詩と文法について。
「詩は文法を必要とはしない」
「詩は文法に頼らずとも成立しうる」
ニーチェ、ハイデッガー、サルトル、ブレイク……。世にいう異才たちが、最終的に「詩」に流れ着いた理由。それはやはり「文法からの逸脱」を目的としたから、なのかもしれない。
各々の事象が持つイメージ。
点の数々を一定の共通理解の下、それっぽく配置するルールを「文法」と呼ぶ。しかしながら、文法に沿ってイメージを並べてしまうと、「描き出さられる線」にも必然的に、ある種の制約がかかってくる。ゆえにそこからの逸脱を図る表現を―― 散文、詩と呼ぶのかもしれない。
イメージが持つ「手触り」を十全と伝えるための、敢えての解体。料理の材料だけを提示し、調理手順そのものは読み手側に委ねることによって、読者に「料理体験」をもたらす試み。
文法を持つ表現が「1.0」だとすれば、解体することによって「1.5から2.0」に近づけるギャンブル。それを詩作と呼ぶのかもしれない。
「答え」よりも「問い」「体験」そのものを重視し、読み手に「書き手の感覚」の追体験させるための手法としての「詩」。