浦島太郎姫
黒潮雑貨39「エア黒コン」参加作品。
――これまでのあらすじ
むかしむかし、助けた亀に連れられて龍宮城を訪れた浦島太郎は乙姫様たちと三年ほど退廃的に過ごし、故郷の浜へ戻ってみると実に七百年の時が過ぎていました。
◇
「なんてことだ。一族郎党皆死に絶えたとは……」
浜で出会ったおじいさんに教えてもらった浦島一族の墓所に参った太郎は涙を流しました。七百年も経っていては、一族どころか墓が残っていただけでも奇跡です。一頻り泣いた太郎は浜辺に戻ると海を見つめました。
故郷を失った太郎の手元に残されたのは、最早龍宮城を去る時に乙姫様からもらった玉手箱だけです。黒々とした漆塗りの、いかにも大切な物が入っていそうなその箱を、太郎は目の前に掲げました。
「乙姫様には決して開けるなと言われたこの玉手箱だが、今となってはもうどうでもいい。開ければ死ぬというのならそれも良かろう」
玉手箱を掲げたまま砂浜に膝を突いた太郎は、箱を膝の前にそっと置きました。封として結んであった錦の紐の先を摘むと、それはするりと簡単に解けてしまいます。ふたに手を掛け、意を決して「えいっ」という掛け声と共に玉手箱を開けました。
その途端、紫色をした雲が三筋、玉手箱から立ち昇ります。それは渦を巻くようにたちまち太郎を包み込み、その姿を覆い隠しました。
「うわっぷ」
怪しげなその雲を思い切り吸い込んでしまった太郎はあわてて息を止めました。死んでもいいとは思ったものの、紫の雲というものは吸い込むにはあまりに毒々しかったのです。しかし、どういう訳か雲はじきに霞と消え去り、幸いな事に毒でもなかったらしく苦しくなるようなこともありません。太郎はほっと息を吐きました。
「やれやれ、何事もなかった、か……え?」
そう呟いた太郎は、己自身の発した声に驚きました。何やら高いのです。まるで女のような声なのです。慌てて自分の身体を見下ろすと、巨大な山脈が視線を遮っていました。着物の合わせを内から押し広げ、深い渓谷を形作るそれに遮られて、そこから下は碌に見えもしません。わずかに、つるりとした膝頭だけが見えています。昨日まで散々お世話になった乙姫様のモノに勝るとも劣らぬ立派な山々でした。
「なんじゃ、こりゃあ!?」
鈴が鳴るような美しい声で叫んだ太郎は急いで立ち上がると磯へと走りました。一歩踏み出す度に上下左右と跳ねまわる胸が邪魔でとてもとても走りにくかったのですがそれどころではありません。潮溜まりを覗き込むと、昨夜まで色々とお世話になった乙姫様によく似た、美しい顔が水面から見返していました。否、乙姫様は妙齢の美女でしたが、水鏡に映った顔はそれよりも若いようです。お肌的にもプロポーション的にもピチピチの美少女でした。
「おうおう姉ちゃん。そんな格好して誘ってんのか? なら俺たちとイイコトしようぜ」
太郎が自分の身体をあちこち触って「ある! ない!」と騒いでおりますと、後ろから野太い声がしました。例え七百年経っていようとも、男というものは言う事もやる事も変わらないもののようです。太郎が振り返ると、この時代の漁師らしい男たちがニヤニヤしながらズチャラズチャラと近付いて来ていました。
「誰が男なんぞ誘うか!」
反射的にそう叫んで答えた太郎は、ハタと今の自分の格好に思い至りました。褌を締めて丈の短い着物を羽織り、縄よりマシという程度の適当な帯を巻いてあるだけです。多少濡れるのが前提の、典型的な漁師スタイルでした。男ならそれで普通ですが、間違っても女の子がする格好ではありません。その上、襟元は中からの圧力で左右に割れ、見事な谷間がこれでもかと見えてしまっています。
現代風に言うなら、胸チラパンチラのミニ丈着物に生足、といったところでしょうか。着物の裾から伸びた健康そうな太股が眩しく輝いています。これは誘っていると言われても仕方のない姿でしょう。太郎の額に冷や汗が浮かびました。明らかにピンチです。こんな男たちに捕まってしまっては、何をされるか分かったものではありません。
いや、むしろはっきり分かっていると言うべきでしょう。昨夜まで己自身が乙姫様に散々やらかしてきたあれやこれやを、自分がやらかされてしまうのです。太郎としても、それはさすがにご免蒙りたいところでした。
太郎は辺りに視線を巡らせました。磯にいたので後ろは海、前には男たちがいます。左手は岩場で、その先は崖が切り立っていますから到底登れそうにはありません。右手はすぐに砂浜で、そこは龍宮城から戻ってきた太郎が上陸した場所でした。
「浦島様ー!」
その砂浜の方から太郎を呼ぶ声が聞こえました。そちらに目を向けると、波打ち際近くの海面に大きな亀が浮かんでいるのが見えました。かつて自分が助け、龍宮城へと送迎してくれた海亀です。太郎は迷わずそちらに向かって駆け出しました。亀の方も泳いでこちらに向かってくれています。
「逃がすな!」
