7 赤毛の嫁による浸食
その日から、崇詞は炎を操ることができるようになった。
崇詞の家に伝わる、異能の力だ。
全てを燃やす、粛清の狐火。
帝が求める、今や崇詞しか使うことができぬその力。
(条件は満たしたということなのだろう)
結局、崇詞は妻となった女に触れていない。
しかし、事は成った。
であれば、何の問題もない。
しかし、そう思っていたのは、崇詞だけだったようだ。
「お金以上のものを、私はいただいています。この身を賭して、心よりお仕えします」
そう言って再度目の前に現れたのは、妻となった女であった。
萩恒公爵家の用意した着物で美しく着飾った彼女は、たいそう美しかった。
公爵である崇詞に怯まぬその様子は、まるで戦場の戦士のようでもある。
そして、澄んだ赤色の瞳には欲の色がなく、真面目さと愚直さだけが窺われる。
「俺の枷となるな」
それを口にしてしまったのは、きっと女が不意に現れたことで崇詞の心が乱れてしまったからだろう。
(まあ、もう会うこともあるまい)
そう自分の心を落ち着ける崇詞。
しかし、その考えは甘かった。
日に日に女は崇詞の視界に現れるようになり、終いには風呂場に裸で突撃してくるまでになってしまったのだ。
~✿~✿~✿~
「お前は何を考えているのだ!」
崇詞は風呂場の内扉を押さえながら、悲鳴のような声で叫んだ。
先ほどまで、崇詞は熱い湯に浸かりながら、この世の嫌なことをすべて忘れようと、思考を無にしていたのだ。つまり、崇詞は至福の時を過ごしていた。
しかし、そんな最中、女が裸で突入してきたのである。
まさかの事態に仰天した崇詞は、慌てて女を追い出して扉を閉めたけれども、女は扉にしなだれかかっているのか、ぎしりと戸が音を立てて、間近に声が聞こえる。
その様子に、思わず呼吸が荒くなり、じっとりと汗がにじむ。
何故だ。崇詞が男で、相手が女のはずなのに、ひどく追い詰められたような心地になるのは一体何故なのだ。
「夫婦の契でもこなそうかと思いまして」
「風呂場で初夜を迎えようとするんじゃない!」
「普通でない環境の方が殿方は燃えるのですよね」
「……誰から聞いた知識だそれは」
「ここの家令と侍女から頂いた卑猥な本の知識です」
あいつらは!!!
一体何をしているんだ!!!!!!!
「仕方ありませんね。今日のところは引きましょう」
「毎日引いてくれ」
「明日はお背中を流してみせます」
「これは勝負ではないぞ」
「はい。愛の行為ですよね」
違う。
そう思ったけれども、崇詞はそれを言葉にすることができなかった。
その沈黙をどうとらえたのか、くすりと笑うと、妻と思しき女は脱衣所を去って行った。そのような音がした。
……どういう意味にとらえたのだ。
というか、出ていくのが早くないか。
着物は着ていないのか? 裸で出ていったのか?
「――お前」
「はい」
「うわぁああぁあ!!!!」
思わずガラリと風呂場の戸を開けたところ、そこには真っ裸の妻が笑顔で立っていた。
崇詞は本気で悲鳴を上げ、再度、ガラリと戸を閉めた。
「かかりましたね」
「だからなんの効果があるんだそのだまし討ちには嬉しそうにするんじゃない!!!!」
ふふ、あはははと、鈴の音が鳴るような笑い声が聞こえて、ようやく妻なる女は立ち去って行った。そのような音がした。
いや、本当に立ち去ったのか?
