ある日、エズメ様に振られる日
なんだか最近、おかしい気がするの。
お父様もお母様も、なんだかわたしを持て余しているみたい。わたしに向ける目が、ときどき我が子に向けるものじゃないように感じるの。
もっとわかりやすいのはセシリア。姉であるわたしのことが嫌いだと、全身で叫んでいるかのような態度を取るのよ。それはハリネズミみたいで、わたしもなんだか憎らしくなってくる。
前は……こんな風じゃなかった、気がする。
でもその「前」って、具体的にいつぐらいの時期を指しているのか、言い出したわたしすらもうわからない。
でも、でもおかしい気がするのだけはたしか。
おかしいのはエズメ様もそう。やっぱり彼も、婚約者であるわたしのことを持て余しているような目をするのよ。なにかよくないことを考えている目……それはきっと、気のせいじゃない。
いいえ、すべて気のせいだったらいいとは思っているわ。今、わたしが感じているすべてはまやかしで、悪夢を見ているだけなんだって。
わたしは……家族から愛されていた、はず。エズメ様との仲も良好だった、はず。
そのはずなのに、具体的な出来事を思い浮かべようとしても、頭の中ではっきりとした像を結べない。
なぜ? どうして? ……わからない。わからないことだらけの中でも、でも私が家族から、エズメ様から愛されていたのはたしかなのよ。
そんな感覚が……そう、そうよ、ここ一ヶ月ほど消えてくれない。
一ヶ月。短いような長いような。あっという間に過ぎ去って行ったような、永遠にも近しい時間を味わったような……。
一ヶ月。エズメ様から久方ぶりにお誘いを受けて、グレイ邸へ赴くことになった。ゆっくりと、お茶とお菓子を味わいながらエズメ様とお話しでもできれば、わたしの中にある正体の見えない霧がかったものだって、すっきりと晴れる気がする。
仕立ててもらったばかりの、流行りの型のドレスに身を包む。「それでいいの?」お母様が怪訝な目つきでわたしを見る。セシリアは、怒ったような顔をして引っ込んだ。
お母様がいったい何に気を揉んでいて、セシリアが何に怒っているのか、わたしにはわからなかった。
グレイ邸へ赴き、老齢の家令に先導されて屋敷の中庭に出る。グレイ邸の中庭では、いつの間にか秋バラが優雅に咲き誇って目や鼻を楽しませてくれる。小ぶりではあったが立派な造りのガゼボには、既にエズメ様がいた。
わたしの心は浮き立って、エズメ様しか見えないようなありさまだった。
エズメ様はいつも通りに物腰柔らかく微笑んで、わたしをガゼボに招き入れる。そして控えていた家令と女中を下がらせ、人払いをした。
わたしの心はどきどきと音を立てた。婚約しているとは言えども、開放感のある中庭とは言えども、未婚の男女がふたりきりになるのは少し勇気が試されることだ。
エズメ様に勧められるまま、ティーカップにそっと口をつける。初めて口にする銘柄だったけれど、嫌いではなかった。
「あのね、今日は大切な話があって、貴女を呼んだんだ」
エズメ様はティーカップに口をつけなかった。テーブルの上で左の手の甲に右の手のひらを重ねていた。
「お話?」
わたしはほとんどオウム返しに問う。
エズメ様は灰色の瞳を細めて、わたしを見つめた。
「私には、大切なひとがいるのは知っているね?」
エズメ様のすぐそばで、ティーカップからゆったりと湯気が立ちのぼっているのが見えた。
「貴女とは違う、大切なひとだ」
わたしは動揺しながら、それでもティーカップをソーサーに置いた。がちゃん、と乱暴で品のない音がした。
「エズメ様? ……わたしたち、婚約していますよね?」
震える声で問えば、エズメ様はうなずきはしなかったものの、しかし「そうだ、シルヴィとね」とこともなげに言う。
「どういうことですか?」
声はみっともなく上ずっていた。疑問、戸惑い、怒り、悲しみ。様々な感情がそのたったひとことの中に溢れ返っていた。
「そのままの意味だよ」
エズメ様の灰色の瞳は、もう微笑みかけてはくれていなかった。
「私には、大切なひとがいる。私と貴女が『シルヴィ』と呼んでいる女性、貴女の幼馴染、貴女の友人。私が愛しているのは貴女ではないんだ、ルーシー・ジーン」
怒りと恐怖に駆り立てられて、あたしは立ち上がった。花飾りを模した髪留めが、あたしの見えないところでパキパキと硬質な音を立てる。
悲しみと絶望に駆り立てられて、あたしはエズメ様を見た。エズメ様の灰色の目を見た。灰色の目は、得体の知れない爬虫類のまなこのように見えた。
あたしはエズメ様を見て、唇を開いたが、まるで酸欠の魚のように口を開閉させることしかできなくなっていた。
「貴女の『落とし物』を……一緒に捜してから、変な噂が流れたね。まるで私と貴女が通じ合っているかのような。……貴女はその噂話を肯定することはなかったけれど、否定することもしなかった」
「……優しくしてくれたくせに」
やっと出たひとことは、へそ曲がりな子供のようだった。
「『落とし物』だっていうあたしの嘘を暴かなかったくせに! あたしに優しくしてくれたくせに! なによ! なんで、どうして――」
「『どうして』は私が聞きたいかな。どうして――亡くなったはずの貴女が、シルヴィの中にいるの?」
髪留めがまたパキ、と音を立てる。
「一ヶ月前に貴女は亡くなった。もともと呼吸器が弱く、そこへ流行り病にかかって、息が止まってしまったと」
髪留めがパキ、パキ、と音を立てる。
「シルヴィは――貴女にとって、親友ではなかったの? 答えて、ルーシー・ジーン」
「だからよ」
「『だから』?」
「だから――……いちばん泣いてくれたの、あたしのお葬式で。だからよ。だから、シルヴィなら。シルヴィなら……」
――父と義母はあたしを持て余していた。あたしは庶子で、義母が子に恵まれなかったから、仕方なく引き取られた。けれどもあたしも生まれつき体が弱かった。
――父親同士の領地が近かった関係で、あたしとシルヴィは友達になった。シルヴィはご両親から愛されていて、妹とも仲が良かった。その妹は、あたしとはどうしても反りが合わなかったけれど。
――あたしはシルヴィが好きだった。あたしはシルヴィが羨ましかった。あたしはシルヴィが憎らしかった。……でもやっぱり、シルヴィのことを愛していた。だってあたしに向かって、てらいもなく「大好きよ」って言ってくれるのは、シルヴィだけだったから。
「――だから、あなたなら、そう思って。……ごめんね、シルヴィ」
――さよなら、シルヴィ。あたしの親友。
あたしがシルヴィに贈った、薄紅色のバラを模した髪飾りが、音を立ててついに壊れた。
*
わたしが次に目を覚ましたとき、すぐそばにはエズメ様がいらっしゃいました。
「ごめんよ。でもこうするしかないと思って」
エズメ様のご実家であるグレイ家は代々王墓を守護する家系であるせいか、亡霊や邪心、妄念といったものから生じる種々の、本来であれば目に見えない事象についても大変造詣が深いのだそうです。そういった噂は社交界で耳にしたことがありましたので、特段おどろきはしませんでした。
エズメ様が謝罪なされたのは、わたしのティーカップに一種の自白剤に使われる薬草を煎じたものを淹れたことでした。これは昔から魔祓いに用いられる秘薬だそうで、それをわたしに一服盛ったことをエズメ様は後悔なされているようでした。
わたしは仕方のなかったことだと、エズメ様に言いました。
「わたしも、謝らなければならないことがあります。エズメ様とルーシーの仲を、いっときでも疑ってしまいました」
ルーシーはわたしとは違い、言いたいことはハッキリと言ったし、嫌なことは嫌だと突っぱねられたし、嫌味を言われれば言い返せた。わたしはそんなルーシーに憧れていた。令嬢としてはふさわしからざる振る舞いだったとしても、わたしにはルーシーはまぶしく見えた。
だから、エズメ様とルーシーが通じ合っているかのような噂が学園でささやかれたとき、わたしはそれを事実無根だと信じないことが、できなかった。
ルーシーとわたしは違ったから。自分への自信のなさゆえに、わたしはエズメ様とルーシーが通じ合っているかもしれないという、愚かな疑念を抱いてしまった。
エズメ様は仕方のなかったことだと、わたしに言いました。そんな風に悪意を持って噂を流した人間が一番悪いのだと。
「……でも、気づきました。わたし、どうしてもエズメ様の隣は譲れないと。エズメ様を……愛する気持ちだけはだれにも負けない。負けたくないと思いました」
ルーシーが真実を突きつけられたとき、その中にもたしかにわたしはいたのです。
エズメ様が、「貴女とは違う大切なひとがいる」――そうおっしゃられたとき、わたしの心はたしかな痛みを感じました。それはルーシーが感じた痛みであり、わたしが感じた痛みでもありました。
自分に自信がなくて、ルーシーのように確固たる自分というものを持っていないような気がして。でも、それでも、エズメ様の婚約者の座をだれかに譲るだなんてことはできない……。今回の一件で、初めてそんな自分に気づけたのです。
……わたしがとつとつとそう語れば、エズメ様はどこかうれしそうにはにかみました。
「ありがとう、うれしいよ」
「でも、わたしは――」
「疑ってしまったことはもう謝らなくていいよ。先ほどの言葉で帳消しどころか、お釣りが返ってくるくらいだから」
「……ずいぶんと、甘いのですね」
「甘いのは嫌かい?」
「ほどほどであれば……。――ところで、わたしがルーシーに……ええと、憑依? されていることはどうやって知ったのですか?」
「もともとそういうものが感じ取れる血筋、なんだけれども……確信を持ったのは、私の前で食事をするのに恥じらっていたことかな」
「えっ」
「シルヴィはふたりきりのときなんかはもっとたくさん食べるのに、どうしてこんなに少ない量しか食べないんだろう。おかしいぞ、と――」
なんとなく改まって指摘されると気恥ずかしく、わたしは思わず視線をそらしました。そうして向けた視線の先にはちょうど、丁寧に広げられたハンカチーフがあり、そこには壊れた髪留めの破片が集められていました。
「あ……髪留め……」
「ああ……壊れてしまったものだけれど、シルヴィにとって大切なものだったのだろうと思って」
「ありがとうございます。はい、大切なものなんです。誕生日にルーシーから貰ったものですから。ルーシーと、お揃いのもので……」
「そうか」
……ルーシーがわたしに取り憑いたのは、取り憑けたのは、どこかわたしの中にルーシーと別れ難かった気持ちがあったからかもしれません。
エズメ様もそんなわたしの気持ちに気づいたのでしょう。
「シルヴィの体調が戻ったら、ルーシー嬢のお墓参りに行こうか」
「はい」
そのときには、ルーシーが好きだった、薄紅色のバラの花束を持って行きたい。
そうしてそのときに、きちんと言うのだ。
――さようなら、ルーシー。わたしの親友。