「待て!」
「待てと言われて待つ馬鹿が居るものか!」
咄嗟に言い返したものの、一歩踏み出す度にずっしりとした重みが身体の前で跳ね回るので走りにくくて仕方がありません。打ち寄せる波に足を踏み入れつつ、それでもなんとか追いつかれる前に亀の甲羅にしがみつくことができました。太郎が逃げろと言うと、亀はそのまますいすいと沖へ向かって行きます。
「ふう、やれやれ」
陸がほとんど見えなくなる辺りまで離れたところで、太郎はようやく息を吐きました。男たちもさすがに船を出すことまではしなかったようで、追いかけてくる気配はありません。一難去ったと落ち着きを取り戻した太郎は、ここで我が身の事を思い出しました。
「おい、俺をもう一度、乙姫様の所に連れて行ってくれ」
「おや、里心がついて帰ったんじゃなかったんですか?」
「七百年も経っていた上にこの有り様だ。どうしようもないではないか。さっきのを見ただろう!?」
身寄りも無い若い女の子が一人でうろついていたら碌な事にはならないでしょう。死んでも構わないと思っていた太郎ではありますが、そんな展開は望んでいませんでした。
「仕方ありませんねえ。では行きますよ」
亀はやれやれといった様子で首を振ると、太郎を乗せたまま、とぷんと海に潜りました。
◇
「あ、帰ってきた帰ってきたー」
「乙姫様、これは一体どういう事ですか!?」
無事龍宮城へと戻って来た太郎は、のほほんと出迎える乙姫様に詰め寄りました。二人は傍から見るとのんびりした姉とせっかちな妹のようです。
「ちゃんと説明してあげるから、先にほら、こう右手を上げてー」
乙姫様は太郎の手を取って肩の高さまで持ち上げると、そこに自分の右手をパチンと打ちつけました。
「はい、タッチ交代ー。乙姫就任、おめでとー」
「はあ?」
「じゃあ説明するわねー。私たちは七つの海を支配もとい海の平和を守ってるのそれはもちろん私一人じゃどうしようもないから各地に怪人もとい魚人を派遣するんだけど当然それは作らないといけなくてその製造担当責任者が乙姫なのよでも一人の乙姫が生み出せる怪人もとい魚人の数には限度があってそれに達すると年季明けもとい任期切れになるのだからそうなったらお馬鹿なもとい協力的な人間を拉致もといお迎えして次の乙姫にするのそれに必要な生体改造もとい転換の術は本人が起動させないと効かないんだけど人間って開けるなって言われた物は絶対開けちゃう哀れな存在だから玉手箱に仕込んでおけば確実なのねそんな訳で今からあなたが乙姫様なの分かってもらえたかしらー」
「え!? え!?」
のんびりした口調しか聞いた事のなかった乙姫様の超絶早口に、太郎は目を白黒させました。その上、何を言っているのか一つも理解できません。太郎が呆然としていると、その腕が左右からガシリとつかまれました。
慌てて顔を振り向けると、鯛やヒラメの顔が見返しています。太郎が乙姫様と楽しんでいる時に舞を舞ったり身の回りの世話をしてくれたりしたのは鯛やヒラメの顔をした女官でしたが、今太郎の左右に居るのは筋骨隆々な男の身体をしていました。彼らはそのまま太郎を奥へ奥へと引っ張って行きます。開いたままの扉の向こうにあるのはもちろん太郎もよく知る寝所です。
「何、なに!?」
「大丈夫よー。この子たちに任せておけば、すぐに気持ちいいこと以外何も考えられないようにしてくれるわー」
「ちょ、ま、やめ……」
パタンと軽い音を立てて扉が閉まると、太郎の声は一切聞こえなくなりました。龍宮城は防音設備も完璧なのです。
「まあ、最初の百年や二百年は気持ちよさに浸っている間に過ぎるでしょ。悩むのはそれからで十分よね。だって私もそうだったもの」
太郎を見送った前乙姫様は、くるりと扉に背を向けました。任期を終えた前乙姫様はもう自由です。寿命を取り戻したことでいずれ死ぬ身体になりましたが、それはまだ数十年先でしょう。人としての生を送るには十分です。
「さて、どうされますか?」
それまで静かに脇に控えていた亀が口を開きました。その背中にはいつの間にか箱が一つ乗っています。太郎が開けた玉手箱と同じ大きさですが、こちらは見事な金蒔絵です。それにちらりと目を向けた前乙姫様は、ゆっくりと首を横に振りました。
「今さら男に未練は無いわ。それより、浜まで送ってくれる?」
「それはもちろん」
「さっきの男の子たち、まだ居るといいわねえ」
「そちらは保障致しかねますな」
邪な願いにただでさえ大きな胸をさらに膨らませる前乙姫様を背中に乗せ、亀はゆっくりと龍宮城を離れていきました。
(完)
※現代に伝わる浦島太郎の伝承には諸説あります。その一つに、太郎がもらった「玉手箱」は「玉出箱」の誤記であり「玉入箱」とセットだったのだ、というものがあるそうです。
※もちろんフィクションですので、お信じになられませんよう。
誤字脱字などありましたら、ご指摘くださると幸いです。