黒い湯に浸かる
私は図工の時間が好きだった。水彩画の授業は特に心が踊った。でも絵を描くこと自体はそこまで楽しみじゃない。
私がほんとうに好きなのはバケツで筆を洗う瞬間だ。絵具が溶けて、水に滲み出し、色が濁っていく様子。その変化を見るたびに私の胸は高鳴るのだ。
そして私は、汚れたバケツに手を突っ込んで指先に付いた色を舐める。痺れにも似た快感が全身に広がっていく。
ゾクゾクする……。
でも、足りなかった。
両親の留守の日をねらい、私は風呂の浴槽に水を貯めた。もちろん絵の具も用意している。準備万端だ。
私はさっそく服を脱ぎ捨て浴室に入った。湯船に浸かり、絵の具のチューブを握りしめた。青い絵の具が浴槽の水に溶けていく。やがて水は淡い青に染まった。私は満足げな笑みを浮かべながら水面に顔を近づけた。舌先でチロっとひとなめした。味わったことのない刺激的な味が口の中に広がった。まるで毒薬のように。
私は大きく息を吸い込み、もう一度口に含んだ。そしてゴクリと飲み込んだ。
「あぁ……」
体中が熱くなっていくのを感じた。心臓がどきどきする。
私は夢中になって浴槽に絵の具を垂らし続けた。やがて水は真っ黒になった。それでも私は手を止めない。さらに黒い液体を混ぜ続ける。次第にそれはなぜか生ぬるい温度に変化していった。
浴槽の底はもう見えない。
そのとき、足の親指と人差し指のあいだに妙な感覚があった。なにか糸のようなものが絡まりついたような。
その感触はあまりに気持ち悪く、私はすぐに取りたいと思った。しかし、どうしても足が上がらない。
仕方がないので手探りで糸をほどこうと私は両腕を沈めた。背中を曲げ、肘の辺りまで浸かった時、ふと視線を感じて顔を上げた。
そこには白い女の顔があった。私を見下ろしている。
「ひっ」
声にならない悲鳴をあげ、私は浴槽の中で滑って転んだ。勢いよく尻餅をつくように倒れ込む。腰から下はすっかり水の中に入っていた。
慌てて立ち上がって逃げようとした。だが、今度は足首に違和感がある。見れば、細い髪の毛が何本も絡みついているではないか。しかもそれらは徐々に私の体にまとわりついてくる。
「やめて!」
振り払おうとしても離れない。それどころか、腕にまで髪が伸びてきた。必死に抵抗するが、どうしようもない。あっという間に手首までも髪に覆われてしまった。私は恐怖で泣きそうになった。
そのとき、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。両親が帰ってきたのだ。
「お母さん、お父さん!」
私は叫んだ。すると、あれだけしつこくまとわりついていた髪が嘘みたいにするりと離れた。私は服を着るのも忘れて両親のもとへ駆け寄った。
二人は驚いた表情をして私を見た。
「おかえりなさい」
私が震える声で言うと、両親は互いに目配せをした。
「ただいま。どうして裸なの?」
母が言った。
私は答えられなかった。なぜだかわからないけど怖くて言葉が出てこなかったのだ。それに、あの不気味な出来事を話す勇気もなかった。
だから黙っていた。
「風邪引くぞ。早く着替えてきなさい」
父はそう言って階段を登っていった。母は呆れた様子でため息をつき、ほらとバスタオルを差し出した。
私はそれを受け取って体を拭いた。そして急いで部屋に戻った。扉を閉め、ベッドに飛び乗ったところで私は泣いた。怖かったからではない。いつも通りの両親に安心したからだ。枕のにおいも、散らかし放題の部屋も、風呂場の惨状に怒声をあげる母も、全部いつも通り。
涙が頬を伝った。涙はなんだか温かくて気持ちがよかった。
今日のごはんはなんだろう。
そんなことを考えながら私は眠った。
「ぬるま湯に浸かる」という慣用句から着想を得ました。
意味:緊張感や刺激の少ない環境に甘んじて、のんびりと気楽に暮らすこと。