13 狐の嫁の決意
四人は、蒼白な顔をして震えていた。
最初に口を開いたのは肆乃だ。
「……おっしゃるとおり、崇詞様は、白蛇退治に向かいました」
「肆乃!」
「お二人に伝えるなんて」
「敵は天秤の白蛇です。五大公爵家が一つ、金を司る経毘沼家の祭る蛇神にございます」
「参瑚!?」
「貴方まで」
「水金地火木のうち、金に勝てるは火のみ。金を司る天秤の白蛇に勝てるのは、火を司る萩恒公爵家の男だけなのです」
話し始めた妹双子の参瑚と肆乃に、姉双子である壱子、弐千果は、青い顔をして口を閉ざしている。
大日本帝国を支配する、帝と五大公爵家。
五大公爵家はそれぞれに、祭る神が居る。
水を宿す亀神を祭る稼目咲公爵家。
金を宿す蛇神を祭る経毘沼公爵家。
地を宿す人神を祭る与茂蔵公爵家。
火を宿す狐神を祭る萩恒公爵家。
木を宿す猿神を祭る猿渡公爵家。
そして、祭られる神には、相手を打ち滅ぼす陰の関係――相剋が存在するのだ。
金を滅ぼすは火の役目。
白蛇を退治する必要が生じたならば、狐神を祭る萩恒公爵家がこれを執り行うこととなる。
「経毘沼家の蛇神様を退治してよいのですか? あのお家の力は、この大日本帝国に必要なものです」
「静津、どういうこと?」
「経毘沼家の力は癒しの力なのです、聡詞様。私の母も、そのお力で治してもらおうと……」
静津の言葉に、参瑚と肆乃は頷く。
「奥様のおっしゃるとおりでございます」
「金を司る白蛇が人を治療し、木を司る呪いの猿神の力――死に、打ち勝つ。これが自然の道理にございます」
「お国にとって、人にとって、捨てがたい異能の力でございます」
「ですが、白蛇の力は万能ではありませぬ」
「異能の力は、万能ではありませぬ」
「無尽蔵に人を癒すことは、天秤が許さないのです」
「何かを成すには、代償が必要なのです」
「代償なくして癒しを使えば、天秤の白蛇の怒りを買います」
「怒りが貯まり、弾けます」
「弾ける前に、なんとかしなければなりませぬ」
「萩恒が、なんとかするのでございます」
ここまで言われて、静津はようやく悟った。
大金を積むと伝えただけで、母・多重の治療を快く引き受けてくれた経毘沼公爵家。
そうあってはいけないのだ。
異能の力は万能ではない。
そこに際限がないのだとしたら、何かを犠牲にしている。
通常、異能の力の跳ね返りは本人に来るはずだが、経毘沼公爵家が犠牲にしていたのは、自分達ではないのだ。
その代償をため込み、全てを萩恒公爵家に押し付けて、自身は好き放題に治癒の力を使い続けてきた。
家の人を増やし、力の使い手を増やし、人々からの感謝を一心に受け、そうして莫大な富を築いていく。
その横で、萩恒公爵家は、祭を直接の原因として、数を減らしていったのだ。
『我が家の血を引く者は、最早四人しかおらぬ』
そう言った崇詞の心中は、その怒りは、いかばかりのものであったことか。
『俺の枷となるな』
彼は踏み込むなと言った。
静津を拒絶し、聡詞から隠し、真実をすべて身の内に収めて、そして一人で走り出してしまった。
行かせるべきではなかったのだ。
こんな、あと四人しかいない小さな狐の家だけで、こんなことを続けられるはずがない。
静津はなんとしても、崇詞の邪魔をしなければならなかったのだ。
なのに、崇詞はすべてを秘めて行ってしまった。
そのように覚悟をした。
彼に、守るものがあったからだ。
守るもののために、命を使おうとしている。
『だから、イケニエは静津じゃない』
聡詞の見ている狐神の方が、ずっと分かっているではないか。
生贄は、萩恒家の男のほうだ。