まだ脱衣所にいるのではなかろうか。
この女ならやりかねない。
その日、崇詞は長湯をしすぎて、倒れる寸前までのぼせてしまった。
廊下を朦朧としながら歩いているところを善治に捕獲され、冷やし手拭いに水にと看病をされながら、内情を聞きだされる。
そして、「申し訳ありません」と真面目な顔で部屋を出ていった善治の笑い声が廊下に鳴り響いていたことを、崇詞は一生忘れないと心に恨みを刻みこんだ。
~✿~✿~✿~
翌日からも、女はおかしかった。
「おはようございます、崇詞様」
当然のような顔をして、朝餉の場に同席しているのだ。
「……一緒に食べるとは言っていない」
「一緒に食べないとはおっしゃられませんでした」
「昨日の今日でよくもまあ」
「昨日の今日だから、私と会えて嬉しくありませんか」
バッチン!と片目を閉じられて、崇詞が固まっていると、女は意外そうな顔をして赤い目を瞬いた。
「おや。私がやっても効くものなのですね」
「俺は実験台か」
「貴方が初めての男なので、そこはご容赦いただきたく」
「……ん?」
「私は男に秋波を送るのが初めてなので、どのような効果効用があるのか、好く分からないのです」
ニカッと白い歯を見せながら快活に笑う女に、崇詞は胸の内がそわそわとして、思わず目を逸らしてしまった。
そうか、初めてなのか。
そういえば、その辺りのことはなんら気にしていなかった。
どうせ抱く予定はないので、経験豊富が過ぎて病気を持っていても構わないと思っていた。
しかし、そうか。
崇詞が女にとって、初めての……。
(いや。どういう思考なのだこれは!)
崇詞はガタリと音を立ててその場から立ち上がり、部屋から出ていこうとする。
すると女が素早く扉の前に立ちはだかった。
「いけません!」
「……邪魔だ、そこを退け」
「お食事を摂らないのはいけません。私がこの場を失礼します。壱子ちゃん、ご飯を和室へ!」
「かしこまりました!」
意外な言葉に崇詞が目を丸くすると、目にも止まらぬ速さで女は立ち去ってしまった。
侍女の壱子も、目にも止まらぬ速さで女の食事を盆にのせて持ち去った。
ここでようやく、崇詞は、女がすぐに立ち去れるように皿数の少ない食事を自分の前に並べており、侍女とも連携していたのだと気が付いた。
~✿~✿~✿~
(違うのだ……気遣いの方向が、違う……)
執務室で書類仕事をしながら、崇詞はこめかみに手を当てる。
人にあてがわれた妻だ、どんな女でも構わないと思っていたが、一体あの女はなんなのだ。
「犬みたいな方ですね」
「……ん?」
「崇詞様の奥様です。崇詞様に忠誠を誓う犬のようです」
何も言っていないのに、家令の善時はそれだけ告げて去っていった。
崇詞は唖然としながら、家令の去った後の執務室の扉を見つめる。
別に女の話をしていないというのに、その読心術は一体なんなのだ。
(……善治は、気に入っているのか)
どうやらうちの家令は、あの女を崇詞の妻として認めているらしい。
何故だ?
どの辺が認める要素になっているのだ?
破廉恥具合?
~✿~✿~✿~
「……お前は懲りることを知らないのか」
ある日、廊下の柱に妻なる女を紐で括りつけながら、崇詞は呆れ顔で思わずそうごちる。
「妻を柱に括りつけるというのも、なかなかに際どい趣味でございますね」
「趣味でやっている訳ではない」
「ああっ、紐で縛られた手首が痛うございます。もう少し緩めてくださいませぇ……っ」
「変な声を出すな!」
「どうしてもこの儀式が必要なのですか?」
「どうしてもこの儀式が必要である事実については、俺も中々に受け入れがたいよ」
ため息を吐く崇詞に、妻なる女はけらけらと楽しそうに笑っている。
実はこの女、二日連続で崇詞の風呂場に裸で突入してきたのだ。
二日目に至っては、閉めようとした扉に箒をかませて、扉が完全に閉まらないようにする徹底ぶりである。
出ていけ出ていかないの問答が続き、ひとしきり会話をした後、妻なる魔性の女は満足したのか、「湯冷めしますよ。長く湯に浸かってくださいね」と分かっているのか分かっていないのか全然分からない気遣いの言葉をかけて去って行った。
昨晩、長湯でのぼせかけた崇詞への嫌味なのかと一瞬思ったけれども、あの女はその手の嫌味を言うような女ではないと思いなおす。
(……いや、どういう思いなおしだ)
そして三日目以降、崇詞は風呂に入る前に妻なる謎の女を柱に括り付けることにしたのである。
「一緒にお風呂に入れば全ては解決するのですよ……」
「幼子を諭すような言い方でその内容を口にすることに躊躇いはないのか」
「柱に括りつけられている間、暇でつまらないので、これを解決したいのです」
「品性と自粛という文字を学べば全ては解決するぞ」
「旦那様に色欲と偏愛という文字を刻み込んだ後なら、その言葉を教えていただくのはやぶさかではありません」
旦那様。
その言葉に固まった崇詞に、女はぱちくりと目を瞬く。
そして女は、これが貴様の弱いトコロかと言わんばかりに、美しい唇を弓なりに曲げた。
「旦那様……?」
「……っ」
「あれ? だ、旦那様ー!?」
崇詞が顔を真っ赤にして走り去る様に逃げたので、廊下に女の美しい声が響き渡った。
その日、崇詞は風呂から上がった後、暫く廊下の端でこれ見よがしに寛ぎながら、女の紐を解いてやらなかった。
柱に拘束された女は散々文句を言っていたけれども、正直、これぐらいの意趣返しは許されると思う。
~✿~✿~✿~
そしてある日の夕餉において、洋間で小鍋いただこうと箸を持ち上げたところで、家令の善治が手紙を差し出してきた。
「なんだ?」
「果たし状だそうです」
誰からの文と言われなくとも、差出人が分かってしまう。
崇詞は嫌な予感がする中、その文を手に取り、ゆっくりとそれを開く。
そこには、こう書かれていた。
――食事に手を付ける前に、和室に来られたし、旦那様。
ちゃんと崇詞の弱いトコロを突こうとするその文面に、ビキビキと血管を浮かび上がらせながら、崇詞は文を渡してきた家令を見る。
「……善治?」
「まあ、その」
「善治」
「行った方が、好いと思いますよ」
目を逸らす再従兄に、崇詞は目の前の食事を見つめた後、ため息を吐いて席を立つ。そして、和室へと足を運ぶ。
(一体なんなのだ。いつもいつも、構ってきて)
崇詞は、それどころではないのだ。
日々の仕事に鍛錬、そして祭の準備がある。
だから、こんなふうに他所事に思考を割いている暇などないはずで。
(そういえば、あまり祭のことを考えていない気がする)
あの女が毎日のように色々なことをやらかすから、考えがまとまらないのだ。
見てしまった豊満で美しい裸体は毎日のように脳裏でちらつくし、愛らしい声も、美しい顔も、日を経るごとに艶やかになっていく赤みがかった髪も、なぜか布団の中でだけ大人しい女の軽やかな寝息も、崇詞の頭の中を毒のように浸食している。
「あ、崇詞様。いらっしゃいませ!」
和室の障子を開けると、そこには鍋を囲む家族が居た。
くつくつと音を立てながら煮えている鍋、煮込む前の具材の乗った皿。
そして、鍋の乗った炬燵でぬくぬくと温まりながら、小皿を手にする妻と、侍女四人と、六歳の弟。
「にぃさま!」
ぱぁああ!と華やぐ笑みを浮かべた弟に、崇詞は身じろぎする。
祭を行うと決まってからというもの、崇詞はあまり弟に会わないようにしていた。
しかし、そんなことを知らない弟は、心底嬉しそうな顔で炬燵を抜け、こちらに走り寄って来る。
「にぃさま! にぃさま!」
「あ、ああ……久しいな、聡詞」
「今日はお鍋、にぃさまと一緒に食べられるの?」
崇詞は膝を折り、小さな弟の頭を撫でながら、どうしたものかと困惑気味に顔を上げる。
すると、侍女達はサッと目を逸らし、女は真っすぐに崇詞を見つめてきた。
「崇詞様。一緒に食べましょう!」
ニコニコと笑う女に、崇詞は心の白旗を上げた。
なんだかとても眩しくて、孤高奮闘する崇詞では、とても敵わないと思ったのだ。
つんと鼻が痛くなり、それを隠すように、弟をぎゅっと抱きしめる。
「にぃさま?」
「いや。……うん、一緒に食べようか」
「!! にぃさま! にぃさま!」
「ほら、はしゃぐ前に飯だ飯」
興奮ぎみの弟をなだめながら、崇詞は炬燵の中に入る。
そうして、崇詞は久しぶりに、家族と一緒に夕餉を摂ったのである。