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忍ぶる者の道程

作者: 芝田恵樹

 暗がりの中、ろうそくの火が揺れる。

 照らされた畳は黄金色に光り、影との狭間に部屋の主が鎮座している。

 あぐらをかいているものの雑念を払った射るような視線からは、どこか威厳と高貴さを漂わせている。

 殿、と奥の闇から声がした。

「ではそのように」

「頼む」

 闇の中でぎ、と軋む音がして、間もなく静寂となった。

「上手くやれよ、介蔵」

 殿と呼ばれた部屋の主は天を仰ぎ、ろうそくの火を消した。まるで最初から何もなかったように、寂寥も感じさせぬ無常の闇がその場を支配した。

 かちりかちりと硬質な音が響く。蛍光灯の明かりが六畳一間を照らした。がらがらと窓を開けてロウの熔けた匂いを払い、万年床の潰れた布団に座り直す。

 十四型のテレビを点けるとパンツが見えても物怖じしない女児が縦横無尽に駆け回る活劇が始まっていた。

「我が影武者という役、見事果たしてみせい。嗚呼、ミサたん萌え」


 いい加減に登校しなければ進学できないという警告を三度目に、ようやく殿が腰を上げたのは昨日のことだ。

「この生活も潮時か」

 何も言わぬ両親という状況に甘んじて好き勝手にやってきたが、覚悟を決めるときかもしれぬ。常時稼働しているデスクトップPCが愛しくて撫でていると、天井裏から声がした。

「殿、まだ終わりではありませぬ」

 紫色の布で目以外を覆った男が、天井から逆向きに顔を出していた。

「殿のためとあらば、この身を捨てることいとわず」

「その言葉、影武者という捨て役なるぞ」

「仰いますな。全ては金沢家、そして殿のため。この差谷介蔵、どんな汚れ役も喜んで引き受けましょう」

「その忠誠心、末代まで語り継ごう」

 殿は泣いた。音を立てず、歯を食いしばった。長年従う介蔵もまた、一筋の涙を流したという。



 半年ぶりの登校ともなれば周囲からの好奇な目、圧倒的な授業内容の遅延、指のささくれを眺めるだけの休み時間という苦境に身を置かねばならない。

 いかに屋根裏で一人黙々と読書に務める介蔵であっても心身をボロボロにして帰ってくることだろう。

 せめてもの手向けとして、温かい御茶を湯飲みに注いでおいた。泣きじゃくっても良いようにティッシュも置いておく。

 午後の四時を越えそろそろ帰宅かと思われたが、長針が一周しても帰ってこない。よもや事故にあったのではとそわそわして家庭用ゲーム機を起動して、ずぶ濡れになった文化系女子と肩を寄せ雨宿りしている頃だ。 「只今」と背後から声がした。

「どうであったか」

 殿は安堵の息を吐いてから訊ねた。声と同時にテレビ画面だけ消した。長針はさらに一周していた。

「申せ」


「殿があのような苦境に身を置いていたのかと思うと我が身の存在を改めたくなりまする。何のための従者か。何のための忍装束か。ああ、もちろん此度は殿の変装をして行った故、制服姿ではあるのですが。学ランというものは慣れないものですな。黒色ですが闇に潜もうにも、このボタンが妨げ――。申しわけ御座いません、報告を致します。

 まず道すがら、斎藤家の飼い犬が恐れ多くも殿のお姿にわんわんと声を荒げましたのでクナイを投げました。ご安心を。影を縫ったまでです。動けないところ近寄って観察するに、これは空腹によるものであるなと合点がいき、くわえていたパンをやりました。殿のお姿でそのような行為をしたこと、お許しください。しかしこれであの犬は、殿に対して今後蛮行を働くことはないでしょう。

 教室に着いてからですが、人の多さに立ちすくんでいたところ、不貞の輩が小突いてきました。骨田という名前とは正反対の巨漢でした。手裏剣を投げたかったのですが生憎持ち合わせがなく、手近にあった四角い物を代わりにしました。実に持ちやすく手にしっくり来たのですが、これが投擲物ではなく目隠しの為のものであったようで、白い噴煙がもくもくと彼奴の顔から立ち上ぼり、顔面も真っ白でした。その滑稽極まることといったら石川五右衛門も声を潜めることが叶わぬのは間違いなく、高らかに笑ってしまいました。放課後に決闘を申し込まれ、殿のお姿で無様な真似は出来ぬと受けて立ったのです。が、恥知らずな彼奴は五名の仲間を連れて体育館裏に現れたのです。なんと気持ちの良くないことをと説き伏せようにも、連中全く意に介さず襲いかかってきたものですから蛙を喚びました。蛙といってもガマ蛙の大きな奴でして、四人くらいなら丸呑みに出来る奴です。最初の二人を平らげてやったれば、他の者共、蜘蛛の子のように散り散りに逃げていきましたわ。はっはっはっ。今回の御喚び代は人間二人で済みましたし、気持ちのいい話です。はっはっはっ。

 そして帰り道なのですが、ちょっとですね、不味いことになりました。いえいえ、丸呑みにした二人は大丈夫でしょう。骨田が大人に報告したところで誰も信じませぬ。下校中、後ろから並々ならぬ気配を感じて――駄菓子屋を抜けて二百メートル歩いたところです。電柱に隠れる女が一人いたものですから、曲がり角を曲がったと見せかけて背後についたのですが、それが変わり身の丸太だったのです。捻り上げたと思った右手は荒縄で、驚いた私の隙をついて、逆に手を捻られてしまいした。その女、同じ学校の制服を着ていたのですが、私と同じ影武者だそうで。いやあ、いるものですね、忍者。右手が自由にならず、万事休すかと思われましたが、そこへ斎藤家の犬が女に向かってわんわんと吠えたてました。怯んだ隙に脱したものの、その追跡がねちっこく、こちらも防戦したのですがとうとう影をクナイで貫かれ、これはもう駄目かと思った刹那、女が話しかけてきました。「貴殿の殿によろしく頼む」と、これを。やに可愛らしい、洋帯でくるまれたピンク色の小箱です。一応まだ開けていませんが、火薬の臭いはしません。むしろバターとカカオのいい香りがします。何ですか突然ゲーム機の電源を消して。この箱、私が開けましょうか? あ、よろしいので。ではどうぞ。

 ――ほう、これは見事な洋菓子だ。一見全体が暗い色でありながら、材質や塗布を変化させ、彫刻のように美麗にしていますな。敵ながら天晴れ。こちらも何か意趣返しをせねばなりますまい。ああ、来月の今日にそういう日があるのですか。なかなか粋な風習ですね。しかしさすがは殿。学校に行かずとも慕われるとは、生まれながら人を惹き付ける才をお持ちの方だ。その者の名前ですか。薩摩原という者です」

「そいつ男だよ。薩摩原大介っていうバスケ部だよ」

「なるほど、影武者がスカートを履いていなかったわけですな」

 窓から矢が飛び込んで、部屋の柱に刺さった。介蔵はいそいそと矢の先にくくられた手紙を解き、目尻をだらしなく緩ませた。

 窓の外、電柱の上に忍装束をまとった女が照れながら姿を消した。

 殿の頭に電撃のような閃きが走る。くのいちに追跡されたとはいえこの帰宅時間はどういうことなのか。帰ってきてから少し態度が違う気もする。頭の布もどこか、乱れているような。

「殿」

 介蔵は天井に戻る際、言った。

「本物の女もいいものですぞ」

「まさかお前、帰宅の道程に、道程に」

 にこりと天井へ帰っていく。鼻唄がこぼれてくる。ちょっと懐かしいラブソング。

 殿は泣きじゃくった。震えながらティッシュを用意しておいてよかったと思った。お茶は冷たくなっていた。


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