崇詞がこの国の生贄だったのだ。
(どうしよう。どうしたらいいの父様)
静津のやりたいことは、定まっている。
そこに迷いはない。
けれども、力が足りない。
道が見えない。
(崇詞様を、助けたい。私は、どうしたら――)
それを思った時、静津の視界に、記憶が弾けた。
雪が降りしきる、見慣れた道すがらだ。
肺が凍りそうなくらい冷たい空気。
前回のあの、祭が行われた日のことだ。
静津は十三歳で、父・夏津八と一緒に、村で買った屋台の食べ物を手に、家路に就いていた。
息が白くて、何重にも布でくるんだ食べ物が、冷えきってしまわないか心配で。
けれども、最も心配だったのは、父の様子がおかしいことだった。
「すまないな、静津。父さんは祭が嫌いなんだ」
空気と同じくらい、固く冷たいその声音に、静津はどうしたのだろうと、父と繋いだ手をぎゅっと握り締める。
「お目出たいお祭りじゃないの?」
「名前こそ目出たいが、内実はそのような褒められたものではない」
「そうなの?」
「そうだ。そして、それを知る者は少ない。そして、数少ない狐の犠牲を知る者は、それを止めやしない」
いつも微笑んでいた父が、笑っていない。
憎々し気に言い捨てるそれはきっと、父の心を傷つけたことがあるのだろう。
「誰か、あれを止めないといけない。けれども、きっと途絶えるまで止まらないのだろう」
それを言う父の背中は、とても寂しそうで。
静津はそのことが、嫌だっただけなのだ。
「なら、静津が止めてあげる!」
静津の言葉に、父は目を見開く。
その赤い目には、そのときの静津には見えない何かが映っていた。
狐だ。
静津の周りに集まった狐を、父は見ている。
「父様は、祭が続くのがいやなんでしょう? 狐さんを、守りたい?」
「そう……そう、だな」
「じゃあ、静津が止めてあげる。おっきくなったら、みんなで話し合って、それで祭を止めるように決めるの。それでどうかな?」
父はいつも、大切なことは、村のみんなで話し合って決めるのだと言っていた。
だから、静津も真似事として、そのように告げた。
十三歳の、少女の戯言だ。
けれども、父の目からは熱い雫が零れ落ちた。
膝から崩れ落ちる父に、静津は仰天する。
「父様!?」
「お前なら、できるかもしれないな。狐の子を救うことができるのは、狐の嫁だけだから」
「狐の、よめ?」
「だがそのことを、今は知らない方がいいだろう」
父が静津の目に手を当てる。
視界が塞がれ、暗く閉じる中、父の声と冷たい空気だけが、静津を刺激する。
「亀に、蛇に、人に、狐に、猿に。すべてが歪み、世界がきしんでいる。子ども達を正すものはなく、唯一、義を掲げる役目を負ったはずの狐が、あともう少しで絶える」
「父様」
「我らの力を探す歪んだ者達が居る。故に、我らは身を潜めて生きねばならない」
父が何を言っているのか、静津には理解できない。
けれども、それはきっと大切なことなのだ。
だから静津は、分からなくても、その一言一句を心に止める。
そしてその記憶を、父は封じようとしている。
「今は忘れなさい、静津。お前が大きくなり、必要になったときに、狐神様が助けてくれることだろう」
そうして、静津は、その時あったことを忘れたのだ。
かけらは持っていたけれども、幼い彼女が志したことを、全て忘れていた。
記憶の海から戻り、静津は廊下の先に居る子狐を見る。
子狐だけではない。
そこには何匹もの狐が佇んでいて、静津を待っている。
彼らはずっと、この時を待っていたのだ。
静津が心を決めて、何を成すのか覚悟するときを、待っていた。
「……帝国神社に参ります」
「静津?」
「父様と、貴方達との約束のために。そして、狐の嫁としての責務を果たすために」
聡詞は、静津が何を見て、何を聞いているのかに気が付いたのだろう。
幼い狐の子である彼は、口を閉ざし、静津と共に狐神達を、まっすぐに見つめた。
そうして静津は、胸の内で燃える熱い思いを口にする。
「祭を止めます。私は夫を守ってみせる」
まっすぐに告げると、子狐が嬉しそうに、「コーーーーーン」と一声鳴いた。
その声と共に、静津は自分が、狐神の力を借りたのだと自覚した。
「火を司る、狐の炎」
そう告げると、手のひらに小さな炎が生まれた。
先ほど聡詞が使った薔薇色の炎だ。
美しく躍り上がる、狐の炎。
それを見た聡詞は、「わぁ」と喜色に満ちた声を上げ、侍女達は息を呑む。
ふと、炎を収めた静津は、侍女達を振り返った。
「私を崇詞様のところへ連れて行ってください」
「奥様」
「まだ、間に合います。お願い。帝国神社に、私を連れていって」
告げる静津に、参瑚と肆乃は身動きをせずに固まり、意外にも壱子、弐千果がその場で膝を負った。
「畏まりました」
「貴方様に従います」
「壱姉さま!?」
「弐千姉様」
「崇詞様を、お守りください」
「私達の主を、どうか」
頭を下げた二人に、静津は膝を折る。
「――必ず。ですから、早く」
二人は泣き濡れた顔を上げると、すぐさま馬車の手配に動き出した。
静津はその間に崇詞の私室へと急ぐ。
今の静津が着ているのは、上品で身動きのしづらい貴婦人用の上品な着物だ。
動きやすいものに替えねば話にならないと、崇詞の稽古着を拝借しようとしたところで、妹双子の参瑚と肆乃に止められた。
「奥様! かような恰好では、帝国神社の中に入ることができませぬ」
「せめてこちらを……!」
二人が差し出してきたのは、崇詞の正装たる羽織袴だ。
美しい刺繍が施されていて、戦場に着て行くものではないような気がする。
しかし、この水準のものを着ないと神社に立ち入ることすら困難なのであれば、致し方ないだろう。
素早く着替えを澄ませ、馬車に乗り込んだところで、静津の耳に、悲鳴のような幼い声が届いた。
「僕もいく!」
泣きそうな顔でこちらを見ている聡詞。
彼は、自分が置いていかれるのであろうことを知りながらも、必死に想いを訴えているのだ。
馬車に同乗している壱子と弐千果、そして聡詞を止めている参瑚と肆乃が、困ったように静津を見る。
静津はふわりとほほ笑み、馬車の中から手を差し出した。
「一緒に行きましょう、聡詞様」
息を呑んだ侍女達に構わず、静津は聡詞を馬車の中に引き上げる。
驚いているのは、侍女だけではなく、聡詞本人もだ。
「静津、いいの?」
「これは萩恒家の問題です。聡詞様は他の誰よりも、当事者でいらっしゃる。狐神様の加護があることでしょう」
静津の赤い目には、聡詞を囲む狐神達の姿が映っている。
ほほ笑む静津に、聡詞は周りを見渡した後、「うん!」と嬉しそうに頷いた。
揺らがない静津に、四人の侍女はため息を吐いた後、結局の全員が馬車に乗り込んできた。
お陰で、馬車の中は寿司詰め状態である。
「……全員来るのですか?」
「それはもう!」
「お家の一大事ですから」
「留守は洗濯の婆やと庭師の爺や任せているから大丈夫です」
「多分きっと大丈夫です」
開き直った様子の水色の瞳の侍女四人に、静津と聡詞は目を見合わせた後、思わず声を上げて笑った。
「静津。にぃさま、大丈夫かな」
「大丈夫にするために、行くのです」
静津の答えに、聡詞は暫く考え込んだ後、「うん」と神妙に頷いた。