十年前に他人になりました
よくある婚約破棄から十年後の話。
女性は上書き保存、男性は別名保存だよね、ということ。
ざまあ要素は薄め
王立学園の三年。そろそろ卒業も間近になった昼下がり。
ウェスト伯爵令嬢のアイリーンは、婚約者であるストーン伯爵令息のデビットに呼び出された。
デビットとは、二年前に婚約をした。家格の釣り合いや領地の近さから親同士が決めた婚約である。年も同じであり、アイリーンからすればまずまずの婚約だった。ちょっと身長が低めで、顔はジャガイモよりマシな程度だが、アイリーン自身も平々凡々な容姿だ。二十も年が離れているとか、コブツキの後妻に入ることに比べれば、よほどいい縁談と言えた。
「アイリーン、婚約をなかったことにしたい」
挨拶もなしに唐突に言われ、アイリーンは絶句した。
デビットに対して愛情はないが、婚約者として当たり前の交流はしている。毎週末のデートも、夜会や茶会への婚約者としての出席も。
ときめかないどころか、服装が会の趣旨にそぐわなかったり、ダンスを踊ろうともしない態度など、思うところが多いことを呑み込んでいた。
こんな人と結婚するのか、とため息をつくこともしばしばだが、我が儘を言ってエロ親父の後妻にでもされるよりマシだと自分に言い聞かせていた。
「君は、僕を愛していないだろう。ただ結婚したいだけだ」
その通りだ。嫁き遅れとして、跡取りの弟に迷惑をかけたくないから、結婚したい。不満はあっても、政略結婚なのだから致命的でなければ呑み込む。貴族の結婚とはそのようなものだと割り切っている。
それ故に、アイリーンは、このままだと行かず後家になるか、おじさんどころかおじいちゃんの後妻にされるのかと考えて頭を抱えたくなった。
「そんな……困ります」
まともな縁に縋り付くしかないのも、貴族令嬢に生まれた宿命だ。
「ふん、何を言われても、僕の気持ちは動かないぞ。愛のない結婚なんて……」
貴族同士の結婚に愛を求めるものではない。いたずらに仲悪くなる必要はないだろうが、家を存続させる手段と割り切るべきだ。生活していく中で、お互いの情を育めばいい。
「結婚にとりすがるなど、あさましくて気持ち悪い」
貴族の女からすれば、結婚は死活問題なのだから仕方ない。しかしながら、だんだんと面倒になってきたのも事実だ。
(逃して悔しい魚ではないわね)
デビットは、TPOを弁えない言動も多い。まだ若いから周りも寛容だが、十年経ったらそうもいかない。非常識な夫を持てば、妻も恥をかく。
これまでも、それとなく窘めたことはあるが、聞く耳を持たないどころか、逆ギレしてくるような男だ。結婚したら苦労しかなさそうである。
(官吏にでもなろうかしら)
婚約解消された令嬢に来る縁談などろくなものはない。かと言って、貴族の女がなれる職業は、官吏くらいだ。もしくは、王宮に侍女として仕えるか。女同士の鍔迫り合いが苦手なアイリーンにしてみれば、官吏になる方が楽である。
「おい、聞いているのか」
「そうですね。では、わたくしは結婚を諦めて官吏にでもなりますわ。王立大学の受験はまだ間に合うかしら……」
官吏になるには、大学卒業が必須だ。王立大学ならば、貴族なら学部を選ばなければ入れる。
「な……冷たいな。そういうところも、婚約破棄の理由だぞ」
「はあ」
何を言われても、もうアイリーンには響かない。婚約破棄をすれば、デビットは他人だ。他人が何を言ってこようが、それはどこかに吹きつける風のようなもの。
「それでは、ご機嫌よう、ストーン伯爵令息」
丁寧に礼を取り、そそくさと立ち去る。
家に帰って婚約破棄を報告すれば、両親から小言をもらうだろうが、家にも次期当主の弟にも迷惑をかけない将来像を話せば、学費は出してもらえるだろう。
アイリーンの頭の中には、これからの人生設計しか存在していなかった。
久しぶりの夜会に、アイリーンは目眩がしそうだった。元々、煌びやかな場所は苦手だ。おまけに、婚約破棄から十年、足を踏み入れていない。
婚約破棄当初は、社交界の噂の格好の餌食になるからと言い、大学に入ってからは学業に専念することを言い訳にした。首尾よく官吏になった後は、仕事を盾にした。
王太子のお披露目であり、国内の伯爵位以上の家の人間は原則参加でなければ、行きたくなかった。
「お聞きになって、今日はリヴァー侯爵もお見えになるそうよ」
「まあ、あの社交嫌いの侯爵が?」
「ロイン大学のご出身なのでしょう?学問に夢中な方ですからねえ」
くすくす、と貴婦人たちが嫌な笑いを浮かべる。
「でも、とても美しい方ですわよね。線は細そうですけれども」
扇の下で交わされる品のない会話の相変わらずぶりに、アイリーンはため息をつく。
(どうして、他人の噂ばかり話すのかしら……)
官吏として働くアイリーンには、考えることがいっぱいある。噂はただの雑談でしかない。
「そういえば、ロディ伯爵令嬢は婚約破棄をされたとか」
「まあ、それで今日はご欠席なのね」
「ご病気なら仕方ないですわ」
もし来ていたら、口さがない雀たちに傷口を抉られただろう。
(暇なのね、きっと……)
もし、とアイリーンは思う。官吏にならなければ、そんな人生になったかも知れない。それは、あまりに恐ろしい。
「アイリーンじゃないか」
いきなり不躾に名前を呼ばれ、アイリーンは眉を顰めた。家族や親戚ならともかく、まったくの他人が公の場で名前を呼ぶことは失礼にあたる。
「官吏になったと聞いたが、いい年をして婚約者でも探しに来たのか」
ニヤニヤと笑うジャガイモ。いいや、一回り大きくてカボチャだろうか。
「仕方ないから、僕が結婚してやってもいいぞ」
「失礼ですが、どちらさまでしょう」
カボチャに知り合いはいない。当然、親戚でもない。
「な……!」
憤慨する姿はスイカにも見える。
(それにしても、第一礼装ではないとは、失礼ではないかしら)
カボチャは、正装はしているが、第一礼装ではない。国王主催の夜会の中ではカジュアルに見え、若干浮いている。
「お前、元婚約者に対して、何という口の利き方だ」
「……」
お前、などと貴婦人に向かって言うには失礼過ぎる。まして、ここは社交の場だ。周囲の人々も、眉を顰めている。
「お前のような行かず後家と結婚してやれるのは僕くらいだと言うのに」
どこからどう説明するべきか、頭を抱える。すっかり忘れていたが、遠い昔に婚約していたカボチャはこういう人間であった。自分以外に世界に人が存在しないのだ。だから、マナー違反を当たり前のようにして、マナーの方がおかしい、と変な理論を平気で振り翳す。
(婚約破棄されて良かったわ)
仕方ないからと諦めていたけど、心底結婚しなくて良かったと思う。
「だいたい生意気にも大学など行って……まあ、王立大学なら誰でも入れるが。僕ならロイン大学でも余裕だ」
鼻で笑うが、本人は大学に行ってはいないだろう。
ロイン大学は、この国よりも古い歴史を持つ名門大学だ。王立大学のように貴族に対する忖度もなく、純粋に学問を極める場だ。それ故に、入学は狭き門である。アイリーンもそれを分かっているから王立大学を進学先に選んだ。
(相変わらず、ご自分に対する評価が高すぎるのね)
王立学園時代の成績は上位だったが、正直なところ、ロイン大学には届かないレベルだったと記憶している。
(それに、ロイン大学の方に失礼だわ)
ナチュラルに他人を見下すような言動をするのも嫌だったな、とぼんやりと思い出す。
「おい、聞いているのか」
「妻が何か?」
割って入ってきた夫に、カボチャがあんぐりと口を開けた。
「つ……妻だと!?どういうことだ、アイリーン!お前は、官吏になったのだろう?」
「あの……もう一度お尋ねいたしますが、どちらさまでしょう?わたくし、名前で呼ばれる覚えはございませんわ」
年のせいか、カボチャの名前が思い出せない。
「とぼけるな!お前は、結婚せずに官吏になると言っただろう!可哀想だから結婚してやろうという僕を裏切ったな!」
「アイリーン、この方は何を話しているのだ?」
銀の髪に伶俐な顔立ち。目つきが悪いことを除けば、充分に美形な夫は、少し怒っているようだ。もちろん、私にではなく、カボチャに。
「存じ上げませんわ。先程から聞くに耐えないようなことを言われて、困っておりましたの。失礼過ぎて、口も挟めなくて……」
夫が来てくれて安堵する。かなり学者馬鹿で、他人の気持ちに疎いところはあるが、頼りがいのあるいい人だ。
「なんだと、ふざけるのもいい加減にしろ、アイリーン」
「アイリーンではない。リヴァー侯爵夫人だ。親族以外がご婦人の名を公の場で呼ぶのは失礼だぞ」
友人同士であっても、公の場では家名と夫人、もしくは家名と令嬢で呼ぶのが礼儀だ。
「リヴァー侯爵……?」
「そうだが、私は君に家名を呼ぶ許可を与えた覚えはない。それとも、王家か公爵家の人間なのだろうか?いくら社交嫌いの私でも、王家と公爵家の方々は記憶している」
鋭い視線が刺さり、流石のカボチャも押し黙った。
昔と変わらず、権威には弱い。自分が何をしでかしたかを理解しているかは怪しいが。
「それに、人に物を尋ねるなら、まずは名乗るのが礼儀ではないか。五歳の息子ですら分かっていることだ。そんな失礼が許されるのは、物心つかぬ幼子だけだ」
ぴしゃりと言ってのける夫に、アイリーンは惚れ直しそうだ。いつもは学者らしい長広舌をどうしようかと考えているが、こういうところは頼もしい。
「子……子どもだと?なんとふしだらな!僕という婚約者がありながら」
ああ、とアイリーンは嘆息する。論点をずらし、自分の都合に合わせて言葉を捻じ曲げて受け取る。そういうところも嫌いだったが、「婚約者」だからと無理矢理自分を納得させていた。そんな過去の汚点を苦々しく思う。
「婚約者?アイリーンは私の妻だぞ」
「そうですわ。わたくしには夫がおりますし、過去にしていた婚約は十年も前に白紙になっております」
婚約破棄後、大学に入り、官吏になった。配属先が税収関連の部門だったことから、リヴァー侯爵家を継いだばかりの夫のユージーンと知り合い、婚約した。偶然にも弟とユージーンがロイン大学の先輩後輩だった縁もあり、とんとん拍子で結婚へと至り、アイリーンは官吏の職はそのままに、リヴァー侯爵夫人になった。
幸い、女性官吏が増えていたこともあり、二人の子の出産後も復職して働いている。
「く……お前は僕を愛さなかったから捨てられたくせに……」
「失礼ながら申し上げますが、政略結婚ですもの。愛など必要ではないでしょう?それに、結婚してからお互いの気持ちを重ねていくのも愛の形だと思いますわ」
究極の捻じ曲げ解釈人間に通じるとは思っていない。
「そうだな。私たちの結婚も政略結婚だったが、いまではアイリーンなしの人生など考えられない。研究ばかりの私を陰に日向に支えてくれる大事な人だ」
ユージーンは、研究大好き人間だ。領地経営も、現金収入もアイリーンがいるから成り立っている。だが、アイリーンはそんなユージーンを尊敬しているし、その優しさを大切に思っている。それが愛かどうかは分からないが、お互いにお互いを必要としているのは事実だ。
「かつての婚約者なのかも知れないが、アイリーンの人生に君は必要ない」
「ええ。名前も思い出せませんが、十年前に他人になった方ですもの。これから先、関わることもありませんわ」
ここまで言えば、流石のカボチャも諦めるだろう。いや、今時点でも充分に迷惑極まりないが。
ただでさえ珍しく夜会に顔を出したユージーンは注目の的。その上、この馬鹿騒ぎでは、お喋り雀たちを楽しませるだけだ。
「お前みたいなふしだらな女、こちらから願い下げだ!リヴァー侯爵も家名を下げますぞ」
「先程から言っているが、君に家名を呼ぶ許可を与えてはいない。ご当主に抗議させてもらうが、よろしいか?」
伶俐な横顔が刃物の鋭さを孕み、カボチャは一刀両断された。こんなはずじゃなかったのに、と卑屈な目つきでユージーンを見るが、冷たい視線だけが返され、すごすごと去っていった。
「申し訳ございません。ご迷惑をおかけいたしました」
「まともに話が通じる気配がない人だから、仕方ないさ」
さあ、行こう、と優しく肩を抱かれる。
「ええ、参りましょう、あなた」
十年も前に他人になった人は、すぐにアイリーンの記憶の片隅からも削除された。アイリーンには、大事な夫と可愛い子どもたちがいる。彼らを慈しみながら愛を育むことだけを考えればいい。
夜は、かしましい喧騒と共に更けていく。アイリーンは、会場の外れで夫と共に静かに見守った。