さんだ。
仕立てのいい濃緑のピーコートに赤と黒のチェックのマフラーをお洒落に巻きつけている。コートの下はコットンパンツだろうか。茶色のローファーが嫌味ひとつない。
まるでカジュアルダウンした、どっかの皇族みたいじゃないですか。いつもピシッと決めている紺スーツの営業スタイルとは、まるで別人。
ちなみに彼は、東京人事部長に「残念な京本政樹」と呼ばれている。細身というかガレ過ぎ、いやハッきり言って欠食児童。
背丈があるから、余計にガレガレに見えるんだよね。
けど、この人は仕事に対しては肉食極まりない。こっちが入れたクレーム受電から大きなラックをエネルギッシュに決めてくれる。優男のイメージとは程遠いくらい、営業に向いている人なんだろう。
しかし今のわたしは、この直面する現実に対処なんか出来そうにない。
わたしの知っている倉岡さんは、こんな雑多な競馬場なんてところに不釣合いすぎる男だ。
しかも、青年皇族とも見違えるほどの御姿。口に含んだコーヒーを、思わず吹きそうになってしまったじゃありませんか。
ヘリウム倉岡さんが、まさしくヘリウムボイスで語りかけてくる。
「あー、やっぱり玉出さんだー」
こちらは二の句が告げられない。コーヒーを飲み込んで、腰を浮かせそうになる。
「なっなんで」
「ぼく、たまに来ますよー? 意外ですかねえ?」
あっさり言われた。
「……い、意外ですけど? で、でも、さすがに、ゴール前にへばりついていたりとかしてないですよねえ、に、似合わないもの」
……わたしは今、思っていることを上手に表す日本語が知りたいと痛切に願う。
しかし倉岡さん、混乱するこちらにまったく構う様子がない。
「隣、座ってもいいですか」
「あっ! あ、あ、あ。ど、どうぞどうぞ」
あわててバッグとかマークシート用紙を片付ける。倉岡さんが飄々と横に座った。
「玉出さんの競馬歴は長いんですか?」
彼は澄んだ瞳をわたしに向けた。
「そんなに長くないですよ。血統とかなんとか、難しいことは今だに全然把握してないまま、ずっと来ちゃったかなあ」
「へー」
倉岡さんニッコニコ。その笑顔、マダムキラーと呼ばれているのをご存知でしょうか。いや、しかし。私服のあなたも超ステキ。
男性の魅力はギャップなんだなあ、と月並みなことを考えてしまう。ついつい、顔が赤くなる。
「じゃあ、ジョッキー買いなんだ? 玉出さんって」
「それに近いかもしれませんね。というか馬にまつわる人間模様とか、どうしてもビジネスライクに切り捨てることができない部分もあって。だから回収できないんでしょうけれども」
考えてみれば男前ヘリウムと、こんなに近くで話をするのは初めてだ。気がついて、ますます緊張してきた。
「ジョッキーは誰が好きなんですか」
「え、えー」
言いよどむと、倉岡さんは真摯な表情で覗き込んできた。営業相手じゃないんですから、そんな顔で見るのは止めてください。ほ、惚れてまうやないですかっ……とか、言えたら楽なんだけれども。
「もうすぐパドックに出てくる、この人です」
わたしは競馬新聞の片隅を指さした。倉岡さんは視線をそちらに移したあと、軽いため息をつく。
「案外に、渋いところが好きなんですね。ぼくには、玉出さんの方が意外だけど」
そんなにミーハーに見えるんでしょうか? と問いたい気持ちをグッとこらえた。
倉岡さんがため息をついた「渋い」ジョッキーは、不器用だし無愛想だからアンチも多い。だけど、ファンをなにより大事にする人だ。
「そうかなあ。前にね、ある重賞を勝ったときにね、わたし、ウィナーズサークルからかなり離れたところにいたんです」
「ええ」
「その時、ちっちゃく手を振ったらね。プレスに応えながら、こっち見てね。にこにこってして、ちっちゃく手を振りかえしてくれたの」
「へえー」
倉岡さんは、もじもじしながら話すわたしを見て目を細めた。
「いい男ですねえ」
「そうでしょう? そのあと、その重賞を勝った馬と一緒にダービー初勝利を決めたんですよ」
「それはすごいなあ」
やばい。
どんどんヘリウムトークに惹かれて行ってしまっている自分がいる。
わたしは彼から視線をそらし、下を向いた。倉岡さんの声がする。
「んー、でも。ぼくは玉出さんが『どうして競馬場に来るようになったのか』も知りたいかなー」
き、聞かないで。
「いいじゃありませんか、教えてくださいよ」
「おっ男に振られたのがキッカケですが、そっそれがなにか?」
「誰にだって、そんな時はありますよ」
わたしは唇を噛んだ。なんだって、こんなことを言ってしまうんだろう。これも倉岡営業マジックなんだろうか。
「ほんと、玉出さんって意外性のデパートみたいな人ですねえ」
倉岡さんは言いながら、けらけら笑う。嫌味のない笑い声が、青空に吸い込まれていく。
「わたしにだって落ち込むときはあります。あんまり笑うと、その細い腕をへし折りますよ?」
彼は両手のひらを空に向け、軽く持ち上げて見せた。
「勘弁してくださいよ」
「ほんっとに細いから、一度、へし折ってみたいと思っていましたんで」
わたしは笑いながら言っている。
「やめて」
「嫌なら現在の体重を述べよ」
「五十二キロです」
「へっ?」
「五十二キ」
「喧嘩上等と受け止め、やっぱり折らせていただきます」
あはは、と倉岡さん。今度は顔を赤くして、かなり長い間ウケていた。それから改めて、硬い椅子に座り直す。
「失礼しました、ぼくも玉出さんと似たようなものですよ」
「あ、そうなんですか?」
「ぼくも昔、付き合っていた彼女に振られて、気分がムシャクシャしていた時期があったんです」
「ふうん」
「競馬はたまに買う程度だったんですけどね。そんな時にね、厩舎が放火で焼失した事故を知ったんです」
「ああ、あの有名な」
「そう。『エガオヲミセテ』が焼死したっていう」
「『エガオヲミセテ』のオーナーが後日、焼失した厩舎に預けた馬名も洒落ていますよねえ」
「そうそう。『ゲンキヲダシテ』ですね」
倉岡さんは、うれしそうに口角を上げた。
「その事故を知って、本当に元気をもらったような気がしたんです。だからかなあ、玉出さんと同じように勝てない競馬をしてしまう体質になっちゃいました。まあ、それで新しい出会いもあったりしたんですけれどもね」
「……褒められているのか、貶されているのか。よくわからないんですけれど」
「共感しているんです」
「面映いっていうんですか。全身が、くすぐったくなります」
照れくさくなって競馬新聞を広げる。倉岡さんが覗きこんできた。
「倉岡さんも買えばいいじゃないですか、なんのために競馬場に来てるんですか」
憎まれ口を叩いた。
「だってぼく、今日は賭けに来たんじゃないんですもん」
「は? どういうこと?」
「玉出さんを慰めに来ました、なんちゃって」
ヘリウムは口角を上げ、瞳を輝かせる。
はあ?
同僚の冗談めかした口調に、わたしの全身にボッと火がつく。
その時、倉岡さんのコートのポケット辺りからショパンのピアノが鳴り響いた。彼はいそいそとポケットをまさぐり、パネルを見た瞬間に眉毛をデレデレと下げた。
女か、と直観したわたしの眼前、すっくとヘリウムは立ち上がる。
「あっごめん、すぐ行く! ごめんね、お父さんに謝っておいて! 着替え? するよ、もちろん! あのね、もし良かったら職場の同僚を連れて行ってもいいかなあ、うん、聞いてみる」
「へっ? そ、それって。わたしのこと? って、どこに?」
彼の顔が、真っ赤になった。
「きっ貴賓席。一応」
「え」
察したわたしは、激しく首を横に振った。こんなスポーツブランドジャージ姿で、行けるわけがないじゃないですかー。
やだー!
「くっ倉岡さん、わたしのことはいいから! 早く彼女のところに行ってあげて。着替えもしないとならないんでしょ?」
「玉出さん、ありがとう。ごめんねっ!」
ヘリウム男は、しゅたっ! と手を上げて風のように去って行く。第何レースかは知らないが、おそらく、どこかのレースに出る馬の馬主は恋人の家族だ。そして、貴賓室はスーツにネクタイ着用という格式高い場所。
彼はわたしと話している代わりに、お着替えタイムを削っていたということなんだろう。
「あーあ」
ぽつんと残されたあと、電光掲示板を眺める。奇妙な脱力感が全身を包んでいく。
そういえばさっき言ってたな倉岡さん。新しい出会い、って。
ようし! わたしはドバイの大富豪を! ……って、あるわけないか。
ふふっ、と口元をゆるめたわたしの鼻先、馬の匂いがかすめていく。
笑顔を見せて。
何気なく付けた名前という記号が、人の気持ちを和ませていく。
元気を出して。
そうだね、心の底から元気を感じられるときまで。誰かに言われたいし、言ってみたい記号かもしれないね。
わたしは立ち上がり、貴賓室の方向へ「ぺこん」とお辞儀をしてみたよ